山下翔『meal』(現代短歌社)の冒頭。
「つま」とタイトルがある一連。
「つま」ってなんだろう。歌集タイトルが『meal』なんだから食べ物を連想すべきで、刺身のツマみたいなものかな?いややはり、ふつうは妻かな?と思いながらすすむ。
(実際には1秒もかかっていない思考だったけど。)
1首目、つまり巻頭歌。
きみが手にからだあづけて眠りゐるみどりごあはき今朝のはつゆき
ふむふむ。タイトルの「つま」は「作者の妻」だったのかと解した私。山下さん、いつの間にかご結婚されて、お子さんを持たれたのだな、と思った。
第一歌集に続く、どっしりゆったりとしたリズム。いいなあ。堂々とした一冊の入り方である。近代短歌的と評されることを厭わず、「あはき今朝のはつゆき」と情感のこもった着地を決めている。「みどりごあはき」と読みそうになるところを、「みどりご」で一旦停止して、実景の「みどりご」に視点を置くところも巧い。きみ「の」手ではなく、きみ「が」手、と あるのも、近代短歌的な良さを現代に復刻しようとしているのかもしれない。こういう存在は貴重だ。
そして、この先どんな家族詠が続くのかとニヤニヤした。(山下さん、おめでとう、と言語化しないまでも。)
いい気持ちになってページをめくって2首目。
きみの児の生れたる朝のかがやきや君のよこがほをわれもよろこぶ
ん?「きみの児」?「われの児」か「われらの児」ではないのかな?「われもよろこぶ」ってちょっと距離感あるんじゃないか?主人公は赤ん坊でなく女性なんだな。その女性の横顔をなにか心動かされながら眺めているんだな。
(1首目から、赤ん坊を抱いているのは母親なのだと決めつけて読んでしまった自分を恥じたのは、あとになってのこと。ジェンダーの役割には気を付けていたつもりだけれど、だめである。)
それに、一首の中に、「きみ」と「君」とふたつの表記があるのはなぜかな?
とにかく、赤ちゃん誕生の歌なのだ。おめでたい高揚感を分けてもらいながら読み進む。実際には、そんなに分析的に読んでいるわけではない。ほんの数秒のことだ。
3首目。
みどりごの頭(かうべ)は垂れてきみが手に生れたる力あはれあたらし
やっぱりなんか変だ。自分の妻を言うのならばこんなに「きみ」と続けるはずはなさそう。君の手にこれまでにはなかった種類の力が発生した感じがする、ああそれが新鮮だ、と解釈した私。力が生まれる、とわざわざ言うからには(男性に比べれば)非力(な人の多い感じのする)な女性が詠まれているとも思った。
そうか、女性の友人の赤ちゃんを見たときの歌だろう。かつて付き合いの深かかったその女性。自分には甲斐性がなくて支え切れなかったけれど、幸せになってくれるならそれでいいと思ってる、みたいなよくあるドラマを妄想。
たしかにそんな距離感があるな、と思った。母は強しと聞くなあ、いやそれは精神面のことかな。もしかして華奢だった女性の友人が心強く見えたのかな。
というのは、あとから考えてみれば、ということになる。とにかく、いい歌だなあと思う。(短歌における虚構うんぬんの話になることはあるけれど、人の生老病死にフィクションは持ち込まないだろうという先入観もある。)
そして、4・5首目。
さみしさはきみがとほくへ行くやうで妻と児と連れ立つてとほくへ
きみの時間に父の時間の加はりてわれはいつ会ふ次はいつ会ふ
あああ。ここで気づく。「きみ」とは男性の友人であるのか。前置きや特別な状況が察せられない場合、「君」は異性を示すと思っていた自分を恥じる。でもここでは「きみ」という優しい表記だから、女性っぽいよなあ、と自分を慰める。
上の歌は、「さみしさは」を受ける述語がはっきりとしない。それがさみしさのもやもやした心境の象徴かもしれない。この「とほく」は心理的な距離なんだろう。友人が妻子を得て、別の生活状況に入ってしまうことへのさみしさ。どこか取り残されたようなさみしさ。「妻と子と連れ」で切れ、「だつてとほくへ」とつなぐリズム。それが本当に遠くへ行ってしまう友人を寂しむような音感だ。巧い。
そこを下の歌では、気丈に「われはいつ会ふ次はいつ会ふ」と盛り返すようなリズムで気持ちを繋ぎ止めようとするのが健気でいい。男の友情を信じる。そのあたりの人間関係の機微が読み取れる。
そして、1首目に戻って読んだ。
きみが手にからだあづけて眠りゐるみどりごあはき今朝のはつゆき
結婚して、父親になった友人。これまではいっしょにつるんであちこちで飲み飲み歩いていたのかもしれない。そんな親友が両手で赤ん坊を抱えている。新たな生命の誕生を祝う気持ちと、自分側の寂しさが合わさった気持ちが背後に込められていたのかもしれない。そう読めばいいのだろう。そう読んでもいい歌だ。
ただ、やっぱりミスリーディングだよなあ、とも思う。
この1首目が単独で読まれたとき、多くの人はどう読むのか。やはり短歌は背景知識がなければきちんと読めないのか。単独で読まれることと連作の中で読まれることは違う。だが、違っていいのか。あるいは論理的に考えてもしかたないことなのか。
ほんの1分ほどの読書体験を後から思うとこんな感じになる。
そのあと、7首目に、
捩子といふ雄、雌の別あることのその比喩のこと苦く思ふも
が置かれているのは、深い意図があってのことか。ジェンダー問題に当事者として触れてゆく歌かもしれない。なんとなく、男性女性の区別を超越した人間同士の友情を詠もうとしていると感じる歌もある。今後、作者のプライベート面の研究が進んでゆくと、なにかわかることがあるかもしれない。
だけど今は、わからないものはわからないままにしておこうと思う。