着る服を選ぶ。顔を洗う。髪を切る。毛を剃る。体の外側のことは、日々の中でよく考える。けれど、内側はどうか。
この間、食あたりになり、しばらくのあいだおなかが痛かった。咳が出るとか、鼻水が出るとか、喉風邪、鼻風邪は少し重大に受け止められるが、おなかが痛い、は、なにかちょっとなめられていないか。ベンザブロックだって「熱」「のど」「鼻」はあるけれど、「腹」はない。はらいたに苦しめられながら、たかがはらいたでしょ(笑)、と世間に軽く見られているはらいたのことをちょっとかわいそうに思っていた。
おなかが痛い、で、うんちが出ても、ほとんどの場合、それを他者に見られることはない。一方で、咳や鼻水は見える。熱も温度計でどれくらいの高さか可視化される。
見えるもののことを、人はよく見る。見てくれる。だが、見えるものが多すぎて、見えないもののことを考えるすきまがない。
鈴木晴香は、見えないものを見る。
歯がいつも濡れていること頬はその内側だけが濡れていること
歯のことは、歯が痛くなったり、歯茎から血が出たりしないかぎり、そう意識しない。歯は忘れられている。頬のにきびは気にするけれど、その内側のことなど考えたこともない。でも、歯も頬も、本当はいつも、濡れているのだ。
人体を描いた歌をつづいて紹介する。
横向きに眠ればそちらへ落ちてゆく内臓のすべてが濡れている
人の体がかかえているいくつもの内臓が目に浮かぶ。「歯が……」の歌にも「横向きに……」の歌にも登場する「濡れている」という言葉が活きている。内臓の濡れたつややかさは、まるで鮮肉コーナーの肉のよう。ずっと忘れていたけれど、人間も、濡れた赤い肉のかたまりでできている。
又吉直樹が本歌集の帯で「掴めないはずの感覚を捉えた瞬間の心地良さ」と述べているように、鈴木は人が「掴めないはずの」光景を捉える。その視点は、時に宇宙にまで伸びる。
眠っても眠ってもまだ上空で宇宙飛行士眠り続ける
マンションでも、二段ベッドでも、地球でも、なんでもいいが、ひとつめの「眠っても」で〈下〉にいる人の眠りを、ふたつめの「眠っても」でさらに〈上〉にいる人の眠りを想像する。そのすべての状況を超越して、さらに「上空」で眠っているのが、宇宙飛行士だ。鈴木が描く遠い距離のことを思うと、なにもかも近視的にとらえてあれをやらなければこれをやらなければとぎゅうぎゅうに絞られたぞうきんのようになっているこころが、ふと、ゆるむ。
手がとどかないものだけではなく、身近なものも、鈴木は見つめる。たとえば、他者とのあいだの距離。
君と見たどんな景色も結局はわたしひとりが見ていたものだ
誰かと過ごしている間も、人は、自分の肉体を一人で生きるしかない。どれだけ心を共有しても、肉体は別々で、決して混じり合うことはない。一人で生まれて一人で死ぬ。それでも、誰かと一緒にいたい。
またここにふたりで来ようと言うときのここというのは、時間のこと
次のような、美しい場面を描いた歌もある。
手品師と手品師の結婚式の客席すべて白い鳩たち
客席にいるものは、人間ではない。友人でも、家族でも、同僚でも上司でもなく、自分達二人の商売道具、「白い鳩」だけが並んでいる。それにもかかわらず、孤独を感じさせるどころか、これ以上なく華々しいのがいい。
普段、白い鳩を出して、客を喜ばせている手品師の二人。結婚式に客は一人もいない。ばさばさばさと白い鳩たちが飛びかうなか、二人は壇上にいる。誰に認められる必要もなく、二人だけで、互いの生を十分に祝福しあっている。
最後に、本歌集の末尾に配置された歌を紹介する。
この手紙燃やしてほしいと思ったりしないもともと燃えているから
情熱のこもった「燃えている」手紙、と読み取ることもできるが、星のかけらとして生まれたすべてのものが、いつか太陽が死ぬ頃、宇宙の塵に戻ると考えれば、最初から世界は燃えていると言ったっていい。
なにかにあてて書かれた手紙は、最初からずっと燃えている。だからこそ、手紙を渡せること、手紙を書けることは、いま、ここの時点で奇跡である。数々の、燃えている三十一字の手紙が、いま、この時代にこの地球で生きてやがて燃えていく読者の心を震わせる。