「詩客」短歌時評

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短歌時評第121回 文語短歌の今日的意義――渡辺松男短歌をめぐって 春野りりん

2016-06-25 10:00:39 | 短歌時評
 困難な時代状況を抉り出すような歌を多く目にするなかで、中津昌子の歌壇時評(角川短歌2016年5月号)に同感した。
 「…深く心に届こうとするのが、東北の自然を歌った歌、破壊しながらふたたびわたしたちを深く包む、人知を超えて存在するものであることを改めて思う。ここに引用したような歌をもっと読みたい、と思った。それは自身を省みるに栄養を求めるような気持ちであることに気づく。人間は悲惨なものばかりを突きつけられては生きてゆけない。状況が悪ければ悪いほど、それを正確に認識すると共に、一方で力を与えるものが必要であるはずだ。短歌という文芸はその両面を担えるものであろう。」「人間の息が浅いと言われる現代、やはりわたしたちには息づき深い厚みがある歌が必要なのではないかと思うのだ。

 ところで、昨年出版された川野里子『七十年の孤独-戦後短歌からの問い』は、「短歌を定点として観測した『私』と『われわれ』の精神史」(「はじめに」より引用)を論じた好著である。川野は〈私〉論及び文語と口語の問題に言及し、万葉調の擬古文体が戦意を高揚する文体として広がった危惧を取り上げつつも、なお文語が滅びない理由を考察する。そのなかで
軽い混交文体が主流である今日は、怒りや怨みといったネガティブな情を普遍的な問いに変換することの難しい時代だ。〈私〉の日常を超えにくく、怨はただちに〈私〉怨となってしまう。まして過去の歴史に自らの心情を通わせることは難しい。それに対して文語はその厚みの内に〈私〉を超えた心の歴史を蓄えている。独自の宇宙を構成できる力があるのだ。」「哀しみや怨みが小さな〈私〉を超え、もっと普遍的な広がりとなることを願い、また過去の哀しみに連なろうとするとき、文語は必要とされた。
という指摘がとりわけ印象に残った。

 また、同著の最終章「『ありがとう』と言う者―渡辺松男の〈私〉」で、川野は次のように述べる。
渡辺の世界の〈私〉は『人生』のような限界をもたず、質量ももたず、無味無臭であるようにさえ見える。同時に近代的な〈私〉も前衛短歌におけるような〈われわれ〉もとうに通じぬ『存在としての悲哀』とでも呼びたくなるものを抱え込んでいる。」「渡辺の世界における主語は、すでに発語主体としての固定した位置をもっていない。〈私〉と〈われわれ〉の境界はなく、〈私〉はさまざまな発語の瞬間瞬間に立ち現れる。そしてまさにそのような位相からしか語り得ない人間の存在としての尊さ、哀しさ、孤独、が掬い取られるのだ。」「渡辺はこのように、きわめて独自な感覚から森羅万象を存在させている普遍的な真実まで一気に貫く。独自性から普遍性までのその振れ幅のダイナミックさ、大きさはおそらくこれまでの短歌になかったものだろう。

 2014年と今年刊行された渡辺松男歌集『きなげつの魚』、『雨(ふ)る』の2冊も、川野の述べるような位相から詠まれている。

 われの呼気われともいへぬそよかぜのえながやまがらこならとあそぶ 『きなげつの魚』

 ひらきたる眼は牢の門 対岸はゆふぐも照るを自転車がゆく 『雨(ふ)る』

 身体的に痛切な状況にあるかどうかにかかわらず、ひとは肉体という牢に囚われている。そこでは「私」が他者ないし外界から隔絶した存在として認識される。しかし、外界は自らの鏡であり、互いに映し合っていると識るとき「私」という境界が失われる。

 かなしみは深空となりてあが瑠璃のかがみのからだヒマラヤ映す 『きなげつの魚』

 れいれいとまひるの星のくまなきをわがそとそのままわがうちの空 『雨(ふ)る』

 をみなてふあをいかがみに逢ひにけりおもてながるるせせらぎのおと 

 おそろしきことながら紅葉ちりゆくはむしろ歓喜として個をもたず 『きなげつの魚』

 われはわれ以外にあらずとめちやくちやなことおもへる日臼は石臼

 一首目、かなしみが透き通りヒマラヤの瑠璃色の空として感じられるとき、自分自身もそれを映して瑠璃色の空となる。二首目、肉体の眼には映らない真昼の満天の星空は、自らのうちにも広がる宇宙なのだ。また三首目では、青い鏡のように清心な女性が、肉体の眼に見え耳に聞こえるものであるかはともかく、女性の外を流れる涼やかなせせらぎを映し出している。四首目、「私」という個をもたないことは、歓喜なのだという(なお、一首では「桜」ではなく「紅葉」の散る様子が選択され、かつ「おそろしきことながら」と付言されている)。五首目、渡辺はむしろ「私」が私でしかないと思うことのほうが道理に合わないのだと詠う。存在そのものとしてたびたび渡辺に詠われる臼は、「私」が個に囚われるとき、ただの石臼という物体に変じてしまうのである。

 めじろ眼をとぢておちけりわがいのちひとひのびなば鳥いくつおつ 『きなげつの魚』

 大き蠅うち殺したりそのせつな翅生えてわれのなにかが飛びぬ 『雨(ふ)る』

 鮎一尾焼きて夕餉とするときにだれかが泣きぬわたしのなかの 

 ここの蜘蛛殺さばあそこの蜘蛛もきゆ無限連関のどこかにわが死 

 渡辺は、この無限連関、存在のつらなりという主題を繰り返し詠う。すべての存在がつながり合っていることを強く感取するとき、「私」は「私」をはみだし、あらゆる存在を、あるいは空間そのものを「私」として感得する。そこでは、互いに存在し合って響き合うことが、鈴の音のようにかなしく聞こえるのだ。

