『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.25(通算第75回)(2)

2021-07-31 00:10:40 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.25(通算第75回)(2)

 

◎第4パラグラフ(貨幣としての貨幣と資本としての貨幣との最初の区別は、流通形態の相違にある)

【4】〈(イ)貨幣としての貨幣と資本としての貨幣とは、さしあたりはただ両者の流通形態の相違によって区別されるだけである。〉

  (イ) 貨幣としての貨幣と資本としての貨幣とは、さしあたりはただ両者の流通形態の相違によって区別されるだけです。

  ここには「貨幣としての貨幣」と「資本としての貨幣」という言葉が出てきます。そしてこの両者の区別は、その流通形態の相違として最初は捉えられるというのです。
  この両者の関係については、『マルクス経済学レキシコン 貨幣Ⅴ』栞№14のなかに大谷氏の説明がありますので、長いですが、そしてこのあとの展開部分も少し含んだ説明になりますが、関連する部分を紹介しておきましょう。さらに詳しくは直接文献に当たってみてください。

  〈「資本に関する章」の冒頭のここでは、貨幣という規定、および、貨幣の形態諸規定・諸機能がすでに理論的に前提されている。資本はまずもって、この貨幣が取る新たな形態、新たな規定としてとらえられる。それが「資本としての貨幣」である。そこで、マルクスはこの引用〔487〕を、次のように書き始めている。
  「資本としての貨幣は、貨幣としての貨幣という単純な規定を越える、貨幣の一規定である。それはより高次の実現とみなされることができるのであって、猿が発展して人間となっている、と言えるのと同様である。にもかかわらず、この場合には低次の形態が高次の形態の統括的な主体として措定されているのである。いずれにしても、資本としての貨幣貨幣としての貨幣とは区別されるものである。この新しい規定が展開されなければならない。」(下線--マルクス)
  ここではまず、資本が「資本としての貨幣」という貨幣の新たな規定としてとらえられ、これと、「貨幣としての貨幣」という貨幣の単純な規定とが対比されて、両者の関係が示されている。
  すなわち、マルクスは「貨幣に関する章」のなかで、「貨幣としての貨幣」(貨幣の第三規定) のうちには「資本としての貨幣の規定がすでに潜在的に含まれている」と述べていた(*)が、「資本としての貨幣」は、この潜在的に含まれていた規定の「実現」であり、「貨幣としての貨幣」の発展したものだとみることができる。したがって、同じ貨幣の形態であるこの両者のうち、「貨幣としての貨幣」はその「低次の形態」、「資本としての貨幣」はその「高次の形態」だということになる。ところが、このような観点から見るかぎりでは、この両者を包括する類概念は言うまでもなく貨幣、すなわち単純な規定である「低次の形態」であって、これが「高次の形態」である「資本としての貨幣」をも統括する、ということになっている。
  * マルクスは次のように書いていた、「貨幣の第三規定は、その完全な発展したかたちにおいては初めの両規定を前提しており、両規定の統一である。… …貨幣がその自立的存在のかたちで流通から出てくるかぎりでは、貨幣の自立的存在それ自体が流通の結果として現われる。つまり貨幣は流通をつうじて自分自身と結合する。この規定性のうちには、資本としての貨幣の規定がすでに潜在的に含まれている。」(『資本論草稿集』① 、236ページ。下線--引用者)
  マルクスはこのように述べたあと、このような把握が十分かどうかは、このさきの展開のなかで次第にわかってくるだろうが、とにかく、「資本としての貨幣」が「貨幣としての貨幣」と区別されるものであることは明らかなのだから、この新しい規定をまずもって展開しなければならない、と続けているのである。〉 (22-23頁)

