「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評169回 母はもう死者。安全なところにいる――川野里子『天窓紀行』から考える。 大松 達知

2021-10-09 00:40:51 | 短歌時評

 ふらんす堂の〈短歌日記〉シリーズが好きである。
四六版よりも一回り小さい手のひらサイズ。380ページくらいあって、かわいい。スマフォを分厚くしたような、コロコロコミックを小型にしたような感じ。

 その11冊目、川野里子さんの『天窓紀行』が出た。
 〈短歌日記2020〉川野里子の366日。

  1ページに1首と散文。
 「散文」と言っても、「ハンバーグらしい。」とか「時々公園でご飯を食べる。」だけの日もある。120文字を超える日もある。詞書のように歌の前に置かれるでもない、歌物語のように次の歌につながってゆくのでもない。新しいジャンルと呼んでいいスタイルだ。
 (2019年分をまとめた藤島秀憲さんの『オナカシロコ』の場合は、ほぼ毎日、「エッセイ」と呼べるほどの分量の散文がついていた。いや、ついていた、というのがおかしいのか。藤島さんの場合は「歌と散文」の間に主従関係は無い様子であった。)

 だからこそ、このシリーズは、短歌とか何か、歌集とは何かを、その形式から考えさせる実験でもあると思う。

 一つには、連載の形態の特殊性の点。
 これまでも、通年の日記短歌の連載としては月刊総合誌のものがあった。のちに、佐佐木幸綱『呑牛』(2017年)や、河野裕子『日付のある歌』(2000年〜2001年)、永田紅『北部キャンパスの日々』(1999年〜2000年)としてまとめられた連作が印象深い。
 
 ただ、このふらんす堂の企画は、毎日更新されるホームページ上のもの。月刊誌のようにひと月ごとに推敲し直すことができない。(書籍化のときはしているかもしれない。)

 そのスピード感によって、(数日のストックがあるのかもしれないが)基本的には連日、という体裁での作者の生活や思考がそのまま反映されている(されてしまう)と思う。(かつて村上春樹は週刊誌の連載のときにはストックを作っておき、すこしずつ入れ替えていったそうだ。が、発表が毎日となるとそんな余裕はないだろう。)

 もう一つは、1首の独立性や連作のありかたや詞書の効用などについて考えさせてくれる点。

 短歌は、究極的には一首だけで独立すべきなのか。

  ・ガレージにトラックひとつ入らむとす少しためらひ入りてゆきたり 齋藤茂吉

 のような、作者名がなくても、時代が変わっても良さが分かる歌はある。書かれた情報をそのまま受け取り、その大きさのまま楽しむタイプの歌である。
 その一方、例えば、

  ・沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ 齋藤茂吉

 など、書かれた情報だけでは表面上の解釈にとどまる歌もある。特定の作者の特定の立場から発せられたと分かることが鑑賞の分かれ目になるタイプの歌もいい。
両方のタイプに良さがあり、その間には無数の比重のグラデーションがある。

 だがやはり、短歌は短い。周辺情報、背景知識によって支えられ、読みが深まる場合が多かろう。それは短歌作品のあり方として良いことなのか、周辺情報は余計なことなのか、そんなことを考えさせる。どちらかに寄りかかってもバランスが悪い。蛇足になってはなお悪い。歌と外部情報の絶妙な距離感のとり方とは何なのか。それを考えさせるのもこの〈短歌日記〉シリーズの良さである。
  例えば、

   009  鍵穴に鍵を挿すとき空き家にはおほきなさびしい耳ひとつある (1月8日)(歌の冒頭の数字はページ番号)

 だけ読むと、空き家に入るはどんな状況なのか、確定しない。不動産業関係者でなければ、おそらく親族の持ち物なのだろうなという推測はつくけれど。
そこで、そのあとの散文欄で、

 実家に帰る。というか空き家に帰る。長いあいだ入院していた母が亡くなり、留守宅だった家は空き家になった、空き家と留守宅は何かが違う。

 という文章を読むと状況が(のちの研究者の手を借りなくても)はっきりとする。落ち着いて歌を楽しめる(それは良くない、ミステリアスなままがいいという意見もあるだろう。)。あるいは、他のページに「故郷の久住山の麓に父母の墓を移すことにした。ついでに自分の墓もその隣に買った。」ともある。そこで作者は、千葉県の自宅から大分県竹田市に通っているのだとわかる。(もちろんこれまでの歌集の読者であればわかっていることだけど。)

 ちなみに、親が亡くなったあとの空き家問題は現代的なテーマで、

  262  ただいまと言へばかすかに揺れをりし揺り椅子止まる ただいま空き家

 などの歌がある。「現代的」もこの歌集のキーワードだ。
 散文との関係についてもう一例。

  112  読み終へしメールと書かむとするメールあはひに青い湖がある(4月17日)

 歌だけを読んだ瞬間は、「青い湖」とは、作者の心の中にたゆたう時間や空間や思考をシュールにとらえたものだろうと思った。美しく光るけれど、湖底にはなにか得体のしれないものが湛えられいるイメージがさっと浮かんだ。
 しかし、そのあとに、

 蔵王のお釜に三度行ったけれど、三度ともに全く違う様子をしているので初めてきたような気がした。水の量も、その色も、周囲の気配も。

 と文章がある。なんだ、メールを読んで、蔵王のお釜を見て、そのあと返信をしようとしている、という現実的な時間軸があったんだ、とやや興醒めにも思った。これは蛇足かなあ。しかし、そう思って歌を読むと、そうでもない。自分のなかの解釈鑑賞の道筋が複線になったような気がしただけだった。現実のお釜を念頭にしながらもシュールな青い湖を想像するような。短歌の読者はそうやって外部情報を外したり一部取り入れたりして読んでいるのだ、と体感した。

 かつて川野里子さんの歌は、ちょっと難しくて考えさせられるような雰囲気が強かった。ところが、前歌集『歓待』のあたりから、その哲学的で高度な思考を求める側面と、実生活の泥臭い側面がぴたっと合わさってきている感じがして、とても好きである。この『天窓紀行』では、上記のような珍しい発表形態によって、いっそう実生活に近い傾向が強まっている気がする。
 いくらでもものを言いたくなる歌集なのだ。
 
 息子問題がおもしろい。この年、35歳になられたというおひとりの息子さん。

  023  既読スルー未読スルーそして既読スルー息子の気配そこにあるなり
  067  息子来てかすかな凹み残しゆく布団に椅子にしばらくわれに
  186  お子さんは? と問はれ瞬間われは子を忘れてをりぬ小鳥のやうに
  205  吊り橋のやうに常なる哀しみのひとすぢ架かる子を持ちてより
  210  鰻屋に待ち合はせれば照りの良きよくある笑顔に息子現はる
  297  怒るわれを怒らぬ息子がみておりぬ未来からしんと振り返るやうに

 私は息子の方の立場として、母親の気持ちを知る。加えて、人間が「自分とはだれか」を規定するときの大きな要素のひとつが(ふだんは強く意識しなくても)、出ていると思う。理知的なクールでかっこいい川野さん。その中の生々しい母親としての面が滲み出ているところにニヤリとさせられた。二首目の「しばらくわれに」、四首目の「常なる哀しみのひとすぢ架かる」って泣く。

 夫君を通しての自分はそれよりややユーモラスだ。

  133  風邪ぎみで運動不足で食べ過ぎでわたしのやうなあなたと暮らす
  348  せかせかとバター塗る癖そのままにきづけば総白髪となりて夫ゐる 

 とくに二首目のあとの散文欄にはひとこと、「この人は誰だろう?」とある。私も長らく夫婦関係を継続しているから分かる。分かりすぎる。笑ってしまい、そして哲学的。
そして、思考の矢は、「この自分は誰だろう?」に向くのだ。それは、「未来」と「死」という言葉などによっても詠まれる。

  004  真つ白な手帳ひらけば未来とははろばろとして死後に似てをり
  071  未来とは死のことなれどなにか嬉し辛夷咲く日が桜咲く日が
  197  歩道橋のかしこに夏草生えて揺れ私はどこへ渡らむとする
  218  素麺にするべし昼はと思ふとき死はそこにあり白滝として
  331  秋空のいづこに消えてもよきものを東京行きの飛行機に乗る
  344  柚ジャムつくり棚に置くとき音がせりことりと永遠の途中の音が
  355  水仙を活ければ白い水仙に向かふ側ありわたしはこちらに

 過去から未来に移動してゆく過程のどこかにいる〈自分〉の意識が感じられた。しかし、どの歌にも現実的な物体が力強く存在している。その物体につなぎとめられてまだこの世にあるという意識なのかもしれない。

 この二〇二〇年は新型コロナウイルスに振り回された最初の年。大学の講義がオンラインになったというのも現代的なテーマであろう。

  136  オンライン授業開始す宇宙船のクルーのやうな学生諸君
  179  つぎつぎに顔あらはれて並びゆく画面のどこに吾はゐるのか
  219  はーい、と笑ひ、ですね!と応へひとたびも顔見せぬなり今年の学生

 などの中にも、自分の存在のありかを探す不安感が滲んでいるようだ。あれこれ挙げているとキリがない。が、次の「煮魚シリーズ」三首にも、人間である自分の存在を厳しく問い詰める方向が感じられて震撼した。人間として生き物を殺してゆくことについての罪悪感はある。しかしそれを意識しすぎるのは辛い。ときどき思い出して心の中でそっとお詫びする感覚だろうか。そのあたり、人ぞれぞれ。

  006  金目鯛ただいちど生まれ驚いて吾を見つめて見ひらいたまま
  117  めばる煮て春まだ寒し話しつつほろりほろりとめばるを壊す
  361  こんなにも追いつめられしことあるか身を反らせつつ煮えてゆく鱈

 最後に3首挙げる。

  200  濁流のなかに老母を残さずによかつた死なせてやつてよかつた

 7月9日の歌。散文欄に

 四日、球磨川氾濫。七日、筑後川氾濫、八日、大分川氾濫。母は困るとガーゼのハンカチを握り締めおろおろしていた。実家近くの川も黒い濁流に揉まれ、橋が危うくなっていることだろう。ガーゼのハンカチを握り締め、今、どれだけの人が怯えていることだろう。母はもう死者。安全なところにいる。

 とある。最後の「母はもう死者。安全なところにいる。」はもちろん逆説的な言い方だが、千葉・大分を往復しながら長く母親を介護してきた歌人の実感として、とても重く感じられた。このフレーズは、歌に入れると強すぎると作者は感じたのかもしれない。歌はつぶやくように出して、散文とのバランスをとる。構成の妙を生かしている好例だと思った。やっぱり川野さん、巧いのだ。

  239  それはわたしから溢れた真つ黒な重油で集めるべきなりわたしが
  244  にんげんは病むものならば仕方なし病みてはならぬを海深く病む

 一首目は8月16日。

 モーリシャスでの座礁事故による重油漏れ。現地の人が人毛を集めてオイルフェンスを作り、油にまみれて回収作業をしている。申し訳ない。現地の人に、海に、魚に、珊瑚に、鳥にも、マングローブにも、蟹にも、貝にも、そして未来にも

 というのが、散文欄。こうした真っ当な思考がある。そして、そこから「それはわたしから・溢れた真つ黒な・重油で・集めるべきなり・わたしが」(8・9・4・8・4の破調と読んだ)という、もうどうしようもなくて壊れかかってしまうほどの申し訳なさを一首で体現している作品にたどりつく。

 この他、亡くなった友人への手紙、病を克服した友人とのやりとり、故郷大分との関わり、シンガポール旅行など、さまざまな読みのポイントがある歌集である。
 読後感の充実は、歌はもちろん、散文と歌の往復によって作者像が他の歌集よりもくっきりとしたことにもあるのだと思う。
 ただ、この形式、消耗するだろうなあと思うし、日々の読者の応援がないと務まらないだろうなあと思った。すごい企画だなのだ。