 かれ枝ゆ枯えだへとぶ鳥かげのわれながらときにわれをはみだす 『雨(ふ)る』

 みじかかる世を鳴きたてし春蟬のすべてがわれかおちて仰臥す 『きなげつの魚』

 くうかんを ちぢめ くうかんを ひろげ 銀河に芥子にわがみひびく身

 雪の明けに鈴のやうねといふきみよしいんとひびく木も家も鈴 『雨(ふ)る』 

 鈴がなり河骨咲きぬおもひでになるまへのここ水惑星に 『きなげつの魚』

 このように響き合うのは、あらゆるものが「ひかりの水」と名づけうる本質によって存在するからだと詠われる。

 この世ならぬひかりのみづをつつみたる桃はゆふぐれどきに食むもの 『雨(ふ)る』

 みえぬみづながれてゐたり竹伐りてあかるくなりし分のせせらぎ 『きなげつの魚』

 この世の輪郭が薄らぐ夕ぐれどきの桃は、この世の果実であることを超え、「ひかりの水」という本質そのものを差し出す。竹がなくなった空間に差す光は、桃のうちに包まれる「ひかりの水」と同じものであろう。息の深い渡辺の歌を通じて「ひかりの水」に触れるとき、得も言われぬ懐かしい平安に包まれる心地がする。
 さらに、心が落ち着き深い平安のなかにあるとき、存在は響き合いを超えて融け合い、かたちを失う。

 木に凭れこころおちつかせてをればとほい空ちかい空ととけあふ 『雨(ふ)る』

 ひととひと融けあふやうなやすらぎのああこれだサラシナシヨウマの匂ひ 

 五月はおもふ自分が窓でありし日の風通らせてゐしここちよさ
 

 風を通わせて外界をそのままに映す窓は、鏡と同様に確固たる「私」の対極にある。これは、「まど」を筆名としたまど・みちおの世界にも通じるものである。

 リンゴ   まど・みちお 

 リンゴを ひとつ
 ここに おくと
 りんごの
 この 大きさは
 この リンゴだけで
 いっぱいだ

 リンゴが ひとつ
 ここに ある
 ほかには
 なんにも ない

 ああ ここで
 あることと
 ないことが
 まぶしいように
 ぴったりだ


 この「リンゴ」の詩は、渡辺の歌にたびたび存在そのものとして現れる「臼」を想起させる。

 臼ここにあるゆゑなんのわけもなくかなしいここにあるといふこと 『きなげつの魚』

 臼をただ臼とし永くみてをれば臼のかたちの無のあらはるる
 

 病苦に限らないことだが、「私」という肉体の牢のうちにいてこの世の体験をすることも、肉体を離れる日を受け入れることも、ときに艱難を極める。そうだとしても、夢というべきこの世が須臾であるからこそ、光を享けてこの世界に輝くものは、このうえなく美しい。「私」とは「私」を超えた存在だと認識しているからこそ、ここに形をもって個として存在する須臾のひかりは、かぎりなくかなしい。

 春昼といふおほけむりたちぬればたゆたひてたれもゆめのうちがは 『きなげつの魚』

 あぢさゐのみえざるひかりうけて咲みひかりさやげばあぢさゐのきゆ 

 気づきたるとき今生にわれのゐておどろきの手を夕虹にふる 『雨(ふ)る』

 庭すみのおちば溜りにゐる猫は、ゐしねこは、眼光のみ残したり  

 ひかりほどのおもさをうけてちるはなのはなのひとつのまだちらぬとき 

 残照によばれたる葉はうらがへりとりかへしつかぬこともかがやく 

 祖母のたべこぼしたるごはんつぶひろひさびしくなりぬ貴石のやうで

 渡辺の位相は、深い洞察と人生体験から育まれたものかもしれない。けれども、シラネアフヒの一首を読むとき、それは「私」が「私」であるという力を抜くことによって得られるのではないか、とも思うのだ。

 いちぬけしときゆなんばんぎせる愛(は)しやまひえて天球秘曲もきこゆ 『きなげつの魚』

 無力はもいかなるちからすずしさをおもひぬシラネアフヒのいろの 

 川野が前掲書で「〈私〉論の核には、常に戦時中を含む近代を、いかに克服するのかという宿題が孕まれている。」と指摘するように、時代の舵がどちらに切られるかという切実な問いは、短歌という場においては「私」や「われわれ」の問題として、文語、口語の問題と絡めて論じられる。まど・みちおが、わずかとはいえ戦争協力詩を作った例を持ち出すまでもなく、「私」という個の超越はきわめて慎重を要する問題である。しかし、「私」を閉ざして孤絶する方向ではなく、時間や空間、さらには新たな宇宙という大きなものへと開くあり方を模索することが、現代の抱える深刻な断絶や閉塞感を脱却するひとつの道なのかもしれない。短歌においては、現在の困難な状況を正確に映し出す口語短歌とともに、開かれた新たな共同性に届きうる息の深い文語短歌の意義を、いま改めて論じる必要があろう。


略歴
春野りりん(はるのりりん)
短歌人会同人。歌集『ここからが空』(本阿弥書店)