高村典子さんという歌人のことを思う。まだ知り合って間もなかった彼女の凛としたその筆跡であるとか、口からこぼれでることばであるとか、そういった事柄に魅入られてしまえば、たちまち、彼女の短歌に近づけたかのように感じられるのである。
高村さんが一度目のくも膜下出血で倒れて、彼女のことばを奪ったとき、彼女は「話すこと」を失い、そして、短歌を失った。ことばを失う、つまり失語症により、彼女はそれまで所属していた「かりん」を退会することになる。しかし、そこから驚異的な意志力によって、高村さんは自らの力で、ことばを、短歌を、奪還したのだった。
そうして詠まれた第一歌集『わらふ樹』は、失語症のこと、大好きなピアノのこと、ベートーヴェンの「熱情」のことなどが丁寧に綴られている。
はじめて高村さんと出会ったのは、facebookである。突然、高村さんの方から友達申請をしていただき、恥ずかしながらその当時、私は高村さんのことを存じ上げていなかったのだが、高村さんのfacebookのページを訪れ、ピアノのことなどが書かれているのを目の当たりにして、ああ、高村さんもピアノがお好きなのだな、とたちまちfacebookの友達申請を承認してしまったのである。
私もピアノが好きで、その日以来、高村さんとは繁忙にメッセージのやりとりをするようになった。ピアノのこと、短歌のこと、詩のこと、家族のこと、絵画やお能のことまで話しているうちに、お会いしてみたいな、と思うようになり、機会があって上京するときにお会いしようという約束をとりつけた。
高村さんと私は、年齢が三十歳以上離れているから、叔母と甥のような関係ですね、と高村さんは笑っておっしゃっていらしたが、私は純粋に年の離れた友達ができたことがうれしかった。
高村さんの第二歌集『雲の輪郭』は、私が高村さんと知り合ったあとに出版された歌集で、あるとき高村さんが、「第二歌集のタイトルを何にしようか迷っている」とメッセージをくださったことがあり、私は、タイトルをつけるのはあまり得意な方ではないので、あれこれと思いを巡らせていたのだが、最終的にタイトルが決まったようで、「歌集が上梓するまでは秘密にします」とうれしそうに語っておられたのが印象に残っている。
その第二歌集『雲の輪郭』であるが、高村さんご自身のことばによれば、第一歌集『わらふ樹』は、悲しみや負の感情を機動力にひとつのまとまりを構築した歌集であるのに対して『雲の輪郭』は、そういった負の要素をそぎ落としてまた別のベクトルへ歩みだす、歩みはじめた、「はじまりの歌」なのだと。わたしはそう受け取ったのである。
こんど上京したときに、『雲の輪郭』の感想を高村さんに伝えようと(私は短歌には明るくないので、専門的なことはいえないけれど)心をこめて、一首、一首、読むことを心がけ、素敵だなと思った自分の感覚をしんじて、その歌の載っているページには付箋をはったら、本は付箋だらけになってしまった。
その中から、私がもっとも好きな一首をここに載せることにしたい。
大切なものから記憶失せゆくか欅に風の船が来てゐる
「大切なもの」から受け取るまなざしを、私たちはいつでも胸にしまって日常に降りてゆくから、たとえば欅に訪れた風も、ここでは「うつくしい現象」であって、それは「風」という現象が「船」という現象に置き換えられる唯一無二の瞬間として切り取られる。その瞬間の刹那的なうつくしさも、また大切なもののように思える。これは自己本位の読み方であるが、評論や批評ではなく、エッセイであるのでお許しいただきたい。
私がこの歌を好きだというと、高村さんは非常にうれしそうでいらっしゃった。
私はその日、はじめて高村さんとお会いしたのである。
食事をしながら、いろいろな話をした。それはfacebookでも話した内容とかぶっていたかもしれない。けれども、直接お会いしてお話をするということの尊さを、私は思うのである。高村さんはインターネット上でも、凛とした方だったが、実際にお会いしても、やはり凛とした方だった。そして、ちょっぴり感情が溢れすぎるところがあって、何か話すたびに涙ぐみ、そして、お洒落で、とても素敵な方だった。
私はその日のことを忘れないだろう。
帰り際に、こんどは一緒にピアノリサイタルを聴きに行きましょう、と約束をした。そして、私はそれをとても楽しみにしていた。
しかし、これが高村さんとお会いした最初で最後の機会になろうとは、思いもしなかった。
二度目のくも膜下出血は、高村さんの命を奪ったのである。
もう会うことのできない、ことばをかわすことのできない、年の離れた友達の最期を思うたびに胸のつまる思いがした。