  ついでにマルクスからエンゲルスへの書簡(1858年4月2日)も紹介しておきましょう。

  〈(c) 貨幣としての貨幣。これは形態G-W-W-Gの発展だ。流通にたいして独立な価値定在としての貨幣。抽象的な富の物質的な定在。それは、ただ流通手段として現われるだけでなくて価値を実現するものとして現われるかぎりでは、すでに流通において現われている。この(c)属性では(a)(「尺度としての貨幣」--引用者)も(b)(「交換手段としての貨幣または単純な流通」--同)もただ諸機能として現われるだけだが、この(c)の属性にあっては、貨幣は、諸契約の一般的商品であり……価値がそれにおいて現われるであろうところの、すべてのより高度な形態の実現として。いっさいの価値関係がそれにおいて外的に完結するところの、最終的な諸形態。だが、貨幣は、この形態に固定されれば、経済的関係ではなくなり、この形態は貨幣の物質的な担い手なる金銀において消滅する。他方、貨幣が流通にはいってふたたびWと交換されるかぎりでは、終結過程たる商品の消費はふたたび経済的関係から脱落する。単純な貨幣流通は、自己再生産の原理をそれ自身のうちにもっておらず、したがってそれ自身を越えて進むことを命ずる。貨幣において--その諸規定の発展が示すように--、流通にはいりこみ流通のなかで自己を維持すると同時に流通そのものを生み出す価値の要求が定立される--資本。この移行は同時に歴史的だ。資本の古い形態は商業資本であり、商業資本はつねに貨幣を発展させる。同時に、貨幣または商人資本からの、生産を掌握する現実の資本の発生。 (全集第29巻248-249頁)


◎第5パラグラフ(商品流通の二つの形態、W-G-WとG-W-G)

【5】〈(イ)商品流通の直接的形態は、W-G-W、商品の貨幣への転化と貨幣の商品への再転化、買うために売る、である。(ロ)しかし、この形態と並んで、われわれは第二の独自に区別される形態、すなわち、G-W-Gという形態、貨幣の商品への転化と商品の貨幣への再転化、売るために買う、を見いだす。(ハ)その運動によってこのあとのほうの流通を描く貨幣は、資本に転化するのであり、資本になるのであって、すでにその使命から見れば、資本なのである。〉

  (イ) 商品流通の直接的形態は、W-G-W、商品の貨幣への転化と貨幣の商品への再転化、買うために売る、です。

  「貨幣としての貨幣」と「資本としての貨幣」との区別は、最初は両者の流通形態の相違として捉えられるということでした。そこで両方の流通形態の相違をみて行きましょう。まず単純な商品流通の直接的形態は、W-G-Wでした。すなわち商品を貨幣に転化し、さらにその貨幣を商品に転化することです。

  (ロ) しかし、この形態と並んで、私たちは第二の独自に区別される形態、すなわち、G-W-Gという形態、貨幣の商品への転化と商品の貨幣への再転化、売るために買う、を見いだします。

  しかしこうした商品流通の直接的な形態とは別に、私たちはG-W-Gという別の形態を見いだします。これはまず最初に貨幣があり、それが商品に転化されたあと再び貨幣に転化されるという流通です。これは売るために買うという形態です。

  (ハ) その運動によってこのあとのほうの流通を描く貨幣は、資本に転化するのです。つまり資本になるのであって、すでにその使命から見れば、資本なのです。

  そしてこの後の方の運動を描く貨幣が、すなわち資本に転化するのです。だからG-W-Gはすでに単純流通の枠を超えています。それは潜在的には、すでに資本の流通と言えるのです。

