『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(7)

2024-03-14 14:56:20 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(7)


【付属資料】(3)


●第12パラグラフ

《初版》

 〈個々の貨幣所持者または商品所持者が資本家として姿を現わすために自由に処理できなければならない価値額の最小限は、資本主義的生産の発展段階がちがえば変わってくるし、また、与えられた発展段階でも生産部面がちがえばその部面の特殊な技術的諸条件に応じてちがいがある。ある種の生産部面には、すでに資本主義的生産の発端でも、個々の個人の手のなかにはまだ存在していないような資本の最小限が、必要である。このことは、あるときは、コルベール時代のフランスのばあいのように、また、われわれの時代にいたるまでの多くのドイツ諸邦のばあいのように、このような私人にたいする国家の補助金を誘発するし、あるときは、ある種の産業部門および商業部門の経営について法的独占権をもつ会社(206)--近代的株式会社の先駆--の形成を誘発するのである。〉(江夏訳349頁)

《資本論》

  〈植民制度は商業や航海を温室的に育成した。「独占会社」(ルター)は資本蓄積の強力な槓杆だった。〉(全集23b983頁)

《フランス語版》

 〈貨幣または商品の所有者が、資本家に変態するために自由に処分することができなければならない価値額の最小限度は、生産の発展段階が異なるにしたがって変化する。発展段階が与えられていても、この最小限度はまた、事業が異なれば、それらの個々の技術的条件にしたがって変化する。資本主義的生産の端初でさえ、これらの事業の幾つかは、個人の手中にはまだ存在しなかった最小限度の資本をすでに必要としていた。このことは、私的事業主に与えられる国家の補助金--コルベール時代のフランスにおけるような、また、現代にいたっても多くのドイツ諸邦で実行されているような--を必要としたし、若干の工業・商業部門経営についての法的独占権をもつ会社(7)--近代的株式会社の先駆--の形成を必要としたのである。〉(江夏・上杉訳320頁)

《イギリス語版》

  〈(13) 貨幣または商品の所有者個々が、彼自身を資本家に変態させるために指揮をとるその価値総額の最小値は、資本主義的生産の発展段階によって変化する。それぞれの与えられた段階や生産局面の違いによって、彼等の特別なる条件や技術的な条件によって変化する。生産のある局面では、その最初の資本主義的生産局面であってすら、一単独の手の中では見出せないほどの最小限の資本を要求する。このことが、ある部分では、私人達への国家的補助金をして、そのきっかけを与える。コルベールの時のフランスや、多くのドイツ諸州が我々の時代を作り上げた様に。またある部分では、工業 商業のある部門での搾取のために、法的独占*6 を社会的に形成する。我々の近代の株式会社の先駆である。〉(インターネットから)


●原注206

《初版》

 〈(206) マルティン・ルターは、この種の社団を「独占会社」と名づけている。〉(江夏訳349頁)

《フランス語版》

 〈(7) 「独占会社」、これがマルティン・ルターがこの種の機関に与える名称である。〉(江夏・上杉訳320頁)

《イギリス語版》

  〈注:6 *マーティーン ルーサーは、これらの種類の会社を「独占的会社」と呼ぶ。〉(インターネットから)


●第13パラグラフ

《初版》

 〈われわれは、資本家と賃金労働者との関係が生産過程中にこうむった諸変化の詳細については触れないし、したがって、資本そのもののさらに立ち入った規定についても触れない。わずかばかりの要点だけをここで強調しておこう。〉(江夏訳349頁)

《フランス語版》  フランス語版にはこのパラグラフはない。


《イギリス語版》 イギリス語版にはこのパラグラフは省略されている。


●第14パラグラフ

《初版》

 〈生産過程のなかで、資本は労働にたいする指揮、すなわち活動しつつある労働力つまり労働そのものにたいする指揮を行なうほどまでに、発展した。擬人化された資本である資本家は、労働者が自分の仕事をきちんと、しかるべ/き強度で行なうように、監視している。〉(江夏訳349-350頁)

