定年後は旅に出よう/シルクロード雑学大学(シルクロードを楽しむ会)長澤法隆

定年後もライフワークのある人生を楽しみたい。シルクロード等の「歴史の道」を調べて学び、旅して記録する楽しみ方を伝えます。

2001年の「砂漠の友」の死 その2 地球と話す会を退会

2017-12-29 18:05:03 | 砂漠の友
  

事故の顛末

「砂漠の友」と一緒に西域南道をラクダによる旅行に参加した仲間。その中の一人が、ラクダから振り落とされて下半身不随となり、隊長のT氏を中心としたリーダー会議で「ケガをした本人の意思を尊重して、本隊と一緒に移動する」と決まったことは前回書いた。

中国側隊長の務める南氏は、「何のために医師が同行しているんだ。ケガ人や病人の対応は医師の指示に従え」と話し、遠征隊に伴走しているバスを長澤がけが人を病院へ運ぶために自由に使っていいと文章を書いてくれていた。T氏の手前、これを持ってドライーバーや医師に依頼してけが人を病院へ搬送することになった。

ケガ人を病院へ搬送したことは前回書いた。実はもう一人、お腹が痛いというので、このバスに乗って病院へ運んだ年配の女性がいた。
ケガ人を病院へ運んでいる間、バスが本隊に戻るまでの間、医師も緊急用の車両も不在となる。そのことを見越して、体調の芳しくない人を一緒に病院へ連れていくこと。医師も車両も不在となることを参加者に説明したところ、申し出てきたのだった。

遠征を終えて帰国すると隊長のT氏からFAXが届く

それはともかく、西域南道をラクダと一緒に旅する遠征を終えて帰国後、1か月ほどして隊長のT氏から自宅にFAXが入った。

「事務局会議で、『ツール・ド・シルクロード20年計画』の隊長に、長澤さんはふさわしくないと決まりました」というようなことが書いてあった。

隊長を退くのは構わない。だが、2001年の二つの事故の際の対応を見ると、Tさんの息のかかった人が隊長を務めたとして迅速に人命第一の対応ができるようには思われなかった。

その時に、もし誰かが病気やケガをしたとき、T氏の指示に従う人が人命第一の対応を速やかにできるだろうか。難しいだろうと思った私は、直ぐにT氏にFAXをした。「地球と話す会を退会します」とした。

そして、シルクロード雑学大学に集まった仲間と一緒に自転車でローマをめざすことにしたのだった。

T氏からのFAXは証拠として保存中

この時にT氏から届いたFAXは大事にとってある。当時のFAXは感熱紙だったので、コピーして文字が消えないようにもしてある。オリジナルは光が当たらないように黒い袋に入れている。

今日は、「砂漠の友」の写真をスライドからスキャナーで取り込みながら、これらの事を思い出していた。

「砂漠の友」の奥様が、友人の荷物の整理をする中で2001年9月12日の新聞を見付けて見せてくれたことから、すっかり忘れていた事柄を思い出した。

「砂漠の友」の長男は、今しばらくは日本に滞在しているという。長男が日本にいる間に、10年程前に亡くなっている次男の写真も含めてプリントとデータで二人の砂漠での様子と砂漠の風景がわかるような写真を、奥様に届けたいと思っている。

今回の年末年始は、文字通りの一年ではなく、一念の計としたいものだ。

  

  




2001年の「砂漠の友」の死 地球と話す会を退会

2017-12-28 18:17:19 | 砂漠の友
  
亡くなった「砂漠の友」は、聖蹟桜ヶ丘駅近くの激坂の向こうに住んでいた。

友人との別れ

先月、ひとりの友人が亡くなった。葬儀には出席できなかったので、先ほど遺骨に会って来た。奥様と二人暮らしだった。今日は、イタリアのミラノで建築家として過ごしている長男の方も来日中だった。友人の次男は、10年ほど前に亡くなっている。父と同じく砂漠の友だった。

友人は、聖蹟桜ヶ丘駅の近くにあるいろは坂の近くに住んでいた。この坂を越えた南側に住んでいた。この坂は、わたしが時々散歩で通っている坂だ。ザックに水を入れて歩いて上ったりしている。時には自転車でも上っている坂だ。

911

友人とは、2001年の9月12日に北京の空港から新疆ウイグル自治区の天山南路にあるコルラへ向かっていた。北京の空港のテレビでは、ビルに飛行機が激突するシーンが何度も流れていた。飛行機に搭乗する前の検査は厳しく、靴も脱いでチェックされた。中には、パンツ1枚で検査を受けたものもいた。

一般に言われている「911」。事件のあった時、時差の関係で北京は9月12日だった。それで空港での検査が厳しくなったのだった。

友人は、次男の息子と一緒に参加して、西域南道のチャルクリクからニヤまでをラクダで旅する遠征に。私はその主催者側のメンバーだった。わたしは、1991年にもこのルートをチャルクリクからカシュガルまでラクダと一緒に遠征している。1992年には敦煌からチャルクリクまでラクダで遠征している。その体験があるので、2001年の遠征にも請われて参加したのだった。

砂漠での事故・日本側隊長の判断

参加者は44名だったように記憶している。3日目くらいに、その中の一人がラクダから振り落とされて下半身を動かすことができなくなった。中国人の医師の同行を依頼していた。この医師はケガから3日目に「一生車いす生活を強いられるようにならないために、直ぐにチャルクリクの病院へ連れて行ってレントゲン検査を受けて治療をすすめよう」と、遠征隊の日本側隊長のT氏に話したという。

