「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 心臓の花とか、眼差の発火とか カニエ・ナハ

2015-04-30 21:06:58 | 短歌時評
 カニエと申します。こちらの「詩客」のサイトで昨年度は俳句時評をやっていたのですが、四月の人事で、短歌時評に異動になりました。私自身はふだん自由詩、いわゆる現代詩というジャンルに取り組んでいます。日本の詩人のビッグスリーと呼ばれるのが(と、私はかってに呼んでいるのですが、異論は多々あると思います)、萩原朔太郎、中原中也、宮澤賢治で、この三人はこんにちでももっとも有名かつ親しまれている詩人たちだと思うのですが、かれら三人とも、すくなくない数の短歌をのこしていて、朔太郎は『ソライロノハナ』、中也は『末黒野』(共著)という歌集を出してますし、賢治はその絶筆は二首の短歌です。そんなわけで短歌というのは、なんとなく、俳句よりも、 より現代詩の近くにいる気がするのですが、どういうわけか私には近寄りがたく感じてきたところもあり、今回短歌時評を一年間にわたって数回、書くことになりましたので、この機会に、私なりに、短歌と向きあえたらと思っています。

 とは思ったものの、いったいどの歌集から読めばよいのやら、皆目わからないので、まずは近所の書店でも手に入る『角川 短歌』4月号を手にとってみました。そこで「大特集 若手10歌人大競詠・同時批評」という特集に目がとまりました。読んでみるとこれ、すごい企画で(と、現代詩畑の私は思うのですが、短歌のせかいでは普通なのでしょうか?)見開きで、右ページに若手歌人の新作七首、左ページにベテラン歌人による新作七首への批評が乗っていて、しかもなかなか厳しいことも書かれている。読んでいて、イチ読者ながらハラハラしてしまいました。

 とまれ、なるべく先入観をもたずに読みたかったので、まず右ページの作品を読んで、七首のなかで私がいちばんよかったと思ったものにマルをつけておくことにしました。あとで左ページの先生方の批評を読んでみると、私が七首でいちばん良いと思った歌に限って批判しておられたりして、私に短歌を読むチカラなどもちろん皆無なのですが、でもふだん現代詩を読んでいるときとおなじような感覚で、「一行の詩」として読んでみて、これはおもしろいと思うのだけどなあ、という思いを払拭できなかったりもするのです。その辺りの違和感から、短歌と現代詩の違いみたいなものも見えてこないかな、とかボンヤリ考えつつ、読んでいってみますね。若手十名それぞれ七首ずつですが、一首ずつ私のお気に入りを挙げていきます。雑誌掲載とは逆の順番で挙げていってみますね。

  心臓の裏に根を張り燃えながら咲く花ありて髪飾りとす 立花開

 左ページ、小池光さんの批評には、「心臓の裏という人体最深部にあるものを、体外に取り出して髪飾りにするというところに、いくらイメージとはいえ、無理なところがありはしまいか。そんなところに咲いている花ならば血ダラケになっているはずである」と書いてあって、それはそうなのだろうけれど、私はその強引ともいえるイメージに、おもわずひきこまれてしまいました。ボリス・ヴィアンの小説『うたかたの日々』の、肺のなかに睡蓮の花が咲く病気をわずらったヒロインを思い出したり、それを映画化したミシェル・ゴンドリーの映像を思い出したりして、シュールな映像美を喚起させられるこの歌に、とても魅かれます。

  水仙をわれは嗅ぎ汝(な)は見てゐたるそのまなざしのはつかはづれをり 小原奈実

 恋の歌でしょうか。一方は嗅ぎ、一方は嗅がずに見ているのみという、二人のこのズレに、恋愛の醍醐味も悲劇の萌芽もひそんでいそう……とここまで読んだところで、私、この歌の下句がよくわからないんです。「はつかはづれをり」。これ、どなたかおしえていただけないでしょうか(naha_kanie@yahoo.co.jp もしくはツイッター@naha_kanie)。ともかくもわからないまま、「眼差の発火外れおり」と変換して読んでみたのですが、誤読であろうまま強引に読み進めてしまいますと、水仙の「水」と眼差しの発「火」が二人の恋のままならなさを表しているのかなと思いました。

  夕空は折り畳まれてきみの目に入つて涙にも火にもなる 藪内亮輔

 とすると、これもまた「眼差の発火」でしょうか。「夕空が折り畳まれて」というところに捉まれました。折り畳み傘なら馴染みがあるけれど、空のほうを折り畳んじゃうなんて!

