定年後は旅に出よう/シルクロード雑学大学(シルクロードを楽しむ会)長澤法隆

定年後もライフワークのある人生を楽しみたい。シルクロード等の「歴史の道」を調べて学び、旅して記録する楽しみ方を伝えます。

探検家の酒場『モーリー』へ ナンと馬肉の腸詰を手土産に

2018-07-28 17:58:58 | 中央アジアのシベリア抑留
  

キルギスからの帰国は、昨日(2018年7月27日)だった。成田空港を12時30分頃発の電車に乗ったのだが、乗り換えを間違えてしまい、家に着いたのは16時30分。すぐに探検家の酒場『モーリー』にメールを入れて、法政大学探検部OBと会うことにした。家を出たのは、17時だった。お店到着は18時の予定。

曇り空だったので、今日ならば帰りの気候も気持ちいいだろうと思って、急に決めたのだ。

実は、神楽坂にあるお店を見つけるのに時間がかかった。お祭りということもあり、消防団のおばさんやおじさんに道を尋ねるのだが皆目不明。1時間探し回って、電話をして何とかたどり着いたのだった。東京の地理も難しいなあ。

お店を経営しているのは、坂口さんで法政大学探検部OB。1995年頃に「中国の西安で自転車を買って、トルファンでロバを買って乗り換えてカシュガルまで人力で行きたい」という相談をしてきたのだった。自転車はともかく、ロバの買い方や調教は分からないので、新疆ウイグル大学医学部でウイグル医学の研究をしていた知り合いのマリアさんという教授を紹介した。「この人に教えてもらって」と電話番号を教えて丸投げしたのだった。

そして、目的を達成した坂口さんからハガキが届いた。相談から半年ほど先の事だったろうか。

お店に到着すると、男ばかり5人ほどでテーブルを囲んでいる。ビールの注文を聞いていたら、「コッヘル大のビール」「コッヘル中のビール」。注文に応じて店長は、コッヘルにビールを入れて、ふたをしてお客に持っていく。普通にジョッキーで注文する人もいるのだが。私はウーロン茶だった。

 

今は法政大学大学院の博士課程で学んでいる斎藤さんという計画に加わったOBもいるが、探検部のOB会の行事、と言っても飲み会だろうけれど、それがあるので2時間くらいで戻ると思うと坂口さんは説明した。キルギスから買ってきたナン2枚(1枚20ソム、30円位)、馬肉の腸詰をお土産として渡した。こちらの値段は忘れた。まあ、お腹が痛くなっても、神楽坂の周辺には大きな病院もある。いつでも救急車を呼べる。山の中と違って、心配はない。でも、なるべく早く食べてほしい。

 

実は彼らもベデル峠へに関心を持っている。もっとも若いので問題はない。問題は私なのだ。高齢で、脳梗塞、心不全での心臓の手術をしており、呼吸器関係が弱ってもいる。今日病院へ行って検査をしてきた。血圧は120の70。酒を飲んでいないこともあり、数字はいい。あとはトレーニングだ。

 

メールでのやり取りの時から、玄奘三蔵が天山山脈を越えたベデル峠へ一緒に行こうと呼びかけていた。というのも、学生時代に彼らが西域南道を自転車とロバで踏破したのは、玄奘三蔵の足跡をたどって、ベデル峠を越えたかったからだということが判ったのだ。ルートの路面の事のことなどを話してみた。また、キルギスの地図も渡してお店に貼って雰囲気を作ってほしいともお願いした。

ベースとなる宿泊施設として、タムガ村にあるゲストハウスも教えた。

ソビエトの探検家と言えば、プルジャヴァリスキーの名前は、中央アジアに関心のある探検部の人だったら誰でも知っているだろう。彼らを輩出したのがせミョウノフで、チャンシャンスキーの称号を与えられている。彼の銅像がイシククル湖の西の入り口にある。
岩絵の石はどうして黒くなるのかも話してみた。

  

玄奘三蔵が天山山脈を越えたルート。1946年から1948年までタムガ村に抑留されていた日本人抑留者は、脱走するルートとして相談していた。ただし、食料や水の調達、気温などを考えて断念している。
またこのルートは、1916年、ロシア人に迫害されることを恐れたキルギス人が、逃れようとしたルートだった。ベデル峠の500mほど手前(北側)に平らな空間がある。そこで多くのキルギス人が殺され、遺骨が重ねられていたという。キルギス人の有志がこの遺骨を運んで、ベデル峠の10㎞ほど手前に軍の検問があるのだが、その一角に慰霊碑のを建てて埋葬したと聞いている。

