昨年11月にさかのぼる。「ビッグイシュー」(vol. 394)の特集に〈短歌〉が組まれた。
タイトルは「いよいよ、短歌」。
この「○○○○、短歌」の空欄に言葉を入れて短歌に縁のない人に訴えかけようとするとき、何を入れるだろうか。(そういう教員的思考がすこし嫌だけれど。)
いまなら短歌・いまさら短歌・そろそろ短歌・ようやく短歌・やっぱり短歌。
と考えてみると、「いよいよ、短歌」は(読点の入れ方を含めて)、無責任ふうに、いよいよ短歌の出番ですよ、とささやくような絶妙のところを突いていてセンスがよい。
ちなみに、「ビッグイシュー」(The BIG ISSUE) は、大きな駅の近くで赤いキャップと赤いベストの人(多くは中年男性という印象)が、片腕を上に大きく伸ばして雑誌サンプルを提示している、あれ。
https://www.bigissue.jp/about/
450円(税込)のページ数としてはやや割高な感じがするけれど、カラー誌でもあるし、時期を得た、いわゆる「意識高い系」の記事がある、という印象。
その中に短歌が入ったのはうれしいこと。
山田航、井上法子、木下龍也、が2ページずつ「エッセイ」を書いている。
80年台生まれ以降の歌人、というしぼられたテーマ設定も、総花的な現代短歌紹介にしないためにも良かったと思う。
3人が(おそらく依頼に従って)短歌との出会いから書きおこし、自作の紹介・解説、80年代以降生まれの作者と作品の紹介、という構成。
物語に興味がなく、文学に関心が薄かったと言う山田は、
「短歌は五七五七七という共通のリズムに言葉をはめるのでまるで作詞のようだったし、何より同じルールにさえ従えばキャリア関係なくみんな同じ土俵で扱われるというゲーム性が魅力的だった。平等なコミュニケーションの土台、それが短歌だった。」
と言う。これ、わかる。
筆者自身のことも言えば、短歌をこれまで続けてきたのもこういう感覚あってこそ、だった。1990年に入会した「コスモス」短歌会も、そのあとに参加した「コスモス」内同人誌「棧橋」も同年代の仲間はほとんどいなかった。しかし、90歳の男性とも50歳の女性とも上下関係も職業も地域差も取り込みながらも、短歌だけに集中して話ができた。そのフラットさ、潔さみたいなものは、おそらく他の分野にもあるはずだが、その世界に入らないと、合う合わないがわからないだろう。
3人の中では特に、井上法子のエッセイに目をみひらかされた。実は筆者は、井上の歌集『永遠でないほうの火』の良さがわからないままでいた。それは三十代以下の他の作者の歌にも一部共通するわからなさであった。
井上は、
「ほんの少し前まで、短歌は、作者イコール作中の主人公という私小説ふうの、暗黙の読みのルールが設定されていた(じつは今も、在り続けている)と言われている。わたしにとっての短歌のルールはその逆で、〈私〉を介入させないことにある。
〈私〉を、つまりわたしにまつわるなまなことがらを決して詠わないこと。経験や体験をどこまでも、愛着や諦念が澄んで透明になるまで濾過させてゆき、むこうがわから溢れてくるのを待つ。じっとりと、わたしではない、という、すべてのあなたがちりばめられるようになるまで。大切なのは〈非・私〉という個別性を強調するところではなく、かぎりのない、という状態を光らせることだ。だから、わたしにとって短歌は、言葉をつかわすことでさまざまな世界を引き寄せることのできる、透きとおった水べのようなもの。」
と書いている。これならわかる。井上作品をこのルールで読み直せばいいのだろうと、わかる。