それでも、第二歌集『雲の輪郭』は、世界に刻みつけられて、これだけは誰も奪うことができない。
高村さんは、世界に「ことば」を刻みつけたのだ。
高村さんが一度目のくも膜下出血で倒れて、彼女のことばを奪ったとき、彼女は「話すこと」を失い、そして、短歌を失った。ことばを失う、つまり失語症により、彼女はそれまで所属していた「かりん」を退会することになる。しかし、そこから驚異的な意志力によって、高村さんは自らの力で、ことばを、短歌を、奪還したのだった。
そうして詠まれた第一歌集『わらふ樹』は、失語症のこと、大好きなピアノのこと、ベートーヴェンの「熱情」のことなどが丁寧に綴られている。
はじめて高村さんと出会ったのは、facebookである。突然、高村さんの方から友達申請をしていただき、恥ずかしながらその当時、私は高村さんのことを存じ上げていなかったのだが、高村さんのfacebookのページを訪れ、ピアノのことなどが書かれているのを目の当たりにして、ああ、高村さんもピアノがお好きなのだな、とたちまちfacebookの友達申請を承認してしまったのである。
私もピアノが好きで、その日以来、高村さんとは繁忙にメッセージのやりとりをするようになった。ピアノのこと、短歌のこと、詩のこと、家族のこと、絵画やお能のことまで話しているうちに、お会いしてみたいな、と思うようになり、機会があって上京するときにお会いしようという約束をとりつけた。
高村さんと私は、年齢が三十歳以上離れているから、叔母と甥のような関係ですね、と高村さんは笑っておっしゃっていらしたが、私は純粋に年の離れた友達ができたことがうれしかった。
高村さんの第二歌集『雲の輪郭』は、私が高村さんと知り合ったあとに出版された歌集で、あるとき高村さんが、「第二歌集のタイトルを何にしようか迷っている」とメッセージをくださったことがあり、私は、タイトルをつけるのはあまり得意な方ではないので、あれこれと思いを巡らせていたのだが、最終的にタイトルが決まったようで、「歌集が上梓するまでは秘密にします」とうれしそうに語っておられたのが印象に残っている。
その第二歌集『雲の輪郭』であるが、高村さんご自身のことばによれば、第一歌集『わらふ樹』は、悲しみや負の感情を機動力にひとつのまとまりを構築した歌集であるのに対して『雲の輪郭』は、そういった負の要素をそぎ落としてまた別のベクトルへ歩みだす、歩みはじめた、「はじまりの歌」なのだと。わたしはそう受け取ったのである。
こんど上京したときに、『雲の輪郭』の感想を高村さんに伝えようと(私は短歌には明るくないので、専門的なことはいえないけれど)心をこめて、一首、一首、読むことを心がけ、素敵だなと思った自分の感覚をしんじて、その歌の載っているページには付箋をはったら、本は付箋だらけになってしまった。
その中から、私がもっとも好きな一首をここに載せることにしたい。
大切なものから記憶失せゆくか欅に風の船が来てゐる
「大切なもの」から受け取るまなざしを、私たちはいつでも胸にしまって日常に降りてゆくから、たとえば欅に訪れた風も、ここでは「うつくしい現象」であって、それは「風」という現象が「船」という現象に置き換えられる唯一無二の瞬間として切り取られる。その瞬間の刹那的なうつくしさも、また大切なもののように思える。これは自己本位の読み方であるが、評論や批評ではなく、エッセイであるのでお許しいただきたい。
私がこの歌を好きだというと、高村さんは非常にうれしそうでいらっしゃった。
私はその日、はじめて高村さんとお会いしたのである。
食事をしながら、いろいろな話をした。それはfacebookでも話した内容とかぶっていたかもしれない。けれども、直接お会いしてお話をするということの尊さを、私は思うのである。高村さんはインターネット上でも、凛とした方だったが、実際にお会いしても、やはり凛とした方だった。そして、ちょっぴり感情が溢れすぎるところがあって、何か話すたびに涙ぐみ、そして、お洒落で、とても素敵な方だった。
私はその日のことを忘れないだろう。
帰り際に、こんどは一緒にピアノリサイタルを聴きに行きましょう、と約束をした。そして、私はそれをとても楽しみにしていた。
しかし、これが高村さんとお会いした最初で最後の機会になろうとは、思いもしなかった。
二度目のくも膜下出血は、高村さんの命を奪ったのである。
もう会うことのできない、ことばをかわすことのできない、年の離れた友達の最期を思うたびに胸のつまる思いがした。
それでも、第二歌集『雲の輪郭』は、世界に刻みつけられて、これだけは誰も奪うことができない。
高村さんは、世界に「ことば」を刻みつけたのだ。