  虹という光の墓をきみと見て息そのままに婚姻なしぬ 大森静佳

この「」はセクシャルマイノリティの象徴としての「」で、最近話題になっている同性婚についての歌なのかな、とか思いましたが、ちがうかもしれません。いずれにせよ異性婚だろうと同性婚だろうと「結婚は人生の墓場」なのに変わりはないのかもしれませんが、ちがうかもしれません。「結婚は人生の墓場」というフレーズはかつてボードレールの詩が誤訳されてひろまったものだそうですが、「夜は墓場で運動会」とかいう歌もありますし、つまるところ結婚は墓場の運動会なのかもしれませんが、ちがうかもしれません。

  竜胆の花のやいばを手折るとき喪失の音(ね)を聴かむ五指かな 吉田隼人

 何年か前「あじさい革命」とか名づけられた反原発デモが話題になりましたが、吉田さんのこの「あらかじめ喪はれた革命のために」の連作に出てくるのは竜胆。リンドウというと、映画「男はつらいよ」シリーズを愛好している私は第八作「寅次郎恋歌」に出てくる有名な「りんどうの話」を思い浮かべます。紙幅の関係で詳細は割愛しますが、そこでりんどうの花は幸福な家庭の象徴として描かれているのですが、吉田さんのこの歌では竜胆のやいばを手折り、その五指が喪失の音を聴くというのです。

  水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水 服部真里子

 盗聴している耳をじっと傾けている、そのとき傾いだ自分の中を巡るわずかな水の音という、超微音が聴こえてくるのでしょうか。短い中に「わたし」が二回も出てくるのは水仙の学名「ナルキッソス」となにか関係があるのでしょうか。「水仙」と「盗聴」の関係も魅惑的に謎めいていて、暗唱できるほどに何度も読み返してしまいました。

  ずがいこつおもたいひるに内耳に窓にゆきふるさらさらと鳴る 野口あや子

 この歌からも音が聴こえてきますが、微音のはずの雪の音、内耳と窓にふるさらさらという雪の音が「鳴る」と書かれてアンプのように拡大されています。このとき、雪を鳴らしている内耳と並置されている窓もまた自分という身体の一部のように見えます。「ずがいこつおもたいひるに」の音も好きですが、ここでは「ずがいこつ」と「ひる」も、(内耳と窓がひとつになっているのと同様に)おなじひとつづきのもののように見えます。

  ぼくたちが無限にふれたドアノブがもうすぐ撤去されてしまうよ 谷川電話

 無限だったはずのものがほんとうは有限だったことを、わたしたちは、たとえば「撤去」という、外側からの圧力がかかったときにはじめて知るのかもしれません。「使えない孤独」と題された谷川さんの七首は、どれもそこはかとないやるせなさが漂っていて、共感をいざなわれます。

  事務所より着信ありてこの川のしずけさのなか出ろてゆうんか 吉岡太朗

 「風下の耳」と題された吉岡さんの七首は、この歌ではじまって、さいご七首目「対岸に事務所はありて橋ひとつ薄暮に渡んのやっぱりやめる」というオチ(?)で終わり、なにやら職場への不満たらたらなのですが、方言とあいまった、そこはかとないユーモアが心地よく、洒落たショートフィルムを見ているような心持になりました。

  降る雪の空の奥処に廊下あり今宵だれかの足音がゆく 小島なお

 はじめ読んだとき、上句のイメージがあまりにも鮮烈なので、そして私は冒頭に書いたとおりこないだまで俳句ばかり読んでいたので、下句は余計な説明なのではないか、などと思ってしまったのですが、小島さんのこの「扉」と題された七首をぜんぶ読むと、後半、「人質」や「殺されしひと」が出てきて、もういちどこの歌を読みかえすと、ここで描かれる「だれか」は、たとえば「殺されしひと」かもしれないと気づき、胸の締めつけられる思いがしました。