ただ、「在り続けている」側のルールを良しとして歌と関わり始め、いまでも歌を作っている大多数の(たぶん)歌人からすると、このルールは不可解だろう。結社の歌を読んだり、一般の短歌大会の選をしたりすると、もっと素朴に短歌の中に自分を書き込むことを第一としている人がほとんどであると知ることになる。垂れ流している、と批判されることもあるかもしれない。だが、純度が高い作品を目指しすぎると量産できない苦しさがあるかもしれない。あるいは、自己模倣から逃れにくくなるのかもしれない。いや、そう思ってしまう大多数は、時代の変化に付いてゆけていないゆけていないのかもれない。
筆者は歌を読むとき、いや、「歌を読む」ではなく「歌を歌集単位で読むとき」には、その歌たちから作者の人間像がどう立ち上がってくるか、作者の顔がはっきりと見えるか、作者ならではの生活の泥臭さがいかに強く濃く匂ってくるか、などを評価の大きな基準としてきた。前衛短歌のあと、のんびりと。だから、せっかく歌集を読んだのにこの人は何をやっている人かわからないねえ、というネガティブなコメントをしたりする。そんな基準では井上の歌集はまったく読めないのだ。
もちろん、一首一首や10首程度のまとまりでは「言葉」の巧拙や純度を基に評価するのだし、井上作品の純度の高さはよくわかる。
これは、読み人知らず的な一首の読みと数年の蓄積である歌集の読み、あるいは歌業全体に対する把握、のような問題とリンクしてゆくのかもしれない。
さて、この「ビッグイシュー」(vol. 394)の編集後記には、おそらく編集長の水越洋子さんが、山上憶良、若山牧水、寺山修司の歌を挙げて、「10代の頃、ノートに書き留めていた歌だ。今、”口語短歌”をそっと口ずさみたい。」と書いている。寺山修司は〈私〉の介入のさせ方に一周回った虚構性があった。今、ノートに書かれるのは例えば穂村弘だろうか笹井宏之だろうか。「在り続けている」側の大衆性は数としては圧倒的だろうけれど、そうでない方向の大衆性がどれほどの作者・読者を獲得してゆくのか、それが果たしてサステイナブルなのか。時代の変化を楽しんでゆきたい。
あと、細かいことだが、引用元の書き方が短歌雑誌風でないのもおもしろかった。
(短歌雑誌では、「作品A+歌集名・作者名、作品B、作品C」との順に記すところが、ビッグイシューでは、「作品A、作品B、作品C+歌集名・作者名」となっていた。どちらにも合理性はあるのだけれど、ビッグイシュー流のが分かりやすそうだ。)
とにかく、ホームレスのひとたちの手から「ビッグイシュー」買おうとする人たちに、新しい短歌の姿が紹介されたのはうれしいことである。
https://www.bigissue.jp/backnumber/394/
バックナンバーの購入も容易なようだ。
街角で赤いベストの販売員さんも、バックナンバーをお持ちのようです。
* * *
さて、そういう井上の言葉を思いながら、黒瀬珂瀾『ひかりの針がうたふ』(書肆侃侃房)を読んだ。「うた新聞」3月号の「短歌想望」でも触れたけれど。
黒瀬の前歌集『蓮喰ひ人の日記』は、2011年2月にアイルランドを経てロンドンに居住した13カ月間の記録だった。妻の研究に付き添っての滞英生活。その7月には長女が誕生している。まさに、〈私〉と家族が前面に出ていた。そこに読みどころがあった。
黒瀬は第一歌集『黒輝宮』では、例えば、
地下街を廃神殿と思ふまでにアポロの髪をけぶらせて来ぬ
咲き終へし薔薇のごとくに青年が汗ばむ胸をさらすを見たり
のような耽美的な作風だった。それが、次の『空庭』ではもっと具体的な現実とのつながりが濃くなっていった。そして、『蓮喰ひ人の日記』を経て、この『ひかりの針がうたふ』では、ひとり娘を世話する父として、また博多湾の水質調査をする船に乗り込む身として、の自分の立場があり、迫力があった。『黒輝宮』のポーズの取り方と、もう青年ではないひとりの男性としての現実とが、うまい具合に絡み合っているようだった。デビュー当時から知るものにとってが、いわゆるゲインロス効果(俗にいうギャップ萌え)の作用もあろうか。(タイトルの変遷が分かり安すぎるほどだ。)