遠征隊長のT氏は「各テントのリーダを集めて会議をしたが、『本人がみんなと一緒にいたい』というので。病院へは連れて行かない」と私のテントに来て伝えた。

「医師は医療関係者です。各テントのリーダーの中に医療関係者はいるんですか。居ないでしょう。医師の指示の通り、すぐにケガ人を病院へ連れて行って検査と治療をすすめましょう。大型バスを出してください」とT氏に話した。するとT氏は「各リーダーが決めた事なのでその会議に従う」と言い出した。自分で責任を負うとしない役所の役人か、東京ガスの社員か、東京電力の社員といった国をバックに背負った会社の社員の物言いだった。

「わたしが中国側の遠征隊長の南さんに話して、バスを出してもらうようにします」とT氏に伝え、すぐに中国側のメンバーのいるテントへ走った。

中国側隊長の判断

南さんに説明すると「医師が言っているんだろう。その指示に従うのが当然だよ。医師のは、参加者に障害が残らないために最善を尽くしてもらおう。Tさんは何のために医師に同行してもらっていると考えて居るんだろう」といい、すぐに医師にもバスのドライバーにも、直ぐにバスを出してチャルクリクの病院へ行くように指示を出した。

南さんは北京放送のスタッフで、人民日報と一緒になって、日本のリスナーや読者に中国を知ってもらうのが遠征の大義名分だった。そのために、参加者には無事に日本へ帰すことで、日本人に中国への理解をすすめようと使命を背負っていた。ところが日本側の遠征隊長は、当事者の将来を考えて居るようには思えなかった。

野営地点からチャルクリクまでの道のりは、ダートというよりもかなり厳しい道だった。バスが揺れるたびにけが人はうめいた。

国境警備で出払っていた空軍

チャルクリクには空港がある。けが人を病院に送るとすぐに空港へ行った。ケガ人をチャルクリクからウルムチまで空軍のヘリコプターをチャーターして、移送してもらえるか問い合わせたかった。

だが「例の『911』の影響で、空軍はアフガニスタンとの国境警備に出払っていて、協力できるヘリコプターはない」との返事を繰り返すばかりだった。「保険に入っているので、お金は保険会社がすぐに支払う」と説明してもダメ。北京から指示がでているらしかった。

サマルカンドでの遠征隊長の対応

実は、私はこの2週間ほど前に「ツール・ド・シルクロード20年計画」とうサイクリングの遠征の隊長を務めていた。ウズベキスタンのタシケントからサマルカンドを経由してブハラまで、30名ほどでサイクリングしていた。

この時、57歳の男性の参加者が、サマルカンドに到着するとすぐに脳梗塞で倒れた。ホテルに医師を呼んで、その後救急車で病院に入院してもらった。この病人は意識がなかった。サマルカンドでは3日間の観光の時間を予定していた。だが、わたしはずっと病院へ行ったり、保険会社や家族との連絡で過ごしていた。

当時のウズベキスタンの日本の大使は中山恭子氏だった。当時は、国際空港でないサマルカンドから病人を出国させるために電話で協力をお願いした。

遠征の参加者には、海外旅行傷害保険の加入を条件としていたが、脳梗塞で倒れた参加者は年3回トライアスロンに出場するほど健康だった。だから、自分が病気になると考えず、ゴールドカードの補償で間に合うと受け止めていたのだった。

だが、パリから医療用のジェット機をチャーターして、サマルカンドから日本まで病人を運ぶには当時のお金で1300万円必要だった。海外旅行傷害保険に加入していれば、保険で補償しているのでジェット機はすぐに飛んでくれる。だが、ゴールドカードでは救援費用まで賄うことはできなかった。1300万円の現金が振り込まれるまで、ジェット機は飛ばなかった。

外旅行傷害保険の大切さ

曜日はすっかり忘れたが、このトラブルが土曜日や日曜日だったら、銀行は営業していない。留守をしている家族が銀行からお金を引き出して送金したいと思っても、銀行は閉まっている。また、口座はたいていはご主人の名義で預金しているケースが多い。そうなると、海外でご主人が倒れても銀行からお金を引き出すのに手続きに時間が必要となる。

こんな体験をしていたので、9月に行われたラクダの遠征では、海外旅行傷害保険の番号を参加者に事務局まで申し出てもらった。

友人の遺骨にお別れに行ったのだが、「911」の事故を伝える2001年9月12日の新聞が出てきたとの奥様の話から、奥様の質問に応えて話は「砂漠」でのトラブルの話になった。

友人が残したスケッチの今後

その後、シルクロードが好きで旅行していたことに話に戻して、友人が描いたシルクロードのスケッチを、どうやって多くの人に見てもらおうかと、知恵を出し合った。私の提案をイタリアから一時帰国している長男は、とても理解してくれた。日本にいる間に、友人が描いたスケッチを大ざっぱに分けるところまで行ってくれるという。奥様は、スケッチを誰が探して選ぶのか。「どうせ私でしょ」という風で、今はまだ気が重いようだ。

友人は、調子が悪いので病院へ行って検査をして、2日後くらいに入院となり。5日後に亡くなったという。夫婦ともに、家族のことなどをあれこれと考える時間はなかったようだ。一面では、よかったのかもしれない。

年内に「砂漠の友」の親子の写真を選んで、スキャンしてデータで送ってみよう。