「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 後ろ戸を閉じるための祝詞 若林 哲哉

2022-12-11 17:06:01 | 短歌時評


※注意
 この記事は、新海誠監督の映画「すずめの戸締まり」のストーリーに関する言及を多く含みます。まだ映画をご覧になっていない方は、ご注意ください。

 東日本大震災から4ヶ月弱、詩客・短歌時評に次の記事が投稿された。

生沼義朗「震災と祝詞とホームレス歌人」
http://shiika.sakura.ne.jp/jihyo/jihyo_tanka/2011-07-08-1731.html

もともと短歌には、ある共同体ひいては社会全体にエネルギーをあたえるための祝詞としての機能がある。と同時に、自分自身に対する祝詞という側面もある。自分自身を鼓舞あるいは慰撫することを通して社会へ何かを発信する、と言えばよいか。」とは生沼の指摘であるが、例えば俳句における震災詠に注目してみても、少なからず「祝詞」の側面があるだろう。昨年発表された〈蘆牙や三千六百五十日 高野ムツオ〉は、東日本大震災以後の10年という時間を1日単位に還元し、「蘆牙」という季語とともに表現したことで、過去を忘れまいとする思いと、それを抱えながらも強く生きていこうという思いが滲んでいる。和歌も祝詞も万葉の時代からうたわれてきたものであることを思えば、生沼の指摘は首肯できる。

 現在公開中の映画、新海誠監督の「すずめの戸締まり」は、東日本大震災をテーマに据えた作品である。主人公のすずめは、幼い頃、震災で母を亡くした。母を探し求めて「常世」に迷い込んでしまった経験から、災いを引き起こさんと「後ろ戸」から這い出る、通称「ミミズ」という存在が視えるようになる。ミミズを野放しにしておくと、その地域では大地震が起こってしまう。それを防ぐため、後ろ戸を閉じる仕事「閉じ師」の末裔である草太とともに、宮崎から北上する形で日本を旅しつつ、各地の後ろ戸を閉じてゆくというストーリーである。後ろ戸は、各地に存在する廃墟で開くとされる。
 さて、映画の賛否はさておき、この後ろ戸を閉じるための手順が、特徴的に描かれている。まず、後ろ戸の前で目を閉じ、そこで暮らしていた人々やかつて存在した景色を想うことで、鍵穴を出現させる。そして、祝詞を唱えながら鍵を挿して回すと、後ろ戸が閉じる。
 作中で後ろ戸が開く場所とされる廃墟というのは、人々がかつて暮らしながらも、いつしか忘れ去られたままそこに残された営みの痕跡であり、存在したはずの人々の思念が薄れることで、後ろ戸が開くということらしい。廃墟から地震がもたらされるという設定だが、実際には、地震によって廃墟となった土地が一体どれだけあることだろうか。すずめと草太が担ったのは、そうした人々の営みの痕跡を、単なる風化から引き戻すということではないか。そうした物語の最後ですずめは、震災で母を亡くしたという記憶を内面化する。
 
 閑話休題、「文学通信」で、「震災短歌を読み直す」という連載が行われている。今年の3月11日から、毎月更新されているのだが、第2回を担当した加島正浩は、次のように述べる。(https://bungaku-report.com/blog/2022/04/2-20223814001532.html

 もちろん次のように述べることで、その人たちのかなしみを蔑ろにしたいわけでは決してなく、いまもなお奪われつつづけている現実を忘れ、発災当時のことを思い返したいわけでもない。
 しかし、直接に何かを奪われたわけではないにしても、東日本大震災を目にしたとき、わたしたちは何かを感じたはずであり、そのときに、気がついてはいなかっただけで、何かを失っていたのではないか。(中略)何を失ったのかは、震災以前にその人が有していた経験によるのだろう。
 わたしたちは、自らの意志に反して日常の生活が大きく変えられなければ、凄惨な出来事を前にしたときの感覚を次第に忘れ、日常の生活へと戻っていく。しかし、気がつかなかっただけで、忘れてしまっただけで、わたしたちは何かをおそらく失っている。
 圧倒的な日常の前では、失った感覚すら失ってしまう、忘れてしまったことすら忘れてしまうが、そのことを思い出させて、認識させなおすことが「文学」にはできる。

 僕自身も、実際に被災した訳ではない。しかし、もうすぐ小学校を卒業しようかという3月、地震が起こったことを下校途中で知らないおじさんに教えられたことも、福島に住む親戚をひどく心配したことも、津波の映像とACのCMが交互に流れるテレビをひたすら観て呆然としていたことも、中学生になってから自分のランドセルを被災地に送ることにしたのも、全部覚えている。放射線について調べて、正しく役立てられるようにと放射線技師を志した時期もあった。そんなことを思い出すと、胸が苦しくなる。僕でさえこうなのだから、想像もつかないぐらいのかなしみを抱えている人だっている。加島の言うように、震災の前後で何かを感じて、何かを失ったことには間違いないのだ。
 失われた何か――それは、我々の心の中に「廃墟」のようなものとしてあって、文学によってその存在を思いだし、認識しなおした時に、後ろ戸が開くようなものではないだろうか。後ろ戸の先には常世がある。そこからミミズが這い出してくるかもしれないし、そんなことはないかもしれない。
 しかしながら、失われた何かに無自覚なまま、知らないうちにその何かが後ろ戸から這い出してきて心を食いつぶす、そんなことがあるとすれば、その前に、後ろ戸を閉じなければならない。詩歌は、そのための祝詞となり得るのではないか。