定年後は旅に出よう/シルクロード雑学大学(シルクロードを楽しむ会)長澤法隆

定年後もライフワークのある人生を楽しみたい。シルクロード等の「歴史の道」を調べて学び、旅して記録する楽しみ方を伝えます。

朝日新聞で投稿を紹介 シベリア抑留の跡地訪問を

2018-01-29 10:45:10 | 中央アジアのシベリア抑留


朝日新聞の読者による投稿欄に送った投書が、紹介された。2018年1月29日の朝刊だ。

シベリア抑留者が帰還したピークは1947年と1948年だった。それぞれの年に17万人から18万人の人が日本へ戻り、日本の大地を踏むことができた。収容所で夢にまで見た日本の風景や人を、自分の目で見ることができたのだった。

1銭5厘で徴兵された彼らは、舞鶴に到着すると500円を政府から受け取ったという。それぞれの家に帰るまでの必要経費だったのだろう。
「家を建てられるほどの大金を懐にした」と思った。しかし、駅前でまんじゅうを買ったら1個5円だったという。まんじゅうを3個買ったら15円。あまりの物価高に、愕然としたらしい。

それぞれの金額を現在のレートで考えてほしい。どんな物価高だったのか想像できると思う。

1銭5厘→ハガキの値段 現在のハガキの値段→62円
当時の1円50銭→6200円 帰国時の500円は 現在の6200円×330=だいたい200万円と思って帰国時に500円を受け取った。

ところが帰国した時、饅頭1個5円だった。今の日本で饅頭20個の値段で家を建てられるのか。多摩川のブルーシートの家も無理でしょう。

シベリア抑留と言われるが、抑留されたのは旧ソ連各地とモンゴルだった。だから、先日、相撲で優勝した栃ノ心の出身地であるジョージア(グルジア)に抑留された人もいた。中央アジアのキルギス、カザフ、ウズベク、トルクメンの各国にも抑留された日本人が建てた建物がある。

彼らが建てた建物は、老築化のために建て替えの時期となっているという。すでに建て替えられたものもある。しかし、日本人が関わった建物はどこにあるのか。全体像はよくわかっていない。

定年退職後、これらの建物を訪れて、設計は誰がしたのか、日本人独自の工法が使われているか、建築に要した期間、建物ができた後地元の人はどのように使用していたのかなどを調べて、まとめてはいがでしょうか。旧ソ連に限らず、中央アジア各国やジョージア、モンゴルとの国際交流に役立ち、相互理解にも活用できると思う。また、今もよくわかっていない分野だけに、歴史に残る貴重な資料にもなるに違いない。狭い分野を調べることで、その分野の専門家になることまちがいありません。定年後の方の出番を待っています。

シベリアに抑留された人の子どもたちは、団塊の世代から年令の若い世代。父や叔父たちが作った建物を調べたり、当時の暮らしの様子を調べてほしいと思う。時には冬に出かけて、抑留された人の耐えた冬の厳しさを体験してみてはいかがでしょうか。定年後だから、あまり知られていないテーマをじっくりと調べることができます。同じ話題で大学の教授や新分野テレビの記者と話をする時間もできます。

歴史を体験としてとらえることをお勧めします。同行したいと思ってます。

新聞記事

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「ツール・ド・シルクロード20年計画」中国新疆ウイグル自治区 西域南道

2018-01-28 18:36:05 | シルクロード 西域南道
  

「ツール・ド・シルクロード20年計画」ではなかったけれど、中国の西域南道をラクダで旅したことがある。当時は未開放地区のために、外国人の立ち入りを禁止している地域だった。

 

1991年、1992年、2001年の事だった。当時は、西域南道は舗装されていなかった。ダートをラクダが進むので、ラクダの足の裏は血まみれになってしまった。らくだは、昔のシルクロードの旅人も、50キロほどで交換されていたように思った。駅伝制は大陸に起源を持っているが、馬やラクダといった家畜を乗り換えたのが、駅伝制の基本的な考えではないかと思った。

このことを、学会で会った時に早稲田大学の長澤和俊氏に話した。君のやっていることは、実験考古学という分野だ。だれもやっていないからそのまま進めなさいとアドバイスを受けた。定年後の人が、取り組んでくれるといいのだが。一人ではできないので、何人かでキャンプを続けて試してみることになる。

  

