「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌相互評29 山川築から寺井龍哉「大学院抄」へ

2018-11-25 15:45:27 | 短歌相互評
空あゆむ巨象の群れの溶けゆきて雲となりたるのちに眼をあぐ

そのまま受け取ると異様な光景だが、主体が眼をあげたのは象が雲となった後だから、象を捉えてはいないはずだ。すると「雲になる前の姿」を認識することは不可能ということになる。つまり、上の句には想像あるいは願望が入り込んでいるのではないだろうか。象は死ぬ前に群れから去るという都市伝説のように、消えていく巨象の群れは孤独感をかきたてる。全体を読むと、動きを表わすのは結句の「眼をあぐ」だけで、静かな一首といえる。この静的な印象は、連作に通底するものでもある。

秋晴れや机上ひとつを片づけてから出るといふことができない

連作の題やこのあとに続く歌からして、主体は勉学の徒であり、机はそのよりどころといえる。この歌は自宅、あるいは研究室から出かける前の場面だろう。片付けられない机は、彼の心の動揺の喩でもある(中学生のころ、担任の先生が「机の乱れは心の乱れ」なんておっしゃっていたことを思い出した)。初句では一首目につづいて空が登場し、しかも秋晴れだ。「や」という切れ字によって、澄み渡った空と主体の机および心の乱れの対比、あるいは屋外と屋内の対比が強調されている。また、初句だけが空を描き、二句以降で主体に焦点が移る構造は、一首目と対になっているようでもある。

君の頬あかくわが手のしろきかな二次会の話題おほかた無視す

アルコールが入って気分が高揚している「君」に対し、主体は盛り上がった雰囲気に乗れないのだろう。頬と手という身体の一部を切り取った端的な対比によって、2人の感情の落差が言外に提示されている。なんの二次会かは明示されていないのだけれど、連作を通して読むと、論文の中間発表で主体がきびしく批判された後の光景だと思えてしかたがない。

言はれればいつでも泣ける表情に深夜の坂をくだりくだりつ

上の句のひねくれた表現に立ち止まる。「言はれれば」は泣くように言われれば、という意味か。それは逆に、言われなければ泣かないということでもある。「表情に」の「に」という助詞の使い方が巧みで、滑らかに下の句へ移っている(これがたとえば「表情で」だったら一度切れてしまうだろう)。そして「深夜の坂をくだりくだりつ」というリフレインが効果的で、描かれているのは身体の動きだけれど、精神もまた暗く深いところへ、少しずつ確実に向かっていくことを暗示している。

孤独といふもの転がりて後ろ手に触れたり今は茄子のつめたさ

孤独という概念が「茄子のつめたさ」を持つものとして形象化されている。茄子のつるりとした感じはつめたさとよく響いているし、苦みのある味や暗い色調は、たしかに「孤独」と通じるところがある。主体は「孤独」に後ろ手に触れるだけで、目にするわけではない。この微妙な距離感に生々しさを感じた。

複写機のひとつひとつにともる灯を夢に見きまた目のあたりなる

「目のあたり」は眼前の意味か。複写機が何台か並び、それぞれに電源が入っている。そのような夢を見る主体は、複写機を頻繁に使用しているのだろう。景自体に加え、「ひとつひとつ」「また」という複数・反復を表わすことばが並び、一首自体が複写のような印象がある。また、電源が灯と表現され、さらにそれが夢というベールをかけられることで、眼前にありながら遠いような、不思議な感触を覚えた。

夜をかけて文字ならべられたるのみの資料ひかれりひかるまま捨つ

夜通しパソコンで資料を作成したが、それを価値のないものとして捨ててしまう。「文字ならべられたるのみ」という苦い認識が痛烈で、「ひかれり」「ひかるまま捨つ」という間をおかずに並べられた四句・五句に自棄のような疲労感が滲む。

書庫の鍵のながき鎖を小春日に回すさながら宍戸梅軒

宍戸梅軒は吉川英治『宮本武蔵』に登場する鎖鎌の達人で、武蔵と戦って敗れる人物である(というのは検索して知ったことですが)。しかし、主体が実際に回している鎖は武器ではなく、鍵の付属物だ。武器としての鎖は自分を解放し、敵を傷つけるものだが、この鎖は逆にあたかも自分を繋いでいるかのようだ。「さながら」というやや芝居かかった表現からは、自虐的な戯画化が読み取れる。

愛のみに待つにはあらず柱廊に干さるる靴の赤と黄と黒

柱廊は古い西洋建築などにある、柱が立ち並ぶ廊下のこと。やや観念的な初句・二句に対して、三句以降では一転して鮮やかな色彩が目に浮かぶ。干されている靴はいわば持ち主を待っているが、それは愛だけでなく様々な感情を含んでいる……ということなのか。あるいは三句以降をもっと象徴的に読み取るべきかもしれないが、いまひとつ読み切れなかった。『幸せの黄色いハンカチ』を連想したりもしたが……。

