「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 忘れられない歌のように―岡野大嗣歌集「サイレンと犀」  岡野絵里子

2015-03-04 19:20:58 | 短歌時評
 「サイレンと犀」という語呂合わせのようなタイトルが実は「S ilent S igh」でもあって、通過するものによって生まれた静かなため息だったのだと知ってから、この歌集には一層惹きつけられた。

ここじゃない何処かへ行けばここじゃない何処かがここになるだけだろう
スタンスは持ってないけど立ち位置はGPSが示してくれる
まもなくひがくれます ナビの案内を無視して空が青を維持する


 私たちは何処へ行けばよいのか。生涯が終わる日が来るとして、それまでの時間をどう過ごせばよいのか。まず就職は、愛する人には巡り合えるのか。この歌人はそんな葛藤から自由のように見える。ナビの小賢しい指示など超越して晴れ渡った空のように。夢を求めてどこかを目指したとしても、到達した途端、かつて夢だったものは現実となると、よく知っているらしい。広々と自在な空の下で、だが街は思いがけない面を顕す。

キャスターは眉をひそめて「通常の通り魔像とは異なりますね」
若いとき買ってでもした苦労から発癌性が検出される
完全に止まったはずの地下鉄がちょっと動いてみんなよろける
日めくりがぼそっと落ちて現れた画鋲の穴の闇が深いよ


 「通常の」が苦い笑いを誘う。「過去に例のないタイプ」くらいの表現であってほしかったが、うかつなキャスターのミスコメントが「通り魔の出現は通常のことである」という都会の暗部を開けてしまう。二首目もブラックなユーモアだ。「苦労は買ってでもしろ」という諺の偽善が暴かれる。若い時の勉強や体験こそ糧となるが、苦労はどうだろうか。過酷な労働や環境で、文字通り肉体が癌に蝕まれることもあり、精神にトラウマを負うこともあるというのに。三首目、思いがけない列車の動きに、乗客はよろけさせられるが、皆一緒という連帯感があって暖かい。ちょっとよろけるという動作はユーモラスなものだ。四首目は室内の光景。画鋲の針が開けた小さな穴、だがそこに深い闇があったというのである。日常に潜む影の恐ろしさと小さな穴を覗いている孤独がしみるようだ。だが語尾の「〜よ」が深刻さを和らげる。
 
空席の目立つ車内の隅っこでひとり何かを呟いている青年が背負って
いるものは手作りのナップサックでそれはわたしの母が作った


 連作「選択と削除」の一首であるが、破調という以上の長さを持っており、凝った文体の小説の一部のようでもある。歌集中に際立つ言葉だ。最後まで読んで初めて「何かを呟いている青年」が「わたし」だと分かる仕組みになっている。このように何らかの負荷を抱えて世界を辿り、謎が解かれたかのように自分自身に帰還する手法は詩人にも見られる。引用はしないが、岡野氏の歌においては、青年が自分自身に辿り着く長い迂回は、現代における自我の確立の困難さを思わせて意味深い。岡野氏の短歌は一貫してリズムが快く、それが魅力の一つだが、この作品も5・7・5・7・7・5・9・5・7・7・7という音数になっている。二首分プラス7音で、歌の韻律は実は生かされているのである。
 現代詩から見ると、短歌は冒頭であり末尾でもある一行が完結し、屹立した世界であって、三十一音の韻律がその世界を音楽で満たしている。私にはただ敬愛するしかない短歌だが、この歌人はその奥義を知悉しながら、新しい言葉の天体を創り出そうとしているのだろうか。

ビニールにマジック書きで「豚」とあり直に書いてあるようにも見えた

 この作品も散文の一部と読んでもおかしくない文体でありながら、短歌の三十一音の律がさりげなく生きている。そして一見爽やかに書き流しているようで、不気味な領域に踏み込んでいるのである。マジックでただ豚と書く行為は一体何なのだろうか。豚肉とか豚革製品といった表示なら理解できるが、「」。直に書いてしまっているなら製品ではないだろう。タトゥーならビニールを被せはすまい。対象を明らかにせず、マジック書きの一点に固執することで、不条理な気味悪さを浮かび上がらせた。
 この二首の周辺に、新しい風が感じられるのである。鋭い刃物を取り出した時にふっと動く空気のような。岡野氏は外界に対しても、意識内部についても知覚能力の高い書き手らしく、多岐にわたって、言葉が豊かである。その多面体のような世界をもう少し鑑賞してみたい。

道ばたで死を待ちながら本物の風に初めて会う扇風機
かなしみを遠くはなれて見つめたら意外といける光景だった


 品物にも魂が宿っているとしたら、これは残酷な光景ではないだろうか。道ばたに捨てられていることも、本物の風を知って、自分の人生と仕事の卑小さを悟ってしまうことも可哀想である。私も自宅に2台の扇風機を持っているが、お陰でもう捨てられなくなった。悲しすぎる。だがしかし、扇風機にとっては、ちょうど人が神に会って、その懐に迎え入れられるのと同じ体験だったのかもしれない。そこに気づくと深い感動がやって来る。別の連作である歌を並べるのは違反かもしれないが、この二首目で悲しさを癒やさせてもらった。「意外といける」と感じているのは歌人ならではだろう。「悲しみを浪費するな」と言ったのはリルケであった。物書きもまた冷酷な神であり、そして何よりこの二首が一人の歌人から出て来たということに感嘆する。

もう声は思い出せない でも確か 誕生日たしか昨日だったね
申し込み規約に何か書いてある書いてある書いてあ 同意する


 心地よいリズムと声が歩く。余白が満たされていく。頭上を伸びていく線、歌のように。忘れられない歌のように。

ジャンクションの弧線が光る ささやかな意志の前途を讚えるように