西域南道の人たちはのんびりしている人が多い。また、イスラム教の教えを厳格に守っている人もいる。この点は注意して旅行したいものだ。

西域南道、地域で暮らす人との交流も楽しみながら自転車で旅行したいものだ。

  


ウズベキスタンのシベリア抑留資料館 NHK BS「国際報道2018」で放送 2月1日

2018-01-27 11:51:50 | ツール・ド・シルクロード ウズベキスタン
  
上記の写真は2002年に撮影しています。スルタノフさんも若かったですね。写真の3枚目はサハリンで朝鮮人にあずけられて、そのままタシケントまで移送され、今もタシケントで朝鮮人として暮らしている残留日本人です。NHKの人に取材をお願いしていましたが、時間が足りなかったとのことです。

満州やサハリンで、終戦の時に朝鮮人に預けられてそのまま中央アジアへ移送された日本人は多数いると思われます。「もうひとつの残留孤児」問題です。まだ誰も取材をしていません。今後の解明を期待しています。定年後の人たちに、歴史の謎解きへの参加を期待しています。


2年程前に日本へ来た時の写真

NHKの人から、2月1日午後10時から

NHK BS1 の「国際報道2018」の1コーナーで

ウズベキスタンのシベリア抑留資料館に取材に行った際のことを放送すると連絡があった。

ウズベキスタンの首都タシケントにあるナボイ劇場の取材に行くと聞いていたのだが、シベリア抑留資料館のことが中心らしいですね。NHKではナボイ劇場のことは放送しているので、シベリア抑留資料館に限ったのかもしれません。


ウズベキスタンのシベリア抑留資料館にいってまいりました。
取材時間がなく、深いものになったかどうか。

その企画の放送日です。
2/1(木) 午後10時~ BS1「国際報道2018」の1コーナーです。
(突発的事件があった場合は放送延期の可能性もあります)

機会がございましたら、ひきつづきよろしくお願い申し上げます。


タシケントにあるシベリア抑留資料館を紹介している毎日新聞の記事

JICAによる抑留資料館や日本人墓地の紹介文

 

「ツール・ド・シルクロード20年計画」 トルクメニスタン04

2018-01-26 21:34:12 | ツール・ド・シルクロード トルクメン
  

トルクメニスタンは永世中立国だ。ガスなどの豊富な地下資源があるので、私たちがサイクリングに出掛けた時は、ガスも電気もタダだった。教育費も無料だった。日本から見たら天国のような政策が行われていた。

市民はおっとりしているように感じた。ぎすぎすした人は見かけない。

トルクメナバットのホテルでは、とても暑かった。ホテルの中をあちこち歩き回ったら、炊事場のガスは火が付いたまま。ヤカンも鍋もかかっていなかった。ガス代がタダだからこんな風にしているのか。ガス台の着火システムが壊れやすいので、火をつけたままにしているのか。不思議に思ってみていたことを覚えている。それにしても、夏だというのに暑かった。

  

トルクメニスタンで最も関心があったのは、骨董品のバザール。外国人があまり入っていないだけに掘り出し物が多かった。

  

それでも、地下街には今風のお店もあるし、モンゴルやキルギスと同じようにユルタという移動式の住居がある。しかも庭にもあった。何処へ向かっていくのか。興味深い国だ。

「ツール・ド・シルクロード20年計画」 キルギス04

2018-01-25 23:21:47 | ツール・ド・シルクロード キルギス



「ツール・ド・シルクロード20年計画」、1999年の海外サイクリングはキルギスだった。中国とキルギスの国境は天山山脈のトルガルト峠。
ただこの年は、中国側での洪水で道路が流されて天山山脈を自転車で越えることはできなかった
2000年にもう一度チャレンジ。この年も自転車で天山山脈を越えることはかなわなかった。ただ、キルギス側は晴天だった。トルガルト峠からキルギス側はすべて走ることが出来たのだった。

  

天山山脈の北側であるキルギスは、緑の草原に覆われていた。天山山脈の北面となる中国側は赤茶けた岩山でした。高度を下げると民家が増えてきた。

 

植生の変化が楽しめるので、高度の変化するルートは植物なども楽しみだった。

     

ビシケクはキルギスの首都。天山山脈の峠から降りると、草原は岩山の続く土漠となり、さらに下ると果樹園や畑となった。後は村の間をのんびりと走り様々な商品の並ぶバザールを散歩してこの年のを終えた。