時計塔の時計は見えぬ並木にて八犬伝をふたたび読みき

八犬伝は曲亭馬琴による大長編小説(読本)。時計が見えない並木で、時間など存在しないかのように読みふけるのだろうか。

夜をはしる大型バスの胴腹のふるふがごとく生きたかりけり

大型バ「胴腹の」までが序詞的に「ふるふ」を導く。震うように生きるというのは、自分の存在を他者に意識させるようなことだろうか。胴腹とは一般的でないことばだけれど、大型バスの形容として非常にしっくりくる。

道の駅ひときは声のおほきかる老婆なだめて一座なごみぬ

道の駅は夜行バスの停車場所か。声の大きなお年寄りはしばしばいらっしゃるなあと思う。一座というのがおもしろい。知り合い同士ではなくても、同席している人々に連帯感や信頼感が生まれる瞬間はあるのだ。

滑走路と呼びても嘘でなき路よ いましばらくはひとりの暮らし

「滑走路」は、主体が今まで歩いてきた道を指していると読んだ。「呼びても嘘でなき」というからには、まだ飛び立ってはいないのだ。そこには、飛び立つこともできたけれど……という逡巡が含まれているのではないか。やや遠回しな表現にもそれが見て取れる。

このさきもそんなには変はらないだらう茱萸坂にそのひとを誘はむ

上の句のくだけた口語が印象的。「そんなには変はらない」と推測しているのはなんだろう。私は三句切れで、主体の漠然とした不全感のつぶやきだと読んだ。茱萸坂は千代田区永田町にある坂の名(らしい)。坂は四首目でネガティブな象徴として表れているが、そこにひとを誘うのだという。少し不穏さが匂う。「そのひと」は先に登場した「君」と同一なのか、少し考えたが、やや距離を感じさせる三人称からして、別人と判断した。

桐箪笥われにその背を見せぬまま六年(むとせ)を経たり、あいや七年(ななとせ)

年数は大学に入って独り暮らしを始めてからの期間と思われる。なるほど、長い間「同居」しているにもかかわらず、家具には全く知らない面があるのだ。擬人法と「あいや」というこれまた芝居がかった言い回しがおかしみを出しているが、やはり寂寥感も感じざるをえない。

矢を受けて乱るる隊伍わが胸にとどまれるまま逢ふために起つ

隊伍を映像として観たのか、あるいは本などで読んだのかはわからないが、それをなにか象徴的なものとして受け止めたのだろう。そのような心のまま「逢ふ」のは、なかなか穏やかならざるものを予感させる。

ちやん、ちやんと声をかけあふ少女らの手に手に赤きコカコーラ缶

「○○ちやん」という呼称は「○○さん」などと比べて幼さを感じさせる。また「ちやん、ちやん」は、話の落ちを表わす効果音のようでもある。少女たちの声に、主体はなにか終わりの兆候をかぎ取ったのかもしれない。赤いコーラの缶は危険信号のようにも見える、というのはすこし暗い方に考えすぎか。

人を待てば光あふるる秋の河 なにを忘れしゆゑのあかるさ

「あふるる」「秋」「川」「なに」「忘れし」「あかるさ」といった語頭のA音が開放的な印象を与える。陽光を受ける河の風景が「光あふるる」と美しく表現されているのだが、彼はそれを見て、なにを忘れたからそのあかるさがあるのか、と考えている。「暗い」……と言い切ることにはためらってしまうが、ここまで描かれたきた主体の姿は、決して明るくはない。河と対比される彼は、明るくなれない=忘れられないことばかりなのだろう。秋の河であることもさびしさを強調する。韻律(明)と内容(暗)および風景(明)と内面(暗)の対立が凝っている。

狡猾になれよと言へりかくわれに言はしめて雲ながれゆくなり

言ったのは主体で、そのことばを掛けた相手は、待ち合わせをした相手だろう。そして、彼にそう言わせたのは雲だという。冒頭の二首に表れているように、主体は空に感情を投影しており、ここでは逆になにかを受け取ったのだと思う。しかし雲自体はことばを発することなく、ただ流れていく。「狡猾になれよ」と言われた相手がどう反応したのかは、ここには書かれていない。一首を読んだあとには「狡猾になれよ」ということばの少々残酷な響きが残る。

空とほく呼びかはしつつ生き来しに友らつぎつぎ倒るる枯野

ふたたび、空だ。友たちは、主体と同じように大学院に進んで研究を続ける人たちだと捉えた。「空とほく呼びかはしつつ」を現実的に読むならば、連絡を取って励まし合うことだと思うが、このように書かれると、秋空に自分の発した大声が吸い込まれていき、かすかに友の応答が聞こえてくるような、心細い状況が浮かんでくる。しかし、「生き来し」という強い表現が選ばれていることからも、それを支えにしてきたのもたしかなことだろう。
ここまでに現れた宍戸梅軒や乱れる隊伍のイメージと合わせて、主体にとっての研究生活は、ほとんど戦いとして捉えられているように思える。友たちも倒れたという今、果たして八犬伝のような大団円に至る道はあるのだろうか。