わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第135回 言葉の不思議を差し出す-高柳 誠-  時里二郎 

2014-11-01 00:47:29 | 詩客

いきなり夕焼けの底が抜けた。底が抜けたからには、夕焼けには底
があることになり、そうなると当然、底は、夕焼け本体と同じ物質
かどうかの識別が求められる。その議論のまっ最中、そんなことに
はおかまいなしに、夕焼けと底との結着のついていない境界線から、
プリズムの偏光で作られた硝子の椅子という椅子が雪崩をうって
転げ落ち、それを追って無数の白いカラスが、鳴き騒ぐ倍音で奏で
る交響曲第二番を伴いながら、翼の光沢を硝子の椅子に反射させ
て逃げこんでいく。こうなると、夕焼けの底はどこかに飛んでいっ
てしまい、いや、飛んでいったのは白いカラスなのだが、そのカラ
スがなぜ白いのかという疑問には答える機会も与えられないまま、
行方不明の夕焼けの底についてさらに考え続けなければならない。
(略) 「夕焼けの底」冒頭部分、『月の裏側に住む』所収

 

 高柳誠。1982年に『卵宇宙・水晶宮・博物誌』 (湯川書房)でH氏賞、89年には『都市の肖像』 (書肆山田)で高見順賞を、さらに97年には、北川健次、小林健二、建石修志ら美術家と組んだ『光の遠近法』などの三部作によって藤村記念歴程賞を受賞、また、選詩集を除いて既に19冊の詩集を上梓している。このような華々しい受賞歴や意欲的な詩集上梓の実際に比して、高柳の詩的営為についてじっくりと語られることは少ない。同人誌に拠ることもなく、積極的に詩誌に作品を寄せることもほとんどしないからとも考えられるが、それでもなお、詩集は2年に1冊というペースを崩さない。(詩の)世間の雑音に耳を傾けることなく、さながら修行僧のように、ただひたすら詩=言葉と組みあう彼の姿勢には畏敬をさえ覚える。
 とりわけ、今年上梓された『月の裏側に住む』(書肆山田)は、それまでの彼の詩の世界から一気に抜け出した観のある極めて瞠目すべき詩集である。
 この詩集について語る前に、これまでの彼の詩的遍歴から浮かび上がる三つの大きなピークについてまず書いておく必要がある。
 一つ目のピークは『都市の肖像』(1988年)、『アダムズ兄弟商会カタログ第23集』(1989年)。これらは徹底した反世界を言葉によって紡ぎ出すという試みだが、散文による断片を言わば鏡の破片のように散りばめて、それぞれの断片が互いに影響しあって、一つの非在の世界が浮かび上がるという方法で書かれている。
 二つ目のピークは、『夢々忘るる勿れ』(2001年)。これはイマージュの挿話集。先の方法では、それぞれの断片(断章)は、反世界を組み立てるパーツに過ぎなかったが、ここでは、一つ一つの作品が、断片やパーツではなく、イマージュの赴くままに紡がれた奇想の言語宇宙として自律している。その自在な言葉の運動が描く挿話のヴァリエーションには圧倒されるはずだ。
 三つ目のピークは、『光うち震える岸へ』(2010年)。これは『半裸の幼児』(2004年)あたりから新しく試みられた、都市を巡る散文スタイルの詩集だが、それは、彼の幾度かの西欧への旅が下敷きとなっている。それまでの言わば硬直した反世界の都市(『都市の肖像』)の趣きとは違って、西欧への旅の現実がもたらした強烈な「今、ここ」という実在感を滲ませながら、加えて、旅ゆえにそれが瞬時にうつろっていく哀しみが醸し出す深い抒情的な世界が描出されている。明らかに『都市の肖像』に対する批評的な位置取りをもった詩集と言えるだろう。
 一方、4つ目のピークになるであろうこの『月の裏側に住む』は『夢々忘るる勿れ』と対を成すイマージュの挿話集だが、決定的に違うところは前作がイマージュの運動に重きを置いて、それに言葉が奉仕するというスタイルだったが、今回は、逆に言葉の自律的な運動がイマージュの展開をリードしていくというスタイルになっている。
 それによって、『都市の肖像』などに特にあらわれていた息詰まるほどの作品空間の密閉性、閉鎖性を完全に脱している。閉じた言語宇宙、あるいは現実から遮蔽された反世界にかわって、作品の外側へ、周縁へという、境界性、融通性を滲ませた新たな反世界が構築されている。つまり、詩の本義たる言葉の不思議を差し出すところから、詩が反世界を映し出す装置であることを改めて考え直そうとしているかに見える。