世の中は「短歌ブーム」なのだそうだ。
NHKの朝ドラでも短歌が話題になっていたらしいし(勤め人の私は一度も見れなかったけど)、そのうち、それこそテレビで、「プレバト‼」のような、タレントが短歌を詠んで歌人に査定される番組がうまれたり、短歌甲子園が特番で放映されたりするようになるかもしれない。
けれど、私たち歌人が良く知っている「短歌」。…それは、昨日の歌会で検討したあの詠草だったり、一昨日に読んで感動したあの歌集の作品だったり、あるいは、先月に高名な賞をうけたあのベテラン歌人のあの連作だったり、半年前に話題になった総合誌新人賞のあの30首作品だったり…。という、短歌の世界で、毎日当たり前に鑑賞されている、あのような「短歌」が、今回のブームにのって、世の中の注目を浴びたりすることなんて、あり得るのだろうか。
はたして、世の中でいわれている「短歌ブーム」という短歌とは、本当に、私たち歌人が知っている、昨日の歌会で検討したような、あの「短歌」なのか。
「短歌ブーム」の短歌とは何なのか。
そんな疑問にはっきりと応えたのが、「短歌研究年鑑2022」の黒瀬珂瀾の論考だった。
黒瀬は言う。
メディアの人々や世間が発見したのは短歌文化の体系ではない。日本古来の伝統文化が現代に再発見されたのでは決してない。言葉をフレーズ化してエモいコンテンツとして流通させる目新しいツールとして現代定型句が創出された。短歌ブームにおける短歌とはユーザーにとってとびきり新しい、珍しい、新発見された便利アプリである。(中略)
短歌というコンテンツは他コンテンツの代替物として発見されていく。俳句ほど玄人っぽくない。現代詩ほど難しくない。そして、小説ほど読むのに時間も労力もかからない。
(「短歌研究」2022年12月号「短歌研究年鑑2022」)
実は、「短歌ブーム」でいう短歌というのは、私たち歌人が理解しているあの「短歌」ではなかった。そうではなくて、「ユーザーにとってとびきり新しい、珍しい、新発見された便利アプリ」のことだった。それは、新発見だから、私たち歌人が知るはずもない、あたらしい文芸ジャンルなのだ。
そして、その便利アプリで表示されているものは、「言葉をフレーズ化してエモいコンテンツとして流通させる目新しいツールとして現代定型句」なのだ。こちらも、私たちが知っている「短歌」の作品ではなく、「現代定型句」という、目新しいツールということだ。
であるから、ブームだからといって、私たち歌人が知っている「短歌」がブームなのではなく、言い換えれば「現代定型句」ブームといったほうが、より正確ということになるだろう。
筆者は、この黒瀬の主張を首肯する。
「現代定型句」とは、よくぞいったものである。
そういうわけで、「短歌ブーム」の短歌の正体が、わかったことと思う。
じゃあ、私たちが知っている「短歌」と、いわゆる「短歌ブーム」で注目されている「現代定型句」の違いとはなんだろう。
昨日、歌会でみんなで持ち寄って検討しあったあの詠草だって、いうなれば「現代定型句」といえるのではないだろうか。何かはっきりとした違いはあるのか。
というと、何をもって違うのか、ということはいえないだろう。
もしかしたら、斎藤茂吉の作品だって、ユーザーにとっては、エモいコンテンツとして流通するかもしれないのだから。
だったら、「現代定型句」だと皮肉られようとなんだろうと、広く短歌の世界の入り口として、ブームになることはいいことじゃないか。
と、そういう割り切りで、世の中に注目されるべく、この度のブームに乗じるという選択もあろうかと思う。
ただ、そうなっていくと、「短歌」の行きつく先は、間違いなく大衆迎合的なものになるだけだろう。エモいコンテンツを創造したい人にとっては、昨今のブームはまたとないチャンスとなるだろうが、エモいコンテンツを創出するために歌作をしていない歌人にとっては、実は、そんなコンテンツの創出は、現実問題どうでもいいことだ。
けれど、世の中に注目されたいのだったら、便利なアプリとしての「現代定型句」を作らなくてはならない。つまりは、便利なアプリを求めるユーザーのために歌を詠い続けなくてはならない、ということである。
そうなったら、冗談ではなく、文化体系としての私たちが良く知っている「短歌」は消滅する。
べつに文化体系としての「短歌」が消滅してもかまわないというのなら、それはそれでいいけど、消滅する以上、それは、もはや「短歌」とは呼べなくなるし、そうなると、やはり「現代定型句」あたりの名称が妥当なところだろう、というのが、筆者の意見だ。
本屋に歌集があるのはけしからんのに、カルチャーセンターで短歌を教える人が沢山いる事について「短歌を文学ではなく、お花や茶道みたいな習い事に堕するのはけしからん」となぜ誰も言わないんだとも思います。
短歌の世界というのは、歌人という大衆とは桁違いの高度な読みの力を持ったスペシャリスト達が切磋琢磨して作り上げている極めて文学的な集団なのだ…
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確かにそうだったらいいかもしれません。
しかし、実際はどうなんでしょうか。
100万円以上の出版費用をかけてまでも、作品を他人に読んでほしいと思うような人(歌人)たちが集まって作品を見せあったら、そりゃあ深く読み合いますよねと思います。
なぜなら一般の人はそこまで自分の作品が読まれるという事に執着しないからです。