定年後は旅に出よう/シルクロード雑学大学(シルクロードを楽しむ会)長澤法隆

定年後もライフワークのある人生を楽しみたい。シルクロード等の「歴史の道」を調べて学び、旅して記録する楽しみ方を伝えます。

トルクメニスタンに抑留された元日本兵の手記

2018-09-01 20:02:22 | ツール・ド・シルクロード トルクメン
  

トルクメニスタンのクラスノボトスク(現在はトルクメナバッド)に抑留された元日本兵の手記が届いた。

タイトルは『第四十四捕虜収容所』、著者は石場清四郎氏だ。

著者の石場清四郎氏は、彫刻を学んでいる。帰国後は、彫刻家として暮らしていたという。

大正8年 弘前市生まれ
昭和17年 東京美術学校彫刻科塑像部卒、
     現役兵として北部十六部隊に入隊
昭和20年 鞍山で敗戦を迎え、カスピ海沿岸クラスノボトスクの第四十四捕虜収容所で足かけ4年間捕虜生活を送った。
などと著書の経歴にはある。

パラパラと呼んだが、驚くことに著者は抑留中にアゼルバイジャンのバクーに行っているのだ。脱走ではない。捕虜3人でロシア人の兵士とともにだ。

「1948年2月、我々3人の日本人捕虜は、ロシア軍の士官に連れられ、ガゲスタン号という連絡船で、カスピ海を横切った。始めてカフカ―ズの地を踏んだのである。」

とある。バクーに近づくと海面に油が浮いて褐色になっているというような記述もある。また、

「ロシア人をのぞけば、トルクメン共和国とはガラリと変わった異国情緒となる。所謂カフカーズ風なのだ。対岸のトルクメニスタンは蒙古風が濃く、此処はペルシャやアラブ風が濃く感じられる。」

と言う風で、視覚的な記述が目立つ。

バクーでどんな労働をやったのか。どんな場所で何日くらいバクーにいたのか。気になるのだが、記述はない。クラスノボトスクでの労働に関する記述もない。断片的に抑留に関することが書かれているのだが。

これまでに
『第四十四日本人捕虜収容所』(文集)
『カスピ海を旅立つ』広川正夫著

が、クラスノボトスクの収容所の事を記録していることが判っている。
上記の2冊とは異なるけれど、気候や風土を理解するのに役立つ記録だ。

例えば、次のような記述がある。
「クラスノボトスク第四十四捕虜収容所の冬はわずかに2か月くらい、気温も最低で氷点下5・6度、凍ることは年に2.3回あるかなしだった。雪も2.3回降ることもあるが、必ずしも真冬ではない。ハエは3月からもう増え始める。4.5月はものすごい勢いで増え、7.8月の真夏にはぐっと少なくなって、秋になると又猛烈な増え方をするのだった。そして、これは毎年規則正しく繰り返す。
冬でも、動きの鈍くなったハエが飛んでいるとも書いてある。かなり暖かい様子がわかる。

実は、トルクメニスタンを行く計画があり、季節により変化する気候やだいたいの気温がわかり、服装などの準備の参考にしようと思っている。ただし、70年以上前記録だ。街の様子はかなり変わり、伝染病などを防ぐために工夫されているなど衛生、観念も変わっているだろう。ただし、気候や気温は大きく変化することはないと思う。


 

一部だけだが名簿を持っているので、名前を突き合わせながらじっくりと読んでみたい。


 

世界遺産メルブの遺跡には、仏教遺跡、イスラム教の寺院の遺跡、キリスト教の教会の遺跡が発見されている。文字通り、文明の十字路と言える。
以前、トルクメニスタンに行ったときには、世界遺産に登録されているメルブの遺跡にラクダやヒツジが放牧されていた。のんびりりしたものだった。
今ではどのようになっているのだろうか。


「ツール・ド・シルクロード20年計画」 トルクメニスタン04

2018-01-26 21:34:12 | ツール・ド・シルクロード トルクメン
  

トルクメニスタンは永世中立国だ。ガスなどの豊富な地下資源があるので、私たちがサイクリングに出掛けた時は、ガスも電気もタダだった。教育費も無料だった。日本から見たら天国のような政策が行われていた。

市民はおっとりしているように感じた。ぎすぎすした人は見かけない。

トルクメナバットのホテルでは、とても暑かった。ホテルの中をあちこち歩き回ったら、炊事場のガスは火が付いたまま。ヤカンも鍋もかかっていなかった。ガス代がタダだからこんな風にしているのか。ガス台の着火システムが壊れやすいので、火をつけたままにしているのか。不思議に思ってみていたことを覚えている。それにしても、夏だというのに暑かった。

  

トルクメニスタンで最も関心があったのは、骨董品のバザール。外国人があまり入っていないだけに掘り出し物が多かった。

  

