定年後は旅に出よう/シルクロード雑学大学(シルクロードを楽しむ会)長澤法隆

定年後もライフワークのある人生を楽しみたい。シルクロード等の「歴史の道」を調べて学び、旅して記録する楽しみ方を伝えます。

キルギスで日本人抑留者の足跡を巡る旅 2

2018-07-24 00:07:29 | 中央アジアのシベリア抑留
   

7月21日 タムガ村に滞在して、標高1600メートル程のイシククル湖湖畔から標高約3800メートルのバルスコーン渓谷の上部まで車で行く。この渓谷は、標高2800メートル地点にソビエト時代の国境の出入りを管理するゲートがあった。今では、カナダの会社がクムトールという金鉱山を稼働させるために従業員や化学物質、金を移送するなどのために、舗装されていないが道路整備を毎日行い路面状況はいい。

この道路を一人のサイクリストが下ってきた。標高差1000m、距離10キロメートルほどを一気に下るいろは坂だ。坂の途中、急なカーブは路面状況が厳しい、土がパウダー状となっていてタイヤをとられて転倒しやすいのだ。この坂を何度か自転車で下っているが、ひとりで下るサイクリストとも何度か出会っている。無事に目的地まで到達してほしい。

   

標高3800メートルを越えると高山植物を何種類も見る事ができる。わたしは、睡眠不足もあり足が重かった。高山病になる人はいなかった。高所での滞在時間が少ないのと、お酒を飲む人がいないのが、トラブルのない大きなメリットだなあ。なお、クムトールの金鉱山へ行く道とナリンへ行く道の分岐点には、行先を案内している案内板がある。だが、ペンキは剥げていた。ナリン方面から激坂に向かう道路には、「stop」と標識を英語で表示していた。

  

再びバルスコーン渓谷の上部に下り、再び日本人抑留者が石灰を作る作業をした石灰石を焼く「窯」を見に行った。というのも、2008年に「窯」を見た時、窯の数は3個だった。ところが、2012年には1個しか見当たらなかったのだ。でも、今回は、半分くずれた「窯跡」を見付けることができた。この窯の上には1軒の家があり、ウマや牛などを放牧している。小さな子供が、川原まで降りて水をくんでいた。湧き水だった。人と暮らしや旅に水が大事なことを実感した。素直な子供たちだった。天山山脈の湧水を毎日飲んで過ごせるなんて、うらやましい限りだ。尚、この家に近づくときは、犬に注意が必要だ。

 

   


今日もキルギス平和センターへ足を運んだ。キルギス平和センターは、診療所の建設が進むと抑留された日本人125名がテント暮らしから自分たちが建設に関わった診療所の一室で生活をすることになった。その一室に開設しているのだが、展示している写真や新聞記事は半分のスペースに詰め込まれていた。展示物の一部は上下逆になっているものもあった。また、抑留に関する本も寄贈して展示してもらっていたのだが、1冊も見当たらなかった。

サナトリウムの所長が替わったのかもしれない。もう一度国防省と交渉して、本の展示などを復活してほしい。ただし、玄奘三蔵が天山山脈を越えたベデル峠へのチャレンジには、国防省の許可が必要だ。何とか円満解決をして、ベデル峠への到達をもう一度めざしたい。幸いなことに、法政大学探検部のOBでこのルートに関心を持っている人がいる。ぜひとも私も加えてもらい峠に立ってみたい。この峠に立った日本人は、まだ一人もいない。私が記録を見る限りではの話だが。

  

タムガにあるサナトリウム、日本人が建設に関わった建物の入り口には、コーヒーなどをサービスしている二人の女性がいる。また、「キルギス日本センター」は、診療の一環でマッサージを行っている人の診療室にもなっている。見学する時には、診察に迷惑のかからないように静かに行ってほしい。
タムガ村でも、日本人抑留者の実態を知っている人は、少なくなっている。94歳のワロージャさんは、トラックドライバーとして、レンガや石灰、砂岩、野菜の運搬に日本人と一緒になって取り組んでいた。日本人抑留者の当時を知る数少ないキルギスの人なのだ。


別れ際に、「来年も来るのかね。わたしは、こんな年寄りになるとは考えもしなかったのに、これからどうなるか。決まっているよね」というので、「急ぐ必要はないですよ。行くところはみんな同じなんだから」と応えた。その返事は「ゆっくり行くんだな。あはは」だった。






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