私は、詩人の高橋順子さんがすきです。なかでも、車谷長吉さんとの「呪われた」生活を〈詩〉という〈時間〉に送り込んだ『時の雨』がだいすきです。胸に手をあてて考えなくても、わかる。だいすきです。
草ずもうって知ってる?
ぼくらはおおばこの茎を手折り
空の下で遊んだ
草ずもうなんてしなかったわ
草ずもうなんてつまらない
じきに飽いてしまったきみが言う
もっと悪いことをしたわ
草を結んで知らない人を躓かせる
枯葉を上手にかぶせて陥し穴をつくる
きみは少女の目をして笑った
ぼくは野原のまん中に筵を敷いて
おにぎり二つ 薬罐一つ
じっとしているのが好きだったな
遠くのほうで風草 鳴っている
白髪の少女と少年が結婚の約束をした日
(高橋順子「夏至」『時の雨』青土社、1996年)
まずこの詩のいちばん最後の行に注目してみると、「白髪の少女と少年」という〈時間のねじれ〉が確認できます。この詩集のタイトルが『時の雨』であることから、この詩集にとって〈時間〉は読むための大切なポイントになるとおもうんです。
「結婚の約束をした日」と、点をうがつような何にもかえがたい日が「白髪/少年・少女」とねじれていること。ここにこの詩の力学があります。つまりこの「約束をした日」の「日」は、レギュラーな、規則通りの時間としては、履行されえないかもしれないということです。時間の雨は、ざんざ降っています。そこでは〈約束〉が通常の〈約束〉たりえない空間かもしれないのです。なぜなら〈約束〉とは〈正常な時間の記憶〉であり、〈時間の日照り〉だからです。〈流れない渇いた時間〉を記憶しておくことが約束なのです。だから〈約束〉は成立しないかもしれない。「ぼく」と「きみ」は「ぼくら」にはなれない。
でもこの詩はそうした〈イレギュラーな時空間〉に対してことばでなんとか補修=接着していこうとします。なぜなら、詩は〈時間〉を生みだし、時間にあらがうものだからです。「ぼくら」という「ぼく」と「きみ」の接着、「おにぎり二つ 薬罐一つ」という「二」から「一」への合一、「遠くのほうで風草 鳴っている」という〈ふたりの場〉を生成する聴覚的合一。そして〈ふたり〉以外の他者を悪びれもせず排除していく「もっと悪いこと」。
もちろん、せっかくそこまでしてたどりついた「結婚の約束」は時の雨のなかで流されてしまうかもしれません。雨は、「ぼくら」を「ぼく」と「きみ」に何度も押し流すかもしれない。「白髪の少女と少年」と客観化された主語のようにして。
でも私はそれでもこの詩がいちばんさいごのさいごに「日」ということばを見いだしたことに「ぼくら」の可能性を見いだしたいとおもいます。「日」というシンプルな分節は、律儀に、また、やってくるのです。あしたも、あさっても、そのつぎのひにも。
この詩は、「草ずもうって知ってる?」という「ぼく」から「きみ」への〈問いかけ〉ではじまっていました。だから、「ぼく/ら」の生活は、〈詩〉として、〈日〉が始まるごとに、問いかけからはじまる。未遂したリフレインとして、なんどもよみがえるのです。あなたにであってしまった〈わたし〉の宿命として。この時の雨の中で。せわしい雨だれの中で。