それぞれの時代のそれっぞれの人にとって、このルートは生きる希望の道であり、夢への道だったのだ。

「夢を実現する」象徴として、ベデル峠へと歩いてみたいものだ。

探検家の酒場『モーリー』で、店主の西安からトルファンまでのサイクリングの様子、トルファンからカシュガルまでのロバでの踏破の様子を伺いたい方は、https://www.facebook.com/morrlv/
上記をクリックしたうえで、お店の開店時間などを確認してください。

尚、私はウーロン茶を3杯を飲んで、ワニの肉を食べました。1900円でした。探検部OBの方が世界の各地からお酒を持ってきてくれるので、お店にいながらお酒の探検もできそうです。旅行好きのお客さんが多いので、お客さんからも世界各地の情報を聞くことができるでしょう。
話しもお酒も、お楽しみに。


満州で拾った写真の持ち主や家族を探しています キルギス人のお願い

2018-07-28 14:51:05 | 中央アジアのシベリア抑留
 

7月25日(水)、17時30分から19時まで 在キルギス日本センターで「キルギスの日本人捕虜」と題して話をした。

前半は、中央アジアのキルギス、東部にあるイシククル湖湖畔の小さな村タムガで1946年から1948年まで抑留されていた武内栄さんへのインタビューのビデオの上映だった。

インタビュアーは、ビシケク人文大学で日本語を学び、国士舘大学に留学していたキルギス人の女性ジルディズさん。

通訳は、在日10年になる在日キルギス大使館書記官のチムール氏。キルギス人による、抑留された日本人へのインタビューは初めてのものだと思われる。

講演では、シルクロード雑学大学では、定年前や定年後も自分なりの目的をもって過ごしていくことを提案していて、シルクロードと自転車をメインに自分たちの活動をしていること。

中国の西安からイタリアのローマまでの15000キロを、夏休みを利用して少しずつ西へと進んでいたこと、そして2007年にタムガへサイクリングに行き「日本人と働いたことがある」というキルギス人に話を聞いたこと、

キルギス国防省の協力を得て、日本人抑留者がサナトリウムの中の一つの建物を建てた事を伝える「キルギス日本センター」を開設したことなどを話した。日本語を話せるキルギス人が増える事で、日本人抑留者の事を一緒に調べて、相互交流や相互理解に生かしたいとも伝えた。

今回のキルギスへの旅行では、日本人抑留者がカラコルまで行ってレンガをトラックで運び、調達してきたレンガ工場の目星を付けることができた。

講演のあとで、ひとりのキルギス人が駆け寄ってきた。友人の前在日キルギス大使リスベク氏も参加していて、通訳をして手伝ってくれた。リスベク氏の通訳によれば、

「おじいさんが満州で拾った写真を、持ち主や家族に返したい。写真に写っている人が、東洋人の顔をしているので日本人かと思って、在キルギス日本大使館に連絡をしたら、この講演の事を教えてもらった。明日10時に日本大使館へ行くので、あなたの話を聞いて、写真の持ち主を探したいので手伝ってほしい」
というのであった。この男性の名前は、チンギスさんだ。翌日の7月27日、午前10時に在キルギス日本大使館へ行き、大使館の書記官と一緒に
チンギスさんの話を聞いた。また、今朝、写真のデータがメールで送られてきた。

facebookやブログで紹介して持ち主を探すことにした。また、テレビや新聞の記者をしている知り合いにもメールを送って、協力をお願いしています。

こころ当たりのある方は、

nagasawa_horyu★yahoo.co.jp
(★マークを小文字の@マークに換えて)メールにてお知らせください。
電話042-573-7675 携帯080-7940-6040
でも受けています。

マスコミ関係者の問い合わせも歓迎してます。よろしくお願いします。

 