  ここではW-G-WとG-W-Gとの関係が論じられていますが、これ自体はそれほど難しく考える必要はありません。例えば単純な商品流通W-G-Wというのは商品流通のもっとも抽象的な形態ですが、しかしこれは歴史的には、例えば自給自足的な生活をしている人たちが、時々その余剰物を交換し合う関係と言ってもいいでしょう。しかしこうした交換関係が発展すると、貨幣を流通から引き揚げて、いつでも何でも買えるものとして、すなわち一般的な富としてそれを持っていて、そしてそれを別の機会に流通に投じる人たちも出てきます。それがG-W-Gです。それも最初のうちはW-G-Wとそれほど違ったものではなく、たまたまGを流通から引き揚げて持っていたものを再び流通に投じただけなのかも知れません。そのかぎではそれはやはり消費を目的にしており、W-G-Wと同じなのですが、そうした過程のなかで、やがて一般的富としてのGを貯め込む人たちも出てきて、その増殖を願う人たちが出てきます。そしてその人たちのなかから、高く売るために、値段が安いときに買っておく、というG-W-Gが出てきます。それは貨幣を流通に投じて、やはり同じ貨幣を流通から引き出すという限りでは一つの単純流通であり、循環です。こうした単純流通からそのなかに独自の流通としてG-W-Gが出てくるわけです。そしてそれはその使命からすれば、すでに資本だ、つまり流通のなかでその増殖を目的にして貨幣を投じるものだというのです。
  これはまた違った観点からは次のようにもいえます。単純流通でありながら、資本の流通でもあるというのは、それは抽象的な契機としては単純流通だが、より具体的な関係としてみれば資本の流通であるということでもあるのです。資本家は利潤を得るためには、必ず貨幣を資本として流通に投じ、生産手段と労働力を購入して、それらを生産過程で消費してその価値の増殖を計らねばなりません。しかしただ生産過程で価値増殖ができただけでは駄目で、その増殖した価値を持つ生産物を商品として流通に投じて最初に投じた貨幣以上の貨幣を流通から引き出さねばならないのです。これは記号で表すとG-W…P…W'-G'という循環をとりますが(Pは生産過程、あるいは生産資本)、このなかで[G-W]と[W'-G']、つまり最初のGの投下、すなわち商品の購買と最後の商品の販売というのは短縮すればG-W-Gとなりますが、これらはまさに単純流通そのものなのです。ただそれを資本の循環という資本関係のなかで見た場合に、それらは資本の流通にもなるだけのことなのです。ここで言われている単純流通と資本の流通との区別と関連にはこうした意味もあります。

◎第6パラグラフ(単純流通としてG-W-Gを見る)

【6】〈(イ)流通G-W-Gをもっと詳しく見よう。(ロ)それは、単純な商品流通と同じに、二つの反対の段階を通る。(ハ)第1の段階、G-W、買いでは、貨幣が商品に転化される。(ニ)第2の段階、W-G、売りでは、商品が貨幣に再転化される。(ホ)しかし、二つの段階の統一は、貨幣を商品と交換して同じ商品を再び貨幣と交換するという、すなわち売るために商品を買うという総運動である。(ヘ)または、買いと売りという形態的な相違を無視すれば、貨幣で商品を買い、商品で貨幣を買うという総運動である(2)。(ト)この全過程が消えてしまっているその結果は、貨幣と貨幣との交換、G-Gである。(チ)私が100ポンド・スターリングで2000ポンドの綿花を買い、その2000ポンドの綿花を再び110ポンド・スターリングで売るとすれば、結局、私は100ポンド・スターリングを110ポンド・スターリングと、貨幣を貨幣と交換したわけである。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) 流通G-W-Gをもっと詳しく見てみましょう。それは、単純な商品流通と同じように、二つの反対の段階を通ります。第1の段階、G-W、買いでは、貨幣が商品に転化されます。第2の段階、W-G、売りでは、商品が貨幣に再転化されます。

  そこでG-W-Gの流通をもっと詳しく見てゆくと、これは単純流通としてみれば、二つの段階をとおる流通です。最初の段階はG-Wです。つまり買いです。貨幣が商品に転化されます。そして第二の段階はW-G、売りです。商品が貨幣に転化されます。つまり形態的にみるかぎりでは単純流通と見ることができます。

  (ホ) しかし、二つの段階の統一は、貨幣を商品と交換して同じ商品を再び貨幣と交換するという、すなわち売るために商品を買うという総運動です。

   この単純流通として見た二つの段階の統一は、貨幣を商品と交換し同じ商品を再び貨幣と交換するということです。つまり売るために買うという総運動になります。

  (ヘ) または、買いと売りという形態的な相違を無視すれば、貨幣で商品を買い、商品で貨幣を買うという総運動です。

  あるいは売り・買いという形態的な区別を無視すると、貨幣で商品を買い、商品で貨幣を買うという総運動になります。

  (ト) だからこの全過程が消えてしまっているその結果だけを見れば、貨幣と貨幣との交換、G-Gになります。

  フランス語版ではこの文節で改行されています。そしてその前の文節のあいだに原注2が入っています。
  だから全過程は、その結果だけで見るなら、貨幣を貨幣と交換したことに、G-Gになります。