それでも、地下街には今風のお店もあるし、モンゴルやキルギスと同じようにユルタという移動式の住居がある。しかも庭にもあった。何処へ向かっていくのか。興味深い国だ。

「ツール・ド・シルクロード20年計画」 トルクメニスタン03

2018-01-21 18:58:06 | ツール・ド・シルクロード トルクメン
 

中央アジアにあるトルクメニスタンは、個人では旅行できない。トルクメニスタンでは、ガイドとバスを雇った団体ツアーにだけビザを発給しているのだ。

だが、2回自転車で旅行している。3回目を計画中だ。

ソビエトは、第2次世界大戦の日本の敗戦時に、ユーラシア大陸の東部の沿岸部地域やサハリンから朝鮮人を抑留して中央アジアに移送している。

また、日本人と判るとソビエト兵によって子供たちが殺されると考えた日本人の夫妻は、サハリンやユーラシア大陸の東部にに暮らしていた朝鮮人に子供を預けたことが多かった。朝鮮人に預けられた日本人の子供たちは、ソビエト兵によって朝鮮人の子供人と判断され、子供たちを預かった朝鮮人と一緒に中央アジアに移送されたケースも多い。

タシケントやアルマトイ、ビシケクといった中央アジアにある都市にあるバザールでは、キムチを売っている朝鮮族を見かけることが多い。ハングルで呼びかけても「私たちはロシア語しか話せない」とロシア語で返ってくることが多い。朝鮮人が中央アジアで暮らしていることが、バザールでキムチを売っている人たちの姿を通して、民俗の悲劇と思われる歴史を垣間見ることができる。

トルクメニスタンのバザールにも、キムチを売っている人の姿を見かけることができる。ただし、日本や朝鮮半島のキムチと異なること異なることがある。
キムチに使っている具材だ。朝鮮半島では、キムチに魚を使用している。だが、中央アジアでは羊の内臓など身近に入手できる食材を使用していた。お酒のつまみには最高だ。今の私はお酒を飲まないけれど、中央アジアのキムチも大好物だ。

     

 

「ツール・ド・シルクロード」トルクメニスタン02

2018-01-13 19:14:50 | ツール・ド・シルクロード トルクメン
   

中央アジアにあるトルクメニスタンを自転車で旅行したのは2002年。当時から、個人の旅行社にはビザを発給していなかった。

自転車で旅行したのは2名だが、バスと通訳を雇っての旅行となった。それだけ個人負担が大きくなる。

当時でもトルクメニスタンはできるだけ外国人の入国を少なくする政策をとっていた。そのためにトルクメニスタンを旅行したことのある人も少なかった。

今でも、団体旅行者にだけしかビザを発給していない。トルクメニスタンを旅行するには、ビザの発給を受けられる団体を見付けたらすぐに参加させてもらうのが一番いい。そうでなければ、ドライバーとガイドを雇って団体として入国することになる。

2回目は2006年頃に入国したと思う。この時もサイクリングだった。2回とも英語のガイドだった。今では、日本語を話すガイドもいるという。

トルクメニスタンへ旅行し、この地に抑留された人たちが暮らしていたトルクメンバシへ行き慰霊してくる予定だ。自転車は無理でも、慰霊したい人の参加も歓迎している。家族にトルクメニスタンに抑留された方がいたという人の参加を大いに歓迎しています。

トルクメニスタンにも抑留されたまま今でも住んでいる朝鮮人がいます。ただ、彼らはハングルを理解できない人が大部分です。ロシア語での会話となります。でも、キムチを作ってバザールで売っています。言語は変わっても、生活習慣は変わっていない部分もあるようです。

旅行の事を詳しく知りたい方は、ここをクリックしてください。問合せ、参加を希望する人は042-573-7675まで連絡をください。。

  

NHKで紹介 カザフスタンに残留した日本人抑留者・阿彦さん

2018-01-10 19:45:10 | ツール・ド・シルクロード トルクメン
    

NHKでカザフスタンに抑留されて、いったん帰国したのちに、カザフスタンへの残留を決めた日本人の事を取り上げた番組が放送されます。よろしくお願いします。
カザフスタン残留日本人の阿彦哲郎さんについて、
昨年12月に、カザフスタンの国立劇団の来日公演を取材し、
阿彦さんご自身にもインタビューすることができました。
あす、下記番組内にて、リポートを放送させていただく予定となりましたので、お知
らせいたします。
▼1月11日(木) 22:00~22:50
NHK BS1「国際報道2018」
番組後半で、5分前後のリポートを放送させていただく予定です。
(放送日時は変更の可能性もあります。ご了承ください)
お時間がございましたら、ぜひご覧いただけますと幸いです。