定年後は旅に出よう/シルクロード雑学大学(シルクロードを楽しむ会)長澤法隆

定年後もライフワークのある人生を楽しみたい。シルクロード等の「歴史の道」を調べて学び、旅して記録する楽しみ方を伝えます。

「シベリアの民主運動」淡徳三郎 

2019-02-08 20:46:50 | 中央アジアのシベリア抑留

資料を整理していたら「改造」1948年10月号に淡徳三郎氏が書いた「シベリアの民主運動」という記事があった。

淡徳三郎氏は、特待生として京都大学を卒業後、共産党員として警察に追われる中でフランスに渡航し、ドイツ、モスクワを経て満州で敗戦を迎え、中央アジアのカザフスタンにあるアルマトイの収容所で捕虜と過ごしている。戦前から戦後にかけての話だ。

シルクロード雑学大学の会員にシベリア抑留者の事を調べていると話したら、淡徳三郎氏のお嬢さんと高校・大学と同級生だったと教えてくれる人がいた。高校生の時に淡徳三郎氏のお嬢さん招かれて杉並にある自宅へ遊びに行き、父親の淡徳三郎氏とも話したことがあるという。淡徳三郎氏のお嬢さんもその同級生も青山学院大学で学び、お嬢さんは母校の教授として英語を教えたのち定年退職。今は他の大学で講師として英語を教えている。父から、様々な意見や情報を得るうえで外国語が大切だと繰り返し教わったという。


わたしもインターネットで調べてみた。淡徳三郎と日本の古本屋というサイトで検索したら、シベリア抑留から帰国後、多くの著作物を持つ評論家だったことがわかった。
淡徳三郎とAmazonでも検索してみた。こちらでも著作物を知ることができた。シベリア抑留と関係のありそうな本を、何冊か購入したのは数年前の事だ。

「三つの敗戦」には、アルマトイの収容所生活のことも記述されている。数冊だが、Amazonでも1800円くらいから1万円くらいまである。

戦前の共産党員でフランスに渡航している。シベリア抑留中に民主運動に関わっている。後者に関して調べたいと思っていた。シベリア抑留の中でも民主運動の事はよくわかっていない。淡氏の文章を読んで、民主運動も多彩だったこと、ソビエト側が方向性を決めるのではなく、抑留された日本人の中で早く帰国したい人などが方向を決めたように感じた。


詳しいことは今後も調べてみたい。

中央アジアにあるのキルギス共和国には、イシククル湖の南岸にタムガ村にあり、国防省のサナトリウムの中に泥治療の診療所があり、この建物の中にキルギス平和センターがある。泥治療の診療所は、抑留されていた元日本兵が建設に関わっている。2007年の夏前まで、キルギス共和国にソ連に抑留された日本人の一部の人がいたことを、日本の厚生労働省は認めなかった。だが、シルクロード雑学大学が、キルギスで「日本人が建設に関わった」と伝わる建物、「日本人と一緒に働いたことがある」といったキルギス人を紹介する写真展を開催した。この写真展を知らせる新聞記事を読んだ方からシルクロード雑学大学に電話があった。2007年9月の事だった。電話の主は、キルギスに抑留された元日本兵だった。元日本兵からの連絡で、キルギスにも日本人が抑留されていたことが明らかになったのだ。

中央アジアにあるトルクメニスタンにも抑留された元日本兵が建設に関わった建物がある。厚生労働省によれば1700名あまりが抑留されたとされる。トルクメニスタンに抑留された元日本兵にインタビューしたところ「2200名が抑留されていて、200名以上の穴を掘った」と証言していた。

中央アジアにある各国における日本人抑留者に関して、調査はあまり進んでいない。ソビエト時代に、入国が困難だったことも影響していると思う。各国を旅行して日本人抑留者に関して実態を調べて報告すれば、マスコミで発表できる可能性も高いと思う。また、日本のテレビ番組の「おしん」は、中央アジアでもテレビでも放映されており、日本に親しみを持つ市民も多い。日本に親しみを持っている人が多いのだ。日本の熟年の方たちに、定年後の生きがいとして、中央アジアの日本人抑留者の事を調べてほしいと願っている。新発見があれば、新聞やテレビで紹介されることは間違いない。一躍、専門家だ。
自分の見つけた世界、歴史の真実を発見して社会に提示してほしいと思う。