娘との生活の中から遠慮なく引用すれば、(冒頭の数字はページ番号)
012 父われの胸乳をひたに捻りゐる娘よ黄砂ふる夜が来る 『ひかりの針がうたふ』
033 麦茶呑みくだしてかあ、と息をつく乳児よ人となれ少しづつ
033 智慧の実を日々齧りゆく一歳はおむつパックを抱へくるなり
044 熱の児が眠りゆきつつしがみつくわれはいかなる渡海の筏
067 白湯のみて「おちやおいしー」と児は言へり育つらむ児は騙されながら
079 人様に糞便見せて褒めらるる稀少の時をまろまろとゐよ
079 やねのむかういつちやつたね、と手を振る児よ父には飛行機はまだ見えてゐて
094 けふひとひまた死なしめず寝かしつけ成人までは六千五百夜
096 あるかうする、と言ひ張りてわが手を払ふ児は纏ひたり小さき風を
などがいいと思った。具体的シーンを述べ、そこに考察を挟むパターンが多い。黄砂、人となれ、智慧の実、渡海の筏、騙されながら、まろまろとゐよ、小さき風。ポエティックでありながら言葉が先走っていない印象。さきほどの井上の言葉の、〈私〉を介入させない、とは真逆だ。私(と家族)を中心にする行き方であるけれど、じゅうぶんに「経験や体験をどこまでも、愛着や諦念が澄んで透明になるまで濾過させてゆき、むこうがわから溢れてくるのを待つ。」(井上)ことに成功していると思う。
歌はとうぜんなのだけれど、ひと通りではない。
また、原発事故の後処理に携わった歌も、臨場感があった。石巻市の瓦礫を受け入れた北九州市で働いたことがあったのか。はっきりとは記されていないが。
035 線量を見むと瓦礫を崩すとき泥に染まりしキティ落ち来ぬ
041 冬ざれの甘木の森に樹は倒れわが魂を刈る音かと思う
042 塵芥山を掘るは心を掘るに似て分解熱にぬるき湧水
一首目の「キティ」には、そのぬいぐるみ(たぶん)を抱いていた子供の運命を遠く思う歌。二首目は魂が刈られるという把握が斬新。三首目。ゴミの山が持つ熱のリアルさがある。こういう思い内容に文語がまだまだ有効なことも思う。
また、次の歌は被災地で除染作業をしたものと読み取れる。
053 水洗ひされたる家にしたたれる水に言葉は湿りゆくのみ
056 行き交へるバスどのバスも服青き男ひしめき1Fへゆく
058 先客の名を隠しつつ鉛筆を吾に渡せりスクリーニング受付
一首目は、現実の巨大な圧力を前にして、言葉の切っ先が鈍る。言葉の存在のはかなさすら感じた瞬間かもしれない。二首目。東京ではあまり報道されなくなってしまったけれど、このシーンは続いているのだろう。三首目。名前を隠す必要がある、という事実の異様さだろう。どれも事実性を一首の中心に据えながら、独自の「短歌的」視点でルポルタージュのように切り取る。
博多湾の水質調査を題材にいた歌もいいが省略。
これを挙げ忘れた。
122 パパゴリラごりらをどりを披露せりママゴリラまだ恥ぢらひのある
先日、社会学者で作家でもある岸政彦さんのツイートに、友人に「岸さんの声で再生されるから」岸さんの小説は読めない、と言われたとあった。短歌の世界はその逆で作者を知れば知るほど、(幸運にも)声や表情を知れば知るほど作品に入りやすくなることはあろう。岡井隆の口吻は、岡井隆の歌をさらによく響かせるだろう。
ということを考えると、黒いロングコートを着こなしていた真顔の黒瀬さんを知っていると、この歌がとてもとても愛おしくなるのだ。いつか、眼鏡を娘さんに踏まれたと言って、そのレンズ部分とブリッジをセロテープで留めていた黒瀬さんを思い出しました。
* * *
今回、「八雁」2021年1月号、「短歌とジェンダー 何が問題なのか」についても触れたかったが、なかなか手強いテーマであり考えがまとまらない。いずれ。
これで1年間4回の執筆は終了。来年度も継続させていただきます。
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