  (チ) 例えば私が100ポンド・スターリングで2000ポンドの綿花を買い、その2000ポンドの綿花を再び110ポンド・スターリングで売るとすれば、結局、私は100ポンド・スターリングを110ポンド・スターリングと、すなわち貨幣を貨幣と交換したことになるわけです。

  例えば私が100ポンド・スターリングで2000ポンドの棉花を買い、その2000ポンドの棉花をもう一度110ポンド・スターリングで売るならば、結局、私は100ポンド・スターリングと110ポンド・スターリングとを、すなわち貨幣と貨幣とを交換したことになるわけです。

  ところで、ここではマルクスは100ポンド・スターリングを110ポンド・スターリングとを交換したことになる、と述べています。しかしこれでは、単純流通としては疑問が生じます。なぜなら単純流通というのは等価物の交換だからです。次の第7パラグラフでは、100ポンド・スターリングと100ポンド・スターリングとの交換を持ち出していますが、その前の第6パラグラフでは等価物交換に反した数値を持ち出しているのです。これはどうしてでしょうか。
  これは恐らく第5パラグラフで、マルクスは〈商品流通の直接的形態は、W-G-W、……である。しかし、この形態と並んで、われわれは第二の独自に区別される形態、すなわち、G-W-Gという形態、……を見いだす〉と述べ、W-G-Wと〈並んで〉独自に区別される形態としてG-W-Gを〈見いだす〉と述べています。〈見いだす〉というのは、私たち観察者が直接的な表象として日常的に目にするということです。『経済学批判』でも次のように書いています。

  〈よく観察してみると、流通過程は二つの異なった循環の形態を示している。商品をW、貨幣をGと名づけるならば、この二つの形態は次のように表現することができる。
      W-G-W
      G-W-G〉 (全集第13巻70頁)

  つまりマルクスは流通過程に日常的にみられる二つの形態をまずは直接見ているということではないでしょうか。そして私たちが直接に見いだすG-W-Gというのは、高く売るために安く買うという形態なのです。だからマルクスはまず直接的表象としてとらえらるG-W-Gとして、100ポンド・スターリングと110ポンド・スターリングとの交換の例を持ち出しているのだと思います。
  しかしいうまでもなくこれは等価物の交換という単純流通の枠をすでに超えていることがわかります。マルクスは『批判・原初稿』では〈G-W-Gという形態をとる現実的運動は単純流通のなかには存在しない〉とまで述べながら、しかし〈この形態がそのものとして現に行なわれていることは、明らかである〉(下線による強調はマルクス)とも述べています(草稿集③167頁)。そして〈現に行なわれている〉ものは、実際には100ポンド・スターリングを110ポンド・スターリングと交換する過程なのです。もし100ポンド・スターリングを100ポンド・スターリングと交換するなら、それは単純流通の枠内ですが、しかしまったく無意味なものになります。つまり単純流通ではそれは無意味な奇妙な行為になるのです。つまりG-W-Gは、単純流通でありながらすでに単純流通ではないというある意味矛盾したものなのです。
  『経済学批判』の一文を紹介しておきましょう。

  〈W-G-Wの形態では、両極は同じ大きさの価値の商品であるが、同時にまた質的に違う使用価値である。それらの交換W-Wは、現実の物質代謝である。これにたいしてG-W-Gの形態では、両極は金であり、同時にまた同じ大きさの価値の金である。商品を金と交換するために金を商品と交換すること、またはその結果であるG-Gを見れば、金を金と交換することは、ばかげたことのように見える。しかしもしG-W-Gを、媒介する運動をつうじて金を金と交換することを意味するにほかならない売るために買うという公式に翻訳するならば、ただちにブルジョア的生産の支配的形態が認められる。けれども、実際には、売るために買うのではなくて、高く売るために安く買うのである。貨幣が商品と交換されるのは、その同じ商品をふたたびもっと大きい量の貨幣と交換するためであるから、両極のGとGとは質的には違っていなくても、量的には違っている。商品と貨幣は、そのものとしては商品自体の対立的諸形態、つまり同じ大きさの価値の相異なる存在様式にすぎないのに、このような量的区別は非等価物の交換を前提している。だから循環G-W-Gは、貨幣と商品という形態のもとに、いっそう発展した生産関係をひそめているのであって、単純流通の内部では、いっそう高度の運動の反映であるにすぎない。〉 (全集第13巻102-103頁)


◎原注2

【原注2】〈2 「貨幣で商品を買い、商品で貨幣を買う。」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール『政治社会の自然的および本質的秩序』、543ページ。)〉

  これは〈または、買いと売りという形態的な相違を無視すれば、貨幣で商品を買い、商品で貨幣を買うという総運動である(2)。〉という本文につけられた原注です。

  リヴィエールについては『資本論辞典』でもヒットしなかったのですが、ウィキペディアには、次のような説明がありました。

  〈ピエール=ポール・ル・メルシエ・ド・ラ・リヴィエール・ド・サン=メダール(Pierre-Paul Le Mercier de la Rivière de Saint-Médard、1719年3月10日 - 1801年11月27日)は、フランスの重農主義の経済思想家。名前は、ルメルシエ(Lemercier)と表記されることもある。
  ソミュールに生まれる。父親はトゥール納税区に勤務した財務官。1756年にケネーと知り合った。1759年から1764年まで、西インド諸島のフランス植民地マルティニークの知事を務めた。
  1767年に主著『政治社会の自然的・本質的秩序(l'Ordre naturel et essentiel des sociétés politiques) 』を公刊した。この著作は、重農主義学説の立場から本格的に政治体制について記したものである。作品のなかで、ル・メルシエ・ド・ラ・リヴィエールは、「合法的専制」という統治概念を提起した。この観念は、ケネーが理想の経済秩序との関係で唱えた「正統な専制政治」の理論をさらに詳細に発展させたものであった。この作品は、ディドロやアダム・スミスによって高く評価されたが、ヴォルテールやマブリらの批判を呼んだ。政界ではディドロと親しいロシアのエカチェリーナ2世に評価され、彼女の招きによって、ル・メルシエ・ド・ラ・リヴィエールはロシアを訪問した。
  1785年公の活動から引退したが、その後の1792年に、ユートピア小説『幸福な国民またはフェリシー人の政体』を出版した。〉


◎第7パラグラフ(循環G-W-GはW-G-Wとはまったく種類の違うものである。両者の形態的相違の背後にある内容的な相違が解明されねばならない)

【7】〈(イ)ところで、もしも回り道をして同じ貨幣価値を同じ貨幣価値と、たとえば100ポンド・スターリングを100ポンド・スターリングと交換しようとするのならば、流通過程G-W-Gはつまらない無内容なものだということは、まったく明白である。(ロ)それよりも、自分の100ポンドを流通の危険にさらさないで固く握っている貨幣蓄蔵者のやり方のほうが、やはりずっと簡単で確実であろう。(ハ)他方、商人が100ポンドで買った綿花を再び110ポンドで売ろうと、またはそれを100ポンドで、また場合によっては50ポンドでさえも手放さざるをえなくなろうと、どの場合にも彼の貨幣は一つの特有な独自な運動を描いたのであり、その運動は、単純な商品流通での運動、たとえば穀物を売り、それで手に入れた貨幣で衣服を買う農民の手のなかでの運動とは、まったく種類の違うものである。(ニ)そこで、まず循環G-W-GとW-G-Wとの形態的相違の特徴づけをしなければならない。(ホ)そうすれば、同時に、これらの形態的相違の背後に隠れている内容的相違も明らかになるであろう。〉

  (イ)(ロ) ところで、もしも回り道をして結局同じ貨幣価値を同じ貨幣価値と、たとえば100ポンド・スターリングを100ポンド・スターリングと交換しようとすることになるなら、流通過程G-W-Gはつまらない無内容なものだということは、まったく明白です。そんなことなら、それよりも、自分の100ポンドを流通の危険にさらさないで固く握っている貨幣蓄蔵者のやり方のほうが、ずっと簡単で確実ではないでしょうか。

 まず最初に現行版の〈つまらない無内容なもの〉は、初版では〈馬鹿げて無内容である〉(江夏訳145頁)、フランス語版では〈奇怪な過程である〉(江夏・上杉訳130頁)となっています。
  さて、先には流通G-W-Gをもっと詳しく見るとして、それは結局は100ポンド・スターリングを110ポンド・スターリングと交換することになると説明されました。そしてそのとき「もし100ポンド・スターリングを100ポンド・スターリングと交換するなら、……それはまったく無意味なものになります」と説明しました。実際、100ポンド・スターリングで2000ポンドの棉花を買って、それを再び100ポンド・スターリングで売るだけなら、最初から何もせずにいるほうがよっぽどましであって、余計な回り道をしたために、自分の100ポンド・スターリングがアクシデントで失われるような危険にさらさずに済むわけです。しかしもちろん100ポンド・スターリングを自分でしっかり握っていたからといって、貨幣蓄蔵からはその増殖はまったく望めないのですが……。

  (ハ) 他方で、商人が100ポンドで買った綿花を再び110ポンドで売ろうと、またはそれを100ポンドで、また場合によっては50ポンドでさえも手放さざるをえなくなろうと、どの場合にも彼の貨幣は一つの特有な独自な運動を描いたことになります。その運動は、単純な商品流通での運動、たとえば穀物を売り、それで手に入れた貨幣で衣服を買う農民の手のなかでの運動とは、まったく種類の違うものです。

  ここでもまず最初に現行版の〈一つの特有な独自な運動〉は、初版では〈独自な特異の運動〉(江夏訳145頁)、フランス語版では〈特殊的、独創的運動〉(江夏・上杉訳131頁)となっています。
  それに較べると、最初の考察のように、商人が100ポンド・スターリングで買った2000ポンドの棉花を再び110ポンドで売ったなら、それは単純流通とは異なる独自の運動をしたことになります。もっとも場合によっては110ポンド・スターリングではなく、50ポンド・スターリングででも叩き売らねばならない羽目に陥らないとも限りませんが。しかしいずれにせよ、それは単純な商品流通W-G-W、例えば穀物を売り、それで手に入れた貨幣で衣服を買うというような農夫の手のなかでの運動とは、まったく種類の違った運動なのです。だからG-W-Gという流通は、すでに潜在的には単純流通を越えた流通なのです。

  (ニ)(ホ) そこで、まず私たちは循環G-W-GとW-G-Wとの形態的相違の特徴づけをしなければなりません。そうすれば、これらの形態的相違の背後に隠れている内容的相違も明らかになることでしょう。

  しかしいずれせよ、私たちは循環G-W-GとW-G-Wという二つの流通の形態的な特徴をさらに詳しく見て行かねばなりません。そうすれば、これらの形態の相違のなかに隠れている内容における相違も見えてくるはずです。


◎第8パラグラフ(両方の形態に共通なもの)

【8】〈(イ)まず両方の形態に共通なものを見よう。
(ロ)どちらの循環も同じ2つの反対の段階、W-G、売りと、G-W、買いとに分かれる。(ハ)2つの段階のどちらでも、商品と貨幣という同じ2つの物的要素が相対しており、また、買い手と売り手という同じ経済的仮面をつけた2人の人物が相対している。(ニ)2つの循環のどちらも同じ反対の諸段階の統一である。(ホ)そして、どちらの場合にも、この統一は3人の当事者の登場によって媒介され、そのうちの1人はただ売るだけであり、もう1人はただ買うだけであるが、第3の1人は買いと売りとを交互に行なう。〉

  (イ) まず最初は、両方の形態に共通なものを見ることにしましょう。

  循環G-W-GとW-G-Wとの形態的相違の特徴づけを見て行く前に、この両方の形態に共通なものをまず見ておくことにしましょう。

  (ロ) どちらの循環も同じ2つの反対の段階、W-G、売りと、G-W、買いとに分かれています。

  まず両方の形態には、どちらも商品流通の二つの反対の段階、W-G、売りと、G-W、買いとに分かれています。

  (ハ) 2つの段階のどちらでも、商品と貨幣という同じ2つの物的要素が相対し、また、買い手と売り手という同じ経済的な仮面をつけた2人の人物が相対しています。

  そして同じことですか、二つの形態には商品と貨幣という二つの物的要素が相対し、買い手と売り手という同じ経済的な形態規定性を受けた二人の人物が相対しています。

  ここにはまず〈物的要素〉と〈経済的仮面〉という二側面の対比が見られます。これは物象とその物象の人格化(経済的役割)と言い換えてもよいでしょう。後者の〈経済的仮面〉については、以前、第2章の交換過程の最初のパラグラフに次のような説明がありました。

  〈商品は、自分で市場に行くことはできないし、自分で自分たちを交換し合うこともできない。だから、われわれは商品の番人、商品所持者を捜さなけれぽならない。商品は物であり、したがって、人間にたいしては無抵抗である。もし商品が従順でなければ、人間は暴力を用いることができる。言いかえれば、それをつかまえることができる。これらの物を商品として互いに関係させるためには、商品の番人たちは、自分たちの意志をこれらの物にやどす人として、互いに相対しなけれぽならない。したがって、一方はただ他方の同意のもとにのみ、すなわちどちらもただ両者に共通な一つの意志行為を媒介としてのみ、自分の商品を手放すことによって、他人の商品を自分のものにするのである。それゆえ、彼らは互いに相手を私的所有者として認めあわなければならない。契約をその形態とするこの法的関係は、法律的に発展していてもいなくても、経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である。この法的関係、または意志関係の内容は、経済的関係そのものによって与えられている。ここでは、人々はただ互いに商品の代表者としてのみ、したがって商品所持者としてのみ、存在する。一般に、われわれは、展開が進むにつれて、人々の経済的扮装はただ経済的諸関係の人化でしかないのであり、人々はこの経済的諸関係の担い手として互いに相対するのだということを見いだすであろう。〉 (全集23a113頁)

  (ニ) 2つの循環のどちらも同じ反対の諸段階の統一です。

  さらには、両方とも、こうした反対の諸段階(売りおよび買い)の統一したものです。

  (ホ) そして、どちらの場合にも、この統一は3人の当事者の登場によって媒介されています。そのうちの1人はただ売るだけであり、もう1人はただ買うだけですが、第3の1人は買いと売りとを交互に行なうことになっています。

  しかしそれらの統一のためには、両方とも第3者の登場を前提しており、その媒介によっています。例えばW-G-Wでは、穀物を売る農夫はそれを買う人を前提し、入手した貨幣で衣服を買うためには、衣服を売る人を前提しています。つまり農夫と穀物を買う人、衣服を売る人の3人の登場人物が存在しなければならないのです。
 同じことはG-W-Gでも言い得ます。商人は棉花を買いますが、そのためは棉花の販売人を前提しています。さらに商人は買った棉花を再び売るのですが、そのためには棉花を買う人を前提しています。つまり商人以外に棉花売る人、棉花を買う人の三者が媒介していることになります。このうち一人はただ売るだけ(衣服の生産者、棉花の生産者)、もう一人はただ買うだけ(穀物を買う人、棉花を買う人)、そして第3の人は買いと売りを交互に行なう人です(農夫、商人)。

  このパラグラフは初版を全面的に書き換えてます。参考のために初版を紹介しておきましょう。

  〈まず、両方の形態に共通なものを見てみよう。
  両方の循環は、同じ対立的な二つの段階、販売であるW-Gと購買であるG-Wとに、分かれる。これらの段階のどちらも、それ自体として考察すれば、なんらの差異も認められない。この過程にはいり込む要素は、両方の形態において、同じもの、商品と貨幣とである。両方の循環のどの部分でも、買い手と売り手という同じ経済的仮装が向かいあっている。双方の過程において3人の契約当事者が登場するが、1人の契約当事者だけが、交互に買い手および売り手としていつも現われるのに、他の二人の契約当事者のうち、一方は売るだけ他方は買うだけである。両方の循環は、結局、同じ対立的な諸段階の統一である。〉 (江夏訳145頁)

  それほど内容的に違いがないと言えますが、現行版(フランス語版も同じ)では〈商品と貨幣という同じ2つの物的要素が相対〉に対して〈買い手と売り手という同じ経済的仮面をつけた2人の人物が相対〉という形で、〈物的要素〉と〈経済的仮面〉とが明確に対置され、次のパラグラフから物象的側面からみる場合と、その人格化(担い手)の側面からみる場合の二通りの見方をしていく布石となっているということのようです(山内 清氏の指摘)。


◎第9パラグラフ(二つの循環の直接に分かる区別)

【9】〈(イ)とはいえ、二つの循環W-G-WとG-W-Gとをはじめから区別するものは、同じ反対の流通段階の逆の順序である。(ロ)単純な商品流通は売りで始まって買いで終わり、資本としての貨幣の流通は買いで始まって売りで終わる。(ハ)前のほうでは商品が、あとのほうでは貨幣が、運動の出発点と終点とをなしている。(ニ)第一の形態では貨幣が、他方の形態では逆に商品が、全過程を媒介している。〉

  (イ) 次に二つの循環の違いをみましょう。W-G-W と G-W-G という二つの循環の違いに最初に気づくのは、流通段階の順序が逆ということです。

  それでは二つの循環の形態上の相違を見て行くことにしましょう。まず最初に気づくのは、W-G-WとG-W-Gとでは、流通の段階の順序が逆になっているということです。

  (ロ) 最初の単純な商品流通は売りで始まって買いで終わります。次の資本としての貨幣の流通は買いで始まって売りで終わります。

  最初の単純な商品流通W-G-Wでは商品の売りで始まって買いで終わります。それに対して、資本としての貨幣の流通G-W-Gでは、買いで始まって売りで終わります。

  (ハ) 最初のほうでは商品が、あとのほうでは貨幣が、運動の出発点と終点とをなしています。

  だから最初のものは商品(W)が出発点と終点をなし、あとのものは貨幣(G)がそうした役割を果たしています。

  (ニ) 第一の形態では貨幣が、第二の形態では逆に商品が、全過程の媒介者になっています。

  ということは、第一の形態W-G-Wでは、貨幣が、第二の形態G-W-Gでは、商品が全過程の媒介者になっているということです。

  よく似た内容を論じている『経済学批判』から参考のために紹介しておきましょう。

  〈W-G-Wの形態の流通過程の結果である鋳貨と区別した貨幣は、G-W-G、すなわち商品を貨幣と交換するために貨幣を商品と交換するという形態の流通過程の出発点をなしている。W-G-Wの形態では商品が、G-W-Gの形態では貨幣が、運動の出発点と終点とをなしている。はじめの形態では貨幣が商品交換を媒介し、あとの形態では貨幣が貨幣になるのを商品が媒介している。はじめの形態では流通のたんなる手段として現われる貨幣は、あとの形態では流通の終極目的として現われ、他方、はじめの形態で終極目的として現われる商品は、第二の形態ではたんなる手段として現われる。貨幣そのものがすでに流通W-G-Wの結果なのであるから、G-W-Gの形態では、流通の結果が同時にその出発点として現われる。W-G-Wでは物質代謝が現実的内容をなしているのに、この第一の過程から生じた商品の形態定在そのものが、第二の過程G-W-Gの現実的内容をなしている。〉 (全集第13巻102頁)

 

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