キルギスで日本人抑留者の足跡を巡る旅 3

2018-07-24 09:47:43 | 中央アジアのシベリア抑留
  

キルギスで抑留者の足跡を巡っているが、昨日(7月23日)のレポートの続きを書きます。

キルギのイシククル湖南岸にあるタムガ村には、サナトリウムがある。その中の建物の一つ、診療所の建設には日本人抑留者が関わっていた。最初の写真はサナトリウムの入り口。
2007年に来た時には、このゲストハウスはなかった。リュウバさんという女性とそのご主人が経営するゲストハウスが1軒だけあり、そこに泊ったのだった。このゲストハウスは、経営する夫婦がアルピニストだけに、ベデル峠を目指していた私には絶好のゲストハウスだった。ところが、2008年には、日本人抑留者の足跡を求めてタムガ村に行った。サナトリウムと今でも付き合いのあるアスカルさんのネットワークを借りたかったのだ。

   

最初の写真は、サナトリウムの前にあるゲストハウス、アスカル&タマーラ、続く写真が経営しているご夫婦だ。ご主人は、サナトリウムで副所長を務めていたが今では定年。奥さんは学校で英語の教師をしていたが定年。12年前に長女を病気で亡くし、落ち込んだ気分の時に「若い人に関わり、若い人の生き方にプラスとなることをしたい」と考えて、奥さんの英語を生かせるゲストハウスを始めたのだった。そして、10年前の2008年、このサナトリウムの診療所の建設に関わった日本人抑留者のひとり、宮野泰さんと一緒に訪れたのだった。

タムガ村で、日本人捕虜のことを証言できる人は、今では一人だけ。パロージャさんという元ドライバーだけだ。それに加えて、親がサナトリウムの建設に関わっていたという人の子どもたち、サナトリウムに勤めていた人たちが、数名いるくらいとなっている。

  

車でカラコルに移動して、最初に行ったのは青年海外協力隊のボランティアの人たちが、キルギスの人たちと一緒に開発した製品のアンテナショップ。ジャム、石鹸、ハンドクリーム、フェルト製のぬいぐるみなどが並んでいる。ここで、石鹸とジャム、ハチミツを購入した。青年海外協力隊のボランティアには、キルギス平和センターの開設の時にお世話になっている。ここで購入したせっけんなどを当時のボランティの人にお土産にしたら、パッケージなどがきれいになっているので驚くだろう。


     

カラコルの郊外、南側にあるレンガ工場を2008年に取材したことがある。「タムガ村のサナトリウムにある診療所の建設の際に、カラコルのレンガ工場へトラックでレンガを受け取りに行った」と、日本人抑留者の証言を得ていたからだ。この時、道端で遊んでいる子供にドライバーが「レンガ工場はあるか」尋ねた。子供は「近くにある」と応えたので、車に5歳くらいの子どもをのせて案内役とした。ところが、「ここだよ」と子供が案内してくれたのは、煉瓦でできたアパートだった。到着すると、「レンガ造りのアパートだ。レンガ工場じゃないじゃないか」と案内されたガイドも、ドライバーも大笑いしていた。

だが、もう一度訪ねて、日本人抑留者の足跡を明らかにしたかった。目標は山側にある高い煙突だ。道を尋ねながら煙突を探した。レンガ工場を見付けた。穴の開いたレンガ、焼く前のものが外に並べられていた。工場に入ると、写真撮影の許可をお願いした。上役を2人紹介されて、3人目の人に今回はOKをもらった。

レンガを焼く窯は、中国で見かけるスタイルだった。工場の責任者は、顔写真の撮影を認めなかった。だが、「この工場は新しい、60年代の建設だと思う。この下の方(北側)に、古い工場がある」という。また、こちらの工場で作っているレンガには、穴がある。古くからあるレンガ工場は、穴のないレンガを今でも作っている。窯の仕組みも全く違う。とも話してくれた。古くからある工場の隣りに、レンガづくりのアアパートがあるのだ。今回の取材で分かったのだが、カラコルの市街地から子供が案内してくれたアパートに続く道路は、“レンガ工場通り”という名称だった。また、このアパートは、レンガ工場で働く従業員のための住宅だったのだ。10年前、遊びの途中でバスに乗って案内してくれた子供の言うとおりだった。

 

