定年後は旅に出よう/シルクロード雑学大学(シルクロードを楽しむ会)長澤法隆

定年後もライフワークのある人生を楽しみたい。シルクロード等の「歴史の道」を調べて学び、旅して記録する楽しみ方を伝えます。

「ツール・ド・シルクロード20年計画」 ウズベキスタン02 ナボイ劇場02 日本人墓地

2018-02-24 17:23:20 | ツール・ド・シルクロード ウズベキスタン
 

中央アジアのウズベキスタンの首都タシケントには、日本人の抑留者が建設に関わったオペラ劇場がある。ナボイ劇場という。

2003年に訪ねた時には、オペラの練習中だったが、「日本人です。このオペラハウスの建設の際に、仕上げの作業に日本人の抑留者が関わっていると知りました。是非、内部も見せてください」と説明したら、オペラの練習をしている脇を通してもらい、案内してもららことができた。

内部の写真だが、いかに大きな建物なのかわかると思う。

ナボイ劇場の設計は、ロシア人の建築家シューセフが行っている。設計を決めるためのコンクールがあり、シューセフの設計が優勝した。

ナボイ劇場の建築は、1939年に始まった。だが、第2次世界大戦で疲弊したソビエトは、1942年に建設を中断した。だが、戦況がよくなったと判断したソビエト政府は、1944年にナボイ劇場の建設を再開したのだった。そして、1945年11月にソビエトにより抑留された日本人兵士がタシケントに到着し、煉瓦積みの作業はほぼ終わっていたので、配線や内外の装飾作業に従事して、1947年にナボイ劇場は完成したのだった。

ナボイ劇場の建設に関わった何人かの人に会って話を聞いている。当時、みんな80歳代後半だった。彼らは帰天しているが、友人がビデオで証言の一部を記録している。貴重な証言ビデオとなっている。



また、タシケントには、日本人墓地がある。抑留中に命を落とした日本人が眠っている。ナボイ劇場の建設中の事故では、1名が亡くなっている。ナボイ劇場の入り口には、今でも手向けられた花を見る事がある。

「ツール・ド・シルクロード20年計画」 ウズベキスタン06 ブハラ

2018-02-19 12:52:52 | ツール・ド・シルクロード ウズベキスタン
  

町並みが世界遺産に指定されているウズベキスタンのブハラの旧市街地。自転車のようなものにまたがっている子供を見かけたが、モーターバイクにも見えるようだった。エンジン音はなかった。排気ガスも出ていなかった。
中央アジアの田舎町では、大きな子供たちは馬に乗り、小さな子供たちがロバに載っている光景を目にすることが多かった。
小さな子供にとって「大きくなったら馬に乗るんだ」というのが、合言葉のように共通していた。

     

ブハラのモスクは、ほとんどが修復されていてきれいに並んでいる。中には、コーの鳥の巣を載せているモスクも多い。アムダリアから伸びる運河で農業が営まれているのか、自然も豊かだった。街の郊外には綿花畑が多い。綿花の栽培には多くの水を必要とする。アラル海の縮小の一因も、灌漑により綿花栽培に多くの水を利用しているという説もある。

写真は2003年頃のもの。どのように変わったのだろうか。ブハラを観光する場合は、旧市街を歩いてまわり、時々はチャイハナで休んで地元の人と接することを勧めたい。この街で宿泊したのは、1964年東京オリンピックの100メートル決勝に、ソ連の選手として出場したという人の経営するゲストハウスだった。古いキャラバンサライの商家を修復して、ゲストハウスにしていると話していた。中庭で、食事をしながら東京オリンピックの思い出話に耳を傾けた。



ブハラへ行き「もう一度東京オリンピックがあるんだよ」と話したら、もう一度東京へ行きたい、と言ってくれるに違いない。



「ツール・ド・シルクロード20年計画」 ウズベキスタン05 サマルカンド→ブハラ

2018-02-18 15:48:42 | ツール・ド・シルクロード ウズベキスタン
     

中央アジアにあるウズベキスタン、サマルカンドからブハラへ向かう道路は中央アジア各国とイラン、トルコを結ぶ幹線道路でもある。国際的に往来しているトレーラーやトラックが行きかっていた。

集団走行をしている私たちにとって問題となるのは、中央分離帯となっているセメントの大きなブロックだ。高さは1メートル程。底辺の幅は80センチくらいかと思う。後方でトラブルが発生しても、先頭の車が後方に戻るには、次の集落の交差点まで進んで中央分離帯のブロックの切れ目を通って対向車線を進んで後方に向かう必要がある。そして、前の集落の交差点で引き返してくる必要がある。

この距離が長いのだ。一方通行の道をぐるぐる回って、目的地に到着するのに等しいのだ。地元の農家の馬車などは、路肩を利用して往来していた。今はどうなっているのだろうか。高速道路のような役割を果たしているのだから、仕方がないのだろうか。

  

ウズベキスタンの首都でも、路地に入ると小さな子供たちが速攻で水浴びをしていた。サマルカンドでは、国立サマルカンド外国語大学に立ち寄り、日本語の書籍を寄贈した。日本語を教えているのは韓国人だった。今は日本人が教えていると思う。サマルカンド外国語大学の卒業生にも、日本語の上手は人が多い。サマルカンドの路地では、道路に絨毯を広げて洗濯をしている光景に出会うことができた。絨毯を道路に広げて、茶碗をさかさまにしてこするだけ。お手伝いをしている子供たちは、水遊びも兼ねているような楽しい雰囲気だった。

