「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評 第114回 その土地を知るということ―「梶原さい子歌集『リアス/椿』を読む会」から 齋藤芳生 

2015-04-04 10:23:12 | 短歌時評
 「トポフィリア」とは、「場所への愛」という意味なのだそうである。
 2015年3月21日(土)仙台市で催された「梶原さい子歌集『リアス/椿』を読む会」は、「更地の向こう側―気仙沼市唐桑町宿(しゅく)のすがた―」と題した講演から始まった。この講演は「東北学院大学トポフィリアプロジェクト」代表の植田今日子氏によるもので、プロジェクトの全容は
 『更地の向こう側 解散する集落「宿(しゅく)」の記憶地図』
 (東北学院大学トポフィリアプロジェクト編、かもがわ出版、2013年)

という一冊の本にまとめられている。どのようなプロジェクトなのか、植田による「はじめに」から少し引いてみよう。

 本書は、今回の大津波の直前直後の記憶だけではなく、①宿浦がもっとも華やいだという船が足だったころ(~一九五〇年代)の記憶や、②車やバスが通るようになって人の流れが変わっていったというころ(一九七〇~八〇年代)の記憶、そして③二〇一一年三月一一日に宿を更地へと変えてしまった津波の記憶について、聞き取りによって遡ることができる限りの時間幅で三枚の絵地図に起こす、という試みです。写真という視覚的な記録の多くを失い、また多くの住民が去ることになってしまった宿の人たちに対して、聞き取りの際に個々人から断片的に語られる記憶を絵地図と言う一つの地平の上に集めることでかつての景観を手渡してみたい、また調査者である私たちも目にしてみたいという思いが、この本をつくる動機になりました。

 「気仙沼市唐桑町宿」とは、梶原さい子が生まれ育った故郷であり、梶原は代々この集落のコミュニティの精神的支柱となってきた早馬神社の神主の娘である。歌集『リアス/椿』の中核をなす重要な舞台なのだ。4年前の東日本大震災で、集落にあった家屋62軒中54軒が津波に流されたという。震災後「災害危険区域」に指定され、「今後は流されなかった八軒の家を除いて、宿に住居を建てることはかなわなく」なった。
 講演では東日本大震災のみならず何度も津波の被害に遭いながらもこの土地で海と共に生きてきた人々の歴史と暮らし、梶原の実家である早馬神社が担ってきた祭祀の様子などが丁寧に語られた。
 この講演を聞いていて改めて感じたのは、歌われている「風土」を培ってきたその土地について知ることで、いかに一首一首の鑑賞が深くなるのか、という、当たり前のようで私自身すっかり忘れていた事実である。

 五十年前の津波のこと喋る小母ちやんたちのあたりまへなり 23
梶原さい子『リアス/椿』

 船に積む菜(さい)を調ふこれよりの土の息吹のなき数ヶ月 55

 潮焼けのかほ馳せ来たり今し刈れる和布蕪(めかぶ)はみ出す桶を抱へて 131
 
 何度も津波の被害に遭いながらもこの土地で生活し、その津波の記憶も「あたりまへ」のこととしてお喋りをする「小母ちゃんたち」の姿も、漁に出る船のために美しく調えられる「」とそれを取り巻く人々の姿も、刈ったばかりの「和布蕪」を抱えて走ってくる「潮焼けの顔」も、それぞれにその息遣いが生き生きと立ちあがってくる。
 もちろんこれは梶原の感性の鋭さと言語感覚、表現の巧みさによるところは言うまでもない。しかし、この講演を通して「唐桑」という土地、「宿」という集落を知ったことで、この『リアス/椿』という歌集の内包するのは決して「震災詠」というひとつのキーワードだけで語られるものではないのだ、という意識を新たにした参加者は多かったのではないだろうか。
 私たちが一冊の歌集を読もうとする時、一首一首の作品に純粋にテキストとして向き合おうとする時、本来こういうアプローチは正しくない、のかもしれない。しかしこの講演によって『リアス/椿』という歌集の背景を知り、一人ひとりの参加者が歌集に対する理解と、作者である梶原を始め「唐桑」に生きてきた人々に対する愛着をより深めたことは確かである。そしてこの後に続いた嵯峨直樹、高木佳子、澤村斉美、司会の武山千鶴によるパネルディスカッションも、講演の内容を踏まえたことでさらに充実したものとなった。

 皆誰かを波に獲られてそれでもなほ離れられない 光れる海石(いくり) 57

 ああみんな来てゐる 夜の浜辺にて火を跳べば影ひるがへりたり 96

 皆で皆を亡くししといふ苦しさに秋明菊の潤ぶるひかり 106

 あまりにも波間が光るものだからみんなの泣いたやうな笑ひ顔 122

 みなどこかを失ひながらゆふぐれに並びてゐたり唐桑郵便局 173

 パネルディスカッションでは、嵯峨直樹の<「みんな」への志向性の強さ>という指摘が興味深かった。嵯峨が指摘するように、梶原の歌には「みんな」「」という言葉が頻出する。嵯峨は、「みんな」という言葉の頻出は震災の前後に限らないこと、また『リアス/椿』以前の第二歌集『あふむけ』にもやはり頻出することを挙げた上で、梶原の高校教師という職業や、神主の娘であるという社会的立場が影響しているのではないか、と分析する。
 この嵯峨の指摘に深く肯うと共に、これらの歌を改めて読んで私が感じていたのは、自分もまた梶原の歌う「みんな」の一員となったような、不思議に懐かしい感覚だった。これは、今回梶原の歌う「唐桑」という土地について少しなりとも知ったことで、この土地が私の中で最早自分から無関係の遠い場所ではなくなったからであり、「みんな」が他人ではなくなったからである。
 決して「迎えて読む」ということではなく、歌を読むときにその土地や風土についてより深く知る、ということを、私たちはもう少し見なおしてみてもよいのかもしれない。
 そのことで私たちはその作品の作者が歌おうとした「生」や「風土」をより深く理解し、共感し、「みんな」の「記憶」として残していくことができる。そしてこれは、先の「現代短歌」4月号で特集が組まれた「短歌と人間」とも、決して無関係ではないはずだ。

#略歴
齋藤芳生 さいとう よしき
歌人。1977年福島県福島市生まれ。「かりん」会員。歌集『桃花水を待つ』(角川書店2010年)『湖水の南』(本阿弥書店2014年)