直ぐ下にある工場へ行くと、ちょうど到着した車のドライバーが「ここはセメント工場だったところで、新しい建物だから日本人とは関係ない」という。
ホテルへ戻ろうとすると、工場から50歳くらいの男性が出てきた。
彼に事情を話すと「知っているよ。紹介するからついてきなさい」という。工場の裏手に行った。
「この地面が凹んだところは、下水処理場だったんだ。
水を干すと、処理場の底から「並べられたレンガ」が出てきたんだ。工員たちは、みんな喜んでレンガをもらったもんだよ。家の建築や建て増しに使ったんだな。この凹みの先の北側に屋根が見えるだろう。あれが一番古いレンガ工場だ。日本人も働いていたと、父親から聞いたもんだよ。父は、日本人から鉄砲をもらったと言っていて、山へ行って野性のを山羊(マルコ・ポーロか?)をとったったもんだと話していたんだ」と、思いがけない話を聞くことができた。

  

一番古いと紹介されたレンガ工場をさがした。ガイドはスマートフォンで地図を確かめながら、「この通りは『レンガ工場通り』と、いうんですね」と話しかけてきた。スマホの普及した時代だから、手元で地図で確認できたのだった。
このエリアは、以前からレンガの生産に関わっている地域であることが判った。古いレンガ工場と教えてもらった建物に入ると、2008年に取材を断られた工場だった。ただし今回は写真撮影も許された。工場に入ると、レンガを確かめた。確かに、ここの工場で作っているレンガには、穴がない。レンガを焼く窯も、初めて見るスタイルだった。

レンガ工場は、古くから捕虜収容所として機能していたとも聞いた。60年以降に建設されたレンガ工場も、ソビエトでは収容所として使っていたのだった。ソルジェニーツィンの描いた「収容所」は、こんな秘境にもあったと知り踊りた。
   





キルギスで日本人抑留者の足跡を巡る旅 2

2018-07-24 00:07:29 | 中央アジアのシベリア抑留
   

7月21日 タムガ村に滞在して、標高1600メートル程のイシククル湖湖畔から標高約3800メートルのバルスコーン渓谷の上部まで車で行く。この渓谷は、標高2800メートル地点にソビエト時代の国境の出入りを管理するゲートがあった。今では、カナダの会社がクムトールという金鉱山を稼働させるために従業員や化学物質、金を移送するなどのために、舗装されていないが道路整備を毎日行い路面状況はいい。

この道路を一人のサイクリストが下ってきた。標高差1000m、距離10キロメートルほどを一気に下るいろは坂だ。坂の途中、急なカーブは路面状況が厳しい、土がパウダー状となっていてタイヤをとられて転倒しやすいのだ。この坂を何度か自転車で下っているが、ひとりで下るサイクリストとも何度か出会っている。無事に目的地まで到達してほしい。

   

標高3800メートルを越えると高山植物を何種類も見る事ができる。わたしは、睡眠不足もあり足が重かった。高山病になる人はいなかった。高所での滞在時間が少ないのと、お酒を飲む人がいないのが、トラブルのない大きなメリットだなあ。なお、クムトールの金鉱山へ行く道とナリンへ行く道の分岐点には、行先を案内している案内板がある。だが、ペンキは剥げていた。ナリン方面から激坂に向かう道路には、「stop」と標識を英語で表示していた。

  

再びバルスコーン渓谷の上部に下り、再び日本人抑留者が石灰を作る作業をした石灰石を焼く「窯」を見に行った。というのも、2008年に「窯」を見た時、窯の数は3個だった。ところが、2012年には1個しか見当たらなかったのだ。でも、今回は、半分くずれた「窯跡」を見付けることができた。この窯の上には1軒の家があり、ウマや牛などを放牧している。小さな子供が、川原まで降りて水をくんでいた。湧き水だった。人と暮らしや旅に水が大事なことを実感した。素直な子供たちだった。天山山脈の湧水を毎日飲んで過ごせるなんて、うらやましい限りだ。尚、この家に近づくときは、犬に注意が必要だ。

 

   


今日もキルギス平和センターへ足を運んだ。キルギス平和センターは、診療所の建設が進むと抑留された日本人125名がテント暮らしから自分たちが建設に関わった診療所の一室で生活をすることになった。その一室に開設しているのだが、展示している写真や新聞記事は半分のスペースに詰め込まれていた。展示物の一部は上下逆になっているものもあった。また、抑留に関する本も寄贈して展示してもらっていたのだが、1冊も見当たらなかった。