ロンドン、パリ、ローマもいいけれど・・。定年後、歴史の真実を発見するテーマを楽しむことはおもしろいし、社会的に意味がある発見に結びつく。

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10歳の少年、満洲からひとりで九州の故郷をめざす ビクトル古賀

2018-11-13 15:35:45 | 中央アジアのシベリア抑留
  

「たった独りの引き揚げ隊 10歳の少年、満洲1000キロを征く」石村博子著、角川文庫
(書名をクリックすると、Amazonで購入できます)。数円からより。

10歳の少年が、中国の旧満洲にあるハイラルから独りで父親の故郷九州の柳川をめざした実話だ。著者の石村さんは、10年以上も当事者・ビクトル古賀の元に通い、本にまとめたらしい。取材の回数が多いのだろう、丁寧に書いている。同時に、音楽好き、自然に親しんだ体験を持っている著者のように感じていた。
主人公は、コサックの血を引き、成人してからはサンボという競技で一世を風靡したビクトル古賀だ。

わたしが、シベリア抑留に関心を持ったのは2007年の事だ。中央アジアのキルギス共和国を自転車で旅行する中で、キルギスにも抑留者がいたとのうわさのあることを知った。しかし、キルギスへ出かける準備をしながら日本の厚生労働省に問い合わせると「キルギスには収容所はありませんでした。抑留された日本人はいません」との回答だった。三井勝雄さんの「天山の小さな国 キルギス」という本でには、日本人の抑留者がいたというキルギス人によるうわさ話を取材した様子を紹介しているのだが。三井さんは、短大で教えた後、キルギスのビシケク人文大学で10年近くボランティアとして日本語を教えている。

そして、2007年の9月11日の夕方、携帯電話の向こうから「長澤さんですか。わたしはあなたが探しているキルギスで抑留された元日本兵の一人です」と話しかける人が現れた。それから、中央アジアにおける『シベリア抑留者』の事を調べるようになった。

キルギスに抑留されたという元日本兵に話を聞くと、満洲で捕虜となり、列車でタシケントへ移送され、さらにキルギスの東部にあるイシククル湖南岸の村タムガへ移送されたのだという。そんなことから、インタビューを繰り返している間に満州にも関心を持つようになった。また、ガダルカナルで敗戦を迎えて復員した父には、満鉄に勤務していた弟、つまり私から見たらおじさんがいた。そんな背景も満州に関心を持つ一因かもしれない。

この本が出ると直ぐに読んだ。当時は単行本だった。繰り返しインタビューした戦後の満州を歩いた少年の記録、重ねたインタビューにより描かれた記述は草原を一人でゆく少年の自然との関わり方も伝わってくる。自分自身も草原を体験しているような雰囲気を味わえる。

先日、著者の石村博子さんが、ビクトル古賀が亡くなったことをfecebookでアナウンスしていた。私が持っている単行本は、ライター仲間にあげていた。だが、満洲の事が気になり2年程前に古本屋で文庫本を買っていた。昨夜、パラパラと読んでいると、ビクトル古賀のサインがあった。「ここまで書いて手首イタイ‥‥   ビクトル古賀」と書かれたページにあるサイン。なんとも手の込んだ印刷だ。

と思って今朝もう一度見ると、自筆のサインだった。大変な時代を過ごしたなと思うのだが、前向きで明るい性格な人だなあと思った。
まさか、わたしにもっとシベリアや満州を取材しろとのサインでは?、‥‥。

ビクトル古賀は、ハイラルで子供時代に自身と同じコサックの子どもたちと遊びながら、自然の中での生き方を身に付けたようだ。ハイラルから錦州までの独りの引き揚げ隊では、草むらの中で寝たり、草を虫よけとして休んだり、水筒を持たないで自然の中で水を探している。彼はコサックの知恵と生きる術をマスターしていた。