《フランス語版》

 〈われわれがすでに見たように、資本は労働の主人公になる。すなわち、運動中の労働力または労働者自身を、資本の法則のもとに服従させることに成功する。資本家は、労働者が自分の仕事を念入りにまた必要な強度で遂行するように監視する。〉(江夏・上杉訳320頁)

《イギリス語版》

  〈(14) 我々が見て来たように、生産過程の内部においては、資本が労働に対する命令権を要求する。すなわち、労働力または労働者そのものに対して指図する。擬人化した資本、資本家は、労働者が彼の仕事を規則正しくなすように、また適切な集中度をもってなすように、管理する。〉(インターネットから)


●第15パラグラフ

《61-63草稿》

  〈加えられる強制が、すなわち剰余価値、剰余生産物、あるいは剰余労働の生みだされる方法が、違った種類のものなのである。もろもろの明確な区別は、次の項目〔Abschnitt〕で、つまり蓄積を論じるときに、はじめて考察することになる。この資本のもとへの労働の形態的包摂にあって本質的なことは次の点である。/
  (1) 労働者は、自分自身の人格の、だからまた自分自身の労働能力の所有者として、この労働能力の時間極(ギ)めでの消費の売り手として、貨幣を所持する資本家に相対しているのであり、だから両者は商品所持者として、売り手と買い手として、それゆえ形式的には自由な人格として相対しているのであって、事実、両者のあいだには買い手と売り手との関係以外の関係は存在せず、この関係とは別に政治的または社会的に固定した支配・従属の関係が存在するわけではない、ということである。
  (2) これは第一の関係に含まれていることであるが--というのは、もしそうでなかったら労働者は自分の労働能力を売らなくてもいいはずだから--、彼の客体的な労働諸条件(原料、労働用具、それゆえまた労働中の生活手段も)の全部が、あるいは少なくともその一部が、彼にではなく彼の労働の買い手かつ消費者に属し、それゆえ彼自身にたいして資本として対立しているということである。これらの労働諸条件が彼にたいして他人の所有物として対立することが完全になればなるほど、形態的に資本と賃労働との関係が生じるのが、つまり資本のもとへの労働の形態的包摂が生じるのが、それだけ完全になる。〉(草稿集⑨369-370頁)

《初版》

 〈資本は、さらに、労働者階級自身の範囲の狭い生活欲求が命ずるよりも多くの労働をこの階扱に強制するところの強制関係にまで、発展した。そして、他人の勤勉の生産者として、剰余労働の汲み取り人および労働力の搾取者として、資本は、エネルギーの点でも限度を知らない点でも効果の点でも、直接の強制労働にもとづく過去のあらゆる生産制度を凌駕している。〉(江夏訳350頁)

《フランス語版》

 〈資本は、その上、労働者階級に自分の狭い範囲の必要が要求するよりも多くの労働を遂行させざるをえなくする強制的関係として、現われる。他人の活動の生産者および利用者として、労働力の搾取者および剰余労働の詐取者として、資本主義制度は、種々の強制的労働制度に直接にもとづくあらゆる従前の生産制度を、エネルギー、効果、無限の力という点で凌駕している。〉(江夏・上杉訳320頁)

《イギリス語版》

  〈(15) さらに資本は、強制的な関係にまでこれを発展させ、労働者自身の生活に必要と処方された狭い範囲を超えて、労働者階級にそれ以上の労働を強要する。あたかも、他人の活動の演出者のごとく、剰余労働のポンプ係、労働力の搾取者として、直接的に労働者を追い立てた、初期の全ての生産システムを超えて、その熱中、規範の無視、無謀、効率一辺倒なやり方で、これを強要する。   〉(インターネットから)