サナトリウムの所長が替わったのかもしれない。もう一度国防省と交渉して、本の展示などを復活してほしい。ただし、玄奘三蔵が天山山脈を越えたベデル峠へのチャレンジには、国防省の許可が必要だ。何とか円満解決をして、ベデル峠への到達をもう一度めざしたい。幸いなことに、法政大学探検部のOBでこのルートに関心を持っている人がいる。ぜひとも私も加えてもらい峠に立ってみたい。この峠に立った日本人は、まだ一人もいない。私が記録を見る限りではの話だが。

  

タムガにあるサナトリウム、日本人が建設に関わった建物の入り口には、コーヒーなどをサービスしている二人の女性がいる。また、「キルギス日本センター」は、診療の一環でマッサージを行っている人の診療室にもなっている。見学する時には、診察に迷惑のかからないように静かに行ってほしい。
タムガ村でも、日本人抑留者の実態を知っている人は、少なくなっている。94歳のワロージャさんは、トラックドライバーとして、レンガや石灰、砂岩、野菜の運搬に日本人と一緒になって取り組んでいた。日本人抑留者の当時を知る数少ないキルギスの人なのだ。


別れ際に、「来年も来るのかね。わたしは、こんな年寄りになるとは考えもしなかったのに、これからどうなるか。決まっているよね」というので、「急ぐ必要はないですよ。行くところはみんな同じなんだから」と応えた。その返事は「ゆっくり行くんだな。あはは」だった。





キルギスで日本人抑留者の足跡を巡る旅 1

2018-07-23 23:38:48 | 中央アジアのシベリア抑留
  

2018年7月20日お昼過ぎにキルギス共和国に到着した。

昼食の後、直ぐにキルギス日本センターへ行き、国立オシュ大学で日本語を教えているアイグリアさんから頼まれていた日本のコミックを預かってもらう。後ほど、アイグリアさんがビシケクに出向いた時に受け取るのだという。この本は、アイグリアさんがオシュ大学での日本語教育にコミックや絵本を生かしたいという提案を私に話し、わたしが友人やブログの読者に声を掛けたところ協力してもらったもの。まだあるのだが、持ち運べる冊数にも限度がありこの数に落ち着いた。

キルギスと日本の相互理解や交流に生きることを期待している。オシュ大学は、日本語教育を始めたばかりだ。図書館に日本語の本が無いというので、2年前に10冊ほどと届けた。キルギスの旅行会社CATSにも協力をお願いして本を届けたこともある。

  

ビシケクからタムガへ向かう途中、ボー渓谷という上り坂を進むことになる。中年のおじさんたちが上り坂に自転車でチャレンジしていた。カザフスタンのグループとガイドは教えてくれた。サイクリストを見ると、ヘルメットの下に白髪が見えた。2000年、私は20名の仲間と一緒にこの渓谷を、イシククル湖の西の畔にあるバリクチからビシケクまで下ったことがある。当時は道路も狭く危険なので、キルギス政府は先導車としてパトカーを出してくれたのだった。

   

ビシケクからタムガ村までは約400キロ、タムガ村の手前約40キロ地点にボコンバエワという街がある。2年程前まで在日キルギス大使を務めていた友人のリスベク氏が、私用で奥さんと一緒にこの街にいるから「会いましょう」というので、13時頃にこの街で一緒に食事をすることになった。キルギス民族の伝統的な暮らしを楽しみながらキャンプすることができる、民俗村ともいえるキャンプだという。シャワーもトイレも備えていた。キルギスも観光客を迎えるように大きく変わっている。

ボコンバエワの村の入り口で、鷹を腕に乗せた人を多数見かけた。リスベク氏に聞いたら、ボコンバエワの祭りだという。こういう生活に密着した行事を観光に組み入れてほしいと思った。情報を海外の旅行会社にも伝えてほしいと思った。

  

「中央アジア抑留」 中央アジアに抑留された元日本兵の手記など
「中央アジアに抑留された日本人捕虜の資料館 キルギス」 キルギスに抑留された元日本兵の様子を伝える資料館の紹介
「天山を越え日本へ キルギスに抑留された日本人」 キルギスに抑留された元日本兵へのインタビュー