ビクトル古賀が、生きようと巡った足跡を自転車で旅して、どんな風景や暑さ、草いきれだったのか。時に渡った川はどんな巾だったのか。風も音も空気も感じたいものだ。また、当時の事を知っている中国人がいたら話を聞いてみたいと思う。

70年以上前に、少年が見た風景を体験した空間を自転車で追いかけてみたい。体感したい。

ビクトル古賀の父は日本人、母はコサック生まれだった。中国の東北部に追われて暮らしていたコサックの歴史にも関心を持った。浅野軍団のその後も気になる。

中央アジアに抑留された日本人人の手記は、「中央アジア抑留」をクリックしてください。
シベリアに抑留された手記は、「シベリア抑留」をクリックしてください。

シルクロードと日本人 天水で考えた 玄奘三蔵の足跡を追って

2018-10-14 11:24:52 | 中央アジアのシベリア抑留
   

講座「玄奘三蔵の足跡を踏破‥‥自転車とロバ車で天山山脈をめざす」

まで、あと1週間となった。10月21日(日)15時から、会場はJICA地球ひろば です。
詳しくは、こちらをクリックしてください。

1点気になることがあり、『シルクロード自転車西遊記』(地球と話す会ツール・ド・シルクロード編集委員会編、日中出版)を開いた。
この本は、わたしが計画した「ツール・ド・シルクロード20年計画」の1年目の記録で、1993年に西安から蘭州まで自転車で見聞した時の様子を記録している。Amazonで400円くらいよりある。


第1回目、西安から蘭州までサイクリングしたとき、参加者の大森靖子さんは、休憩の時に子どもたちと中国語で話していた。この記録(本)には、「中国生まれで、途中に連泊する天水は第2の故郷」といったことが書いてある。

数年前に、この一文が気になり満鉄会に問い合わせた(満鉄会は今は解散しています)。すると、満鉄会の方は、「天水会でしょう」という。天水会を調べて連絡をすると事務局の女性は、
「やすこちゃんの知り合いですか。一緒に西安から蘭州まで走ったんですか。靖子ちゃんは旅行の様子を会報に書いてくれたんですよ。みんな懐かしがって読んでいました」
と、サイクリングの最中に大森さんが一生懸命にメモをしていた理由が分かった。そして、
「靖子ちゃんはあんなに元気だったのに‥‥。随分前に亡くなったんですよ。いつだったかしら」
と意外な転回となった。サイクリングの時、大森さんは55歳でおかあさんと二人暮らしだった。

   

調べるとNHK出版から『留用された日本人』と言う本が出ていた。Amazonで700円くらいより.また、最近、「『満州』から集団連行された鉄道技術者たち」(堀井弘一郎著)が出ている。Amazonで3000円くらいより。留用された日本人の子供たちに取材を重ねて記録を残している。子どもたちは、すでに80歳近い。留用された日本人の鉄道技術者は、天水で約300人、家族を含めて900名ほど。天水から蘭州までの鉄道建設に携わった。約350㎞だった。

私は、熊谷に住んでいる天水会のメンバーである姉妹を訪ねて「ツール・ド・シルクロード20年計画」に参加した大森靖子さんの事を聞いたことがある。姉妹は天水で学校に通ったが、メンバーの大森さんは日本人学校のある鄭州の寄宿舎にいた。それで、詳しいことは分からなかった。ただ、天水会の発行していた会報を借りるのことができた。ただ、会報はそろていなかったことが残念だった。この姉妹は、旧姓宇野さんと言い、堀井さんの著書には宇野明さんと言う方が紹介されている。関係があるのだろうか。調べてみたい。

堀井弘一郎氏の著書には、「大谷光瑞らによる仏跡探訪の調査隊が天水にその足跡を残している」とある。満州から天水に強制的に移送された鉄道技術者が、天水に初めて足跡を残した日本人でないことがわかった。また、堀井さんは、資料を基に天水会の事を著書で紹介している。インタビューもしているのに、天水に暮らした日本人の生の声を紹介していないのは、もったいない。もっとも、鉄道技術者はほとんどが他界している。会報などに書かれたものを中心としたので、仕方なかったのだろう。これから話を聞けるのは、子供の頃を天水で過ごした世代となる。中国人と一緒に学んだ学校の事を聞きたい。とはいえ、彼らも80歳代だ。

 

天水会は、天水市を流れている藉河(シーホ)のほとりにある公園に石碑を建てて、鉄道建設に日本人が関わったことを記している。また、天水市には、日本人の鉄道技術者の子どもたちが、天水の子どもたちと一緒に学んだ小学校の敷地に伏儀中学校が建っている。また、当時の中学校は、鉄路信号廠(しょう、倉庫か)として今も使われている。天水へ行く機会があったら確かめたい。シルクロードの街と日本の間にこんなつながりのあることは、あまり知られていない。観光で天水に行ったときも、石碑を訪ねてほしい。

   

「シルクロードの現代日本人列伝」白鳥正夫著。これは、現在、シルクロードに関わった仕事や研究をしている人を紹介している。Amazonで100円くらいより。著者は、朝日新聞で朝日新聞創刊120周年記念プロジェクト「三蔵法師のシルクロード」(朝日新聞)にも係わっていた。この本は、玄奘三蔵の足跡、旅したルートを明らかにしようと、多くの学者も交えて現場に立ったりした記録。素人にもわかりやすく、写真も多いので貴重だと思う。中国とキルギスの国境にあるベデル峠のことも書いているが、「空から調査した」とある。まだ、ベデル峠に立った日本人はいないようだ。Amazonで100円くらいより。
また、この時に通訳を務めたキルギス人とベデル峠の近くまで行ったことがある。彼は「ヘリでこの辺りまで来た」と言っていた。彼に、キルギス側から見たベデルの大雑把な位置を教えてもらった。その通訳は今、アメリカにいると聞いている。
「玄奘三蔵」は、Amazonで400円くらいから購入できる。玄奘三蔵の足跡を求めて旅行するのだったら、是非ともも読んでほしい。

天水会の経緯と活動

ウズベクに抑留された池田幸一さんの記憶は正しかった キルギスでも運河掘り

2018-09-22 21:24:01 | 中央アジアのシベリア抑留
  

今年の2月に97歳で亡くなった池田幸一さん。

ウズベキスタンに抑留されていた池田さんは、抑留体験を『アングレン虜囚劇団』に書いている。関西人らしく、抑留中の日々を深刻ぶることなく描写ししている。

この本の中で、復員後の1976年にウズベキスタンを再訪している。この時に池田さんは、アングレンから「キルギスへ列車に乗って、運河の工事のために行った」と記録している。そのキルギスの町は、ハナバードだとも書いてある。

だが、1976年に再訪した際には、現地のガイドに聞いても場所がわからなかったという。残念だったろう。

わたしも、「シベリア抑留者支援・記録センター通信」への書評を頼まれた時、池田さんの体験記を読みながら、キルギスで買い持ち帰った地図を開いてみた。地図には、ウズベキスタンの国の中にハナバードを見付けることができた。

書評「ハナバードは、ウズベキスタンの国内の町だった」と書いた。

9月20日、ツーリズムEXPOジャパンという催し物があったので出かけた。いつもお世話になっているキルギスの旅行会社の方に会い、聞いてみた。

「ウズベキスタンに抑留された方が、2月に亡くなったんですけれど、抑留の体験を書いた手記に『キルギスのハナバードへ、出張のような形で運河の採掘の仕事に行った』と書いてあります。でも、抑留から解放されて日本に帰国してから、今度は旅行でウズベキスタンへ行き、ウズベキスタンで買った地図でハナバードを探したけれど見つけられなかったそうです。先日、わたしがキルギスで買った地図で調べたら、ハナバードはウズベキスタンの国内となっていました。以前から、ハナバードはウズベキスタンの町だったんですか」

すると、キルギスの旅行会社の50歳くらいの女性が、教えてくれた。
「ハナバードは、以前はキルギスだったんです。今でも、日本人の抑留者が建てたアパートなどがありますよ」

池田さんが『アングレン虜囚劇団』に書いたハナバード。その記憶は、間違いなかった。池田さんが抑留されていた当時、ハナバードはキルギス国内の町だったのだ。

 

この時、キルギスの旅行会社の30歳と35歳くらいの日本語ガイドも一緒だったのだが、この国境線の話は初耳の様だった。となると、国境線が変更されたのはいつの事なのか。また、ハナバードの周辺の町や村にも、元日本兵の足跡が残っているかもしれない。

国立オシュ大学へ日本語の本を寄贈することに取り組んでいるが、目的の一つは学生たちの日本語の勉強に役立ててほしい事。
そしてもう一つは、オシュ大学の周辺にある日本人捕虜の事を伝える言い伝えを調べてほしいと考えての事。三井勝雄氏の『天山の小さな国 キルギス』に日本人抑留者の言い伝えがキルギス人の間にあることは記述されている。

日本人抑留者の遺した記録に目を移してみよう。オシュ周辺にも日本人抑留者がいたことは、抑留された人たちが編纂した『捕虜体験記』の第5巻に添付されている地図に、収容所所在地を示す赤いマークがあることから解かる。

キルギスに抑留された日本人の調査は、ようやく始まったばかりと言える。


  

中央アジアに抑留された日本人捕虜の資料館 キルギス

2018-08-08 08:46:36 | 中央アジアのシベリア抑留
  

中央アジアにあるキルギス共和国、東部にあるイシククル湖の周辺へ行くという法政大学大学院生の斎藤さんに会ってお願いしたことがあった。斎藤さんは法政大学探検部のOBであり、玄奘三蔵の足跡に関心を持っている。探検家の酒場「モーリー」の店主坂口さんの後を継いで、シルクロードの踏破に取り組んだ体験を持つ。昨日、坂口さんを含めて3人で「モーリー」であったのだ。

イシククル湖の南岸にあるタムガ村には、ソビエトに抑留された元日本兵の事を伝える「キルギス平和センター」がある。この小さな村には、サナトリウムがある。サナトリウムにはいくつか建物があるのだが、その中の一つ泥治療の診療所は日本と関わりがある。この建物の建設には、1946年から1948年まで抑留された元日本兵などが関わっていたのだ。「キルギス平和センター」では、抑留された日本人がこの建設に関わっていたことをm写真や新聞記事を通して伝えている。

  

「キルギス平和センター」を開設したのは、2010年の事だった。先月行ってみたら、展示している写真の数点が変色していた。お金をかけないで設置しているので、自宅にあるプリンターで印刷して展示している。変色は仕方のないことだ。

変色した写真(下の3点の写真を参照)を新しいプリントに取り換えたいと思い、8月19日からフィールドワークのためにイシククル湖周辺に出かける斎藤さんに会い、新しいプリントを渡した。取り換える作業をお願いしたのだった(一番最初の3点の写真)。こころよく引き受けてくれた。キルギスから帰ったら、「シベリア抑留」の日本人による建物などが、中央アジアにもあることを友人や同級生にも話してほしいものだ。64歳のおじさんから28歳の若者へと、戦争の記憶をうまく伝えることができて感謝している。

  

日本人抑留者による泥治療の診療所の建設が進むと、隣にある敷地でテント生活をしていた抑留者は建物の中で寝起きすることを許された。「キルギス平和センター」は、抑留者が寝起きしていたその部屋を使わせてほしいとお願いした。
今はマッサージをする部屋になっていた。マッサージに使われていない時間に、「キルギス平和センター」を見学できるようにしてもらった。開設時の様子は下記の通りです。

  


キルギスにおける日本人抑留者の事をもっと知りたい人は、下記の本に目を通してください。

  

「天山の小さな国 キルギス」は、Amazonで5000円位から購入できます。この本は絶版です。
「タムガ村600日」、Amazonで3500円位から購入できます。こちらも絶版です。

「中央アジアのシベリア抑留」に関して知りたい方は、こちらをクリックしてください。
「シベリア抑留」に関する資料を知りたい方は、こちらをクリックしてください。
「キルギスで日本人抑留者の足跡を巡る旅 1」 キルギスに抑留された元日本兵が建設に関わった建物、建築資材を作った工事現場などを巡った旅行の様子。
「天山を越えて日本へ キルギスに抑留された日本人」 キルギスに抑留された元に歩兵へのインタビュー