    

ブハラは、街全体がお土産屋さんの様で商売の街というイメージが強かった。だが、狭い地域にモスクなどが集まっているので、観光客が集中しているだけかもしれない。

 

こちらはサマルカンドの夕陽。ホテルの階段から撮ったが、今は風景が変わっているのだろうか。
 

「ツール・ド・シルクロード20年計画」 ウズベキスタン04 サマルカンド2

2018-02-14 15:51:55 | ツール・ド・シルクロード ウズベキスタン
     

中央アジアにあるウズベキスタンは、旧市街に多くのモスクが密集していることから「青の都」とも言われている。だが、私の写真を見たサマルカンドからの留学生たちは「旧市街地は全く変わってしまて、子供の頃のサマルカンドの面影はない」という。

実際に、今どのような光景が繰り広げられているのかはわからない。モスクだけは修復されてきれいになっていても、なくなることはないと思うのだが。

もっとも、玄奘三蔵の足跡を追うようにしてシルクロードを旅するのであれば、サマルカンドで行くところはアフラシャフの丘。約1400年前に玄奘三蔵が立ち寄った時、ゾロアスター教の子どもの坊さんに追いかけられたが、仏教寺院はあまりなかったと記録されている。

当時は、イスラム教もサマルカンドまで広まっていなかったのかもしれない。西暦610年頃にアラビアで生まれたというイスラム教は、いつ頃にサマルカンドにも伝わったのか。

  

     

サマルカンドのバザールは、沙漠の中にありながらも果物の野菜も豊富だった。また、木陰でチャイハナと呼ばれているところで、食事やお茶を飲んでいる人を見かけることも多い。社交場に役割も果たしているのか、のんびりしている。

    

サマルカンドの今の風景はどうのようになっているのか。わたしが知っているのは2003年までだ。
サマルカンドから日本へ来ている留学生が言うように、彼らの記憶にあるサマルカンドの風景はすでに写真の中にしかないのか。自分の目でもう一度見て、記録したい。

定年後にシルクロードを旅行してみたいと思っている方は問い合わせてください。サイクリング以外にシルクロードでのハイキングにも取り組んでいます。

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「ツール・ド・シルクロード20年計画」 ウズベキスタン03

2018-02-13 19:24:57 | ツール・ド・シルクロード ウズベキスタン
  
  

「ツール・ド・シルクロード20年計画」でウズベキスタン自転車で見聞したのは、2000年から2002年まで。

タシケント、サマルカンド、ブハラを巡るルートは、シルクロード好きには人気のコースだ。しかし、標高差が少ないので植生の変化はなく、ほとんど風景は変わらない。サマルカンドの手前に少し上り坂があるが、坂を大変かもしれない。楽しむほどではなかった。また、今では交通量の多さが気になるかもしれない。もし脇道があるのだったら、凸凹でもいいので農道のようなところを走った方がいいと思う。

その方が、遠征で暮らす人達との会話を楽しんだり、日本とは違って乾燥地で暮らす地域の人々の文化や生活の知恵にふれることができて、発見することや相互理解に役立つと思うのだ。

何しろ、20年近く前の写真だ。日本の東京駅や新宿駅の周辺でも、この20年には大きく変わっているだろう。地域の変化にも気づくチャンスになるかもしれない。

     

タシケントからサマルカンドに向かうと、途中でシルダリアにに遭遇する。シルダリアの脇にあるサナトリウムで宿泊したが、シャワーは壊れているがのんびりと水泳も楽しむことができた。もっとも、暑いのでシャワーは水で十分満足だった。

    

ブハラの手前には、修復中のキャラバンサライがあった。遺跡は十分に発掘されていないようで、瀬戸物の欠片なども遺跡の中にあった。

イランではキャラバンサライの遺跡を修復して、宿泊施設として利用するのがブームになっていた。水洗トイレもシャワーもあり、設備はホテルと変わらない。周辺に、昔ながらにお店が並んでいて買い物も便利だった。今では、ウズベキスタンもそうなのかもしれない。むかしのキャラバンサライの距離や立地条件などの様子も分かり、歴史も楽しむことができた。

  

ウズベキスタンには、抑留されていた日本人も建設に関わったナボイ劇場がある。建物だけでなく、脇にあるプレートも見てほしい。「日本人も建設に関わった」と日本語でも書かれている。この建物を設計したのはロシア人の建築家だった。また、1945年11月に日本人抑留者が到着した時には、すでにレンガ積みの作業はほとんど終わっており、抑留者は配線や壁塗りなどの装飾に関わっていたというのが定説だ。

ナボイ劇場の建設に関する資料は、公文書館には写真などが保存されており、書類は内務省に保管されている様だと調査にあた多知り合いの話だ。

また、1966年のタシケントを襲った地震で、ナボイ劇場だけが壊れなかったということをいう人もいる。しかし、タシケント市役所の職員によれば、市役所も地震で壊れなかったし、日本人抑留者が建設に関わった学校やアパートも地震の影響はなかったということだ。1966年といえば、庶民の住まいのほとんどが、日干しレンガだったのではないかと思われる。地震の様子を伝える当時の新聞を見たいものだ。また、国防省や内務省には、当時の写真が保存されていると思われる。写真が表に出てくるまでには、あと5年くらいの時間が必要だろうか。探したい。