●第16パラグラフ

《61-63草稿》

   〈絶対的剰余価値にもとづく形態を、私は資本のもとへの労働の形態的包摂と名づける。この形態は、現実の生産者たちが剰余生産物、剰余価値を提供しているが、すなわち必要労働時間を超えて労働しているが、それが自分のためではなく他人のためであるような、それ以外の生産様式と、ただ形態的に区別されるにすまない。〉(草稿集⑨369頁)
  〈この場合には、生産様式そのものにはまだ相違が生じていない。労働過程は--技術学的に見れば--以前とまったく同じように行なわれるが、ただし、今では資本に従属している労働過程として行なわれるのである。けれども、生産過程そのもののなかでは、前にも述ぺたように{これについて前述したことのすべてがここではじめてその場所に置かれることになる}、第一に、資本家による労働能力の消費が、それゆえ資本家による監視と指揮とが行なわれることによって、支配・従属の関係が発展し、第二に、労働のより大きな逮続性が発展する。〉(同370頁)

《初版》  初版では全集版の第16パラグラフと第17パラグラフが一つのパラグラフになっている。ここでは全集版の第16パラグラフに該当する部分だけを紹介しておく。

 〈資本は、さしあたり、歴史上現存している与えられた技術的諸条件を用いて、労働を自分に従属させる。だから、資本は生産様式を直接に変えるものではない。だから、これまでに考察した形態での、労働日の単純な延長に依拠する剰余価値生産は、生産様式そのもののどんな変化にもかかわりなく現われていたのである。この剰余価値生産は、古風な製パン業でも、近代的綿紡績業のばあいに劣らず効果的であった。〉(江夏訳350頁)

《フランス語版》 フランス語版では、第16パラグラフと第17パラグラフは明確にわけられず、第16パラグラフの途中から第17パラグラフがはじまり、それが途中で改行されて続いている。ここではフランス語どおりにまず第16パラグラフを紹介し、第17パラグラフがはじまるところに[/全集版の第17パラグラフがはじまる]という印を入れておく。

 〈資本はまず、歴史的発展から与えられた技術的条件のもとで、労働をとらえる。それは生産様式を即座には変化させ/ない。それだから、先に考察した形態のもとでの、労働日の単純な延長による剰余価値の生産は、生産様式のどんな変化にもかかわりなく現われたのである。それは現在、原始的な工程がいまなお適用されている製パン業でも、自動式の紡績業に劣らず生きている。[/全集版の第17パラグラフがはじまる]われわれが使用価値という単純な観点で生産を考察していたとぎには、生産手段は労働者にたいし、少しも資本という役割を演じていたのではなく、彼の生産活動の単なる手段および素材という役割を演じていたのである。たとえば鞣(ナメシ)皮業では、彼が鞣すのは皮であって資本ではない。〉(江夏・上杉訳320-321頁)

《イギリス語版》

  〈(16) まず最初、資本は、歴史的に見出される技術的条件の基盤において、労働を服従させる。であるから、生産様式を直接的に変化させることはしない。剰余価値の生産は、 -- これまで我々が考察したような形式で、 -- 証明済の単純な労働日の延長によって、従って、生産様式自体のいかなる変化からも独立して行われる。だから、旧式の製パン業者においても、近代的な綿製造工場に劣らないほど活発にそれが行われる。〉(インターネットから)


