9月に、松村正直さんの『踊り場からの眺め』という時評集が出た(六花書林)。
2011年4月からから今年3月までのまでの10年間の時評が収められている。
2011年に東直子さんの講座で短歌を始めたわたしにとってはちょうど自分の歌歴と重なるということもあって、興味深く読んだ。
東日本大震災のことが継続的に取り上げられているし、物語性、虚構や「われ」の問題、文語と口語の問題などは切り口を変えて、何度も取り上げられ、最後の方ではコロナウイルスの感染にも触れられている。
10年分の時評を読むと、現在の短歌において取り上げるべき問題は一通り取り上げられているように思えるけれど、松村さんはその多くで、対立する主張の二者択一でなくそのバランス・重なり合い方を論じるべきと述べている。
たとえば、作者と作中主体を論じた「『われ』の二重構造」(102頁)、「何を読むか」と「どのように読むか」を論じた「どこまで踏み込むか」(96頁)、いずれもバランスの問題として論じている。
二者択一の議論とバランスの議論のどちらがある問題の検討の枠組みとしてふさわしいかは、二者択一の議論に立ってどちらを選択するか、バランスの議論に立ってどのようにバランスを取るかの前段階の議論であり、松村さんの時評によって議論の枠組みを多くの点で整理できたように思う。
ある問題がバランス論であるというとき、バランスの取り方については、いろいろな考え方があるだろうが、二者択一論とバランス論のどちらが適当かについては、歌人は、共通の考えを持てるように議論を尽くすべきように思う。
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9月には、西巻真さんの『ダスビダーニャ』(明眸舎)も読んだ。
新しきシーツ纏へるわが肌にひび割れし磁器のごとき涼しさ(30頁)
唯一の外出日としてカレンダーに記す生活保護費支給日(50頁)
鉄の女逝きしと聞けばたとふべき鉄なし鉄の時代終はりぬ(74頁)
社会詠と生活詠は二者択一ではないことが実例によって示されているように思う。わたしたちは社会のなかで多く類型的で、交換可能であるように見えるけれど、そういうわたしたちが実際は一人ひとり違う存在であることが、西巻さんの歌を読むと実感されて、勇気づけられる。
ラビュリントス、春の図書館、美しい異国語を話す女友だち(90頁)
きみと読む般若心経やはらかく祈りはきつと制度ではない(124頁)
偏西風のしづかな夜にきみと語る東直子の歌ものがたり(135頁)