定年後は旅に出よう/シルクロード雑学大学(シルクロードを楽しむ会)長澤法隆

定年後もライフワークのある人生を楽しみたい。シルクロード等の「歴史の道」を調べて学び、旅して記録する楽しみ方を伝えます。

キルギスで日本人抑留者の足跡を巡る旅 3

2018-07-24 09:47:43 | 中央アジアのシベリア抑留
  

キルギスで抑留者の足跡を巡っているが、昨日(7月23日)のレポートの続きを書きます。

キルギのイシククル湖南岸にあるタムガ村には、サナトリウムがある。その中の建物の一つ、診療所の建設には日本人抑留者が関わっていた。最初の写真はサナトリウムの入り口。
2007年に来た時には、このゲストハウスはなかった。リュウバさんという女性とそのご主人が経営するゲストハウスが1軒だけあり、そこに泊ったのだった。このゲストハウスは、経営する夫婦がアルピニストだけに、ベデル峠を目指していた私には絶好のゲストハウスだった。ところが、2008年には、日本人抑留者の足跡を求めてタムガ村に行った。サナトリウムと今でも付き合いのあるアスカルさんのネットワークを借りたかったのだ。

   

最初の写真は、サナトリウムの前にあるゲストハウス、アスカル&タマーラ、続く写真が経営しているご夫婦だ。ご主人は、サナトリウムで副所長を務めていたが今では定年。奥さんは学校で英語の教師をしていたが定年。12年前に長女を病気で亡くし、落ち込んだ気分の時に「若い人に関わり、若い人の生き方にプラスとなることをしたい」と考えて、奥さんの英語を生かせるゲストハウスを始めたのだった。そして、10年前の2008年、このサナトリウムの診療所の建設に関わった日本人抑留者のひとり、宮野泰さんと一緒に訪れたのだった。

タムガ村で、日本人捕虜のことを証言できる人は、今では一人だけ。パロージャさんという元ドライバーだけだ。それに加えて、親がサナトリウムの建設に関わっていたという人の子どもたち、サナトリウムに勤めていた人たちが、数名いるくらいとなっている。

  

車でカラコルに移動して、最初に行ったのは青年海外協力隊のボランティアの人たちが、キルギスの人たちと一緒に開発した製品のアンテナショップ。ジャム、石鹸、ハンドクリーム、フェルト製のぬいぐるみなどが並んでいる。ここで、石鹸とジャム、ハチミツを購入した。青年海外協力隊のボランティアには、キルギス平和センターの開設の時にお世話になっている。ここで購入したせっけんなどを当時のボランティの人にお土産にしたら、パッケージなどがきれいになっているので驚くだろう。


     

カラコルの郊外、南側にあるレンガ工場を2008年に取材したことがある。「タムガ村のサナトリウムにある診療所の建設の際に、カラコルのレンガ工場へトラックでレンガを受け取りに行った」と、日本人抑留者の証言を得ていたからだ。この時、道端で遊んでいる子供にドライバーが「レンガ工場はあるか」尋ねた。子供は「近くにある」と応えたので、車に5歳くらいの子どもをのせて案内役とした。ところが、「ここだよ」と子供が案内してくれたのは、煉瓦でできたアパートだった。到着すると、「レンガ造りのアパートだ。レンガ工場じゃないじゃないか」と案内されたガイドも、ドライバーも大笑いしていた。

だが、もう一度訪ねて、日本人抑留者の足跡を明らかにしたかった。目標は山側にある高い煙突だ。道を尋ねながら煙突を探した。レンガ工場を見付けた。穴の開いたレンガ、焼く前のものが外に並べられていた。工場に入ると、写真撮影の許可をお願いした。上役を2人紹介されて、3人目の人に今回はOKをもらった。

レンガを焼く窯は、中国で見かけるスタイルだった。工場の責任者は、顔写真の撮影を認めなかった。だが、「この工場は新しい、60年代の建設だと思う。この下の方(北側)に、古い工場がある」という。また、こちらの工場で作っているレンガには、穴がある。古くからあるレンガ工場は、穴のないレンガを今でも作っている。窯の仕組みも全く違う。とも話してくれた。古くからある工場の隣りに、レンガづくりのアアパートがあるのだ。今回の取材で分かったのだが、カラコルの市街地から子供が案内してくれたアパートに続く道路は、“レンガ工場通り”という名称だった。また、このアパートは、レンガ工場で働く従業員のための住宅だったのだ。10年前、遊びの途中でバスに乗って案内してくれた子供の言うとおりだった。

 

直ぐ下にある工場へ行くと、ちょうど到着した車のドライバーが「ここはセメント工場だったところで、新しい建物だから日本人とは関係ない」という。
ホテルへ戻ろうとすると、工場から50歳くらいの男性が出てきた。
彼に事情を話すと「知っているよ。紹介するからついてきなさい」という。工場の裏手に行った。
「この地面が凹んだところは、下水処理場だったんだ。
水を干すと、処理場の底から「並べられたレンガ」が出てきたんだ。工員たちは、みんな喜んでレンガをもらったもんだよ。家の建築や建て増しに使ったんだな。この凹みの先の北側に屋根が見えるだろう。あれが一番古いレンガ工場だ。日本人も働いていたと、父親から聞いたもんだよ。父は、日本人から鉄砲をもらったと言っていて、山へ行って野性のを山羊(マルコ・ポーロか?)をとったったもんだと話していたんだ」と、思いがけない話を聞くことができた。

  

一番古いと紹介されたレンガ工場をさがした。ガイドはスマートフォンで地図を確かめながら、「この通りは『レンガ工場通り』と、いうんですね」と話しかけてきた。スマホの普及した時代だから、手元で地図で確認できたのだった。
このエリアは、以前からレンガの生産に関わっている地域であることが判った。古いレンガ工場と教えてもらった建物に入ると、2008年に取材を断られた工場だった。ただし今回は写真撮影も許された。工場に入ると、レンガを確かめた。確かに、ここの工場で作っているレンガには、穴がない。レンガを焼く窯も、初めて見るスタイルだった。

レンガ工場は、古くから捕虜収容所として機能していたとも聞いた。60年以降に建設されたレンガ工場も、ソビエトでは収容所として使っていたのだった。ソルジェニーツィンの描いた「収容所」は、こんな秘境にもあったと知り踊りた。
   






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