●第17パラグラフ

《初版》  初版では全集版の第17パラグラフは第16パラグラフと一緒になっているが、それをここでは分割して、第17パラグラフとして紹介しておく。

 〈したがって、生産過程をたんに労働過程の観点のもとで考察すれば、労働者は、資本としての生産手段に関係したのではなく、自分の合目的な生産活動の単なる手段および材料としての生産手段に関係したのである。たとえば製革業では、この労働者は、皮を自分の単なる労働対象として扱う。別に資本家のために皮をなめすわけではない。生産過程を価値増殖過程のもとで考察すると、もはやそうではなくなる。生産手段は早速、他人の労働を吸収するための手段に転化した。もはや労働者が生産手段を使うのではなくて生産手段が労働者を使うことになる。生産手段は、労働者の生産活動の素材的要素として、この労働者の手で消費されるわけではなく、労働者を生産手段そのものの生活過程の酵素として消費するのであって、資本の生活過程とは、自分自身を増殖する価値としての資本の運動にほかならない。夜間には休止していて生きている労働を吸収しない熔鉱炉や作業用建物は、資本家にとっては「純損」(“a mere loss")になる。それだから、熔鉱炉や作業用建物は、労働力の「夜間労働にたいする請求権」を構成しているわけである。貨幣が生産過程の対象的諸要因/すなわち生産手段にたんに転化されるということだけで、生産手段が他人の労働および剰余労働にたいする権原および強制権に転化されることになる。資本主義的生産に特有であって資本主義的生産を特徴づけているこういった顛倒が、いかにも、死んでいる労働と生きている労働との関係の顛倒が、価値と価値創造力との関係の顛倒が、資本家たちの意識にどのように反映しているか、最後になお一つの例をあげて示しておこう。1848年-50年のイギリスの工場主反逆のさいちゅうに、「西スコットランドの最も古くて最も声望の高い商会の一つでペイズリーの亜麻およぴ木綿紡績工場、すなわち1752年以来存続し代々同じ家族の手で経営されているカーライル同族会社、この会社の社長」は、--このきわめて聡明な紳士は、1849年4月25日の『クラスコー・デーリー・メール』紙に、「リレー制度」と題する書簡(207)を寄せたが、この書簡には、なかんずく、次のような怪奇なほど素朴な文言がまぎれ込んでいる。「さて、労働時間を12時間から10時間に短縮することから生ずる弊害を考察してみよう。……これらの弊害は、工場主の期待と財産にたいするきわめて重大な損傷に『なる』。彼(すなわち彼の『入手』)がこれまで12時間働いていたのに、10時間に制限されれば、彼の工場の機械または紡錘の各12個が10個に縮小する(“then every 12 machines or spindles,in his establishment,shrink to 10")のであって、彼が自分の工場を売ろうとしても、それらは10個にしか評価されず、このため、全国の各工場の価値の6分の1が失われることになろう8 208)」と。〉(江夏訳350-351頁)

《フランス語版》 重複するが、第16パラグラフに組み込まれている部分から紹介しておく。

 〈われわれが使用価値という単純な観点で生産を考察していたときには、生産手段は労働者にたいし、少しも資本という役割を演じていたのではなく、彼の生産活動の単なる手段および素材という役割を演じていたのである。たとえば鞣(ナメシ)皮業では、彼が鞣すのは皮であって資本ではない。
  われわれが剰余価値の観点で生産を考察するようになるやいなや、事態は変わった。生産手段は直ちに他人の労働の吸収手段に転化した。もはや労働者が生産手段を使うのではなく、反対に生産手段が労働者を使う。生産手段は、労働者によって彼の生産活動の素材的要素として消費されるのではなく、生産手段自身の生活に不可欠な酵母として労働者自身を消費するのであって、資本の生活は、永遠に増殖途上にある価値としての資本の運動にほかならない。夜間には休止していて、生きた労働をなんら吸収しない熔鉱炉や工場の建物は、資本家にとっては純損になる。だからこそ、熔鉱炉や工揚の建物は、労働者の「夜間労働にたいする請求権、権利」を構成しているのだ。これについてこれ以上述べることは、いまのところ無用である。こういった、資本主義的生産を特微づけている役割の転倒が、死んだ労働と生きた労働との関係の、価値と価値創造力との関係の、こうした奇妙な転倒が、資本の所有主の意識のうちにどのように反映しているかを、ただ一例によって示すことにしよう。
  1848-50年のイギリスの工場主の叛乱中に、西スコットランドの最も古くて最も名望の高い社名の一つであり、ペーズリの亜麻・木綿紡績工場で1752年以来存続していて代々変わらず同じ家族によって経営されているカーライル同族会社、この会社の社長、この非凡の叡知の持ち主である紳士は、1849年4月25日の『グラスゴー・デーリー・メール』紙上に、「リレー制度」と題する書筒(8)を書き送ったが、そのなかにはなかんずく、奇怪なまでに素直な次の一章句がある。「労働時間を12時問から10時間に短縮することから生ずる弊害を考察してみよう。……これらの/弊害は工場主の特権と財産に最も重大な損害をもたらす。彼がこれまで12時間労働していた(彼の人手を労働させていた、という意味である)のに、いまでは10時間しか労働しなくなれば、たとえば彼の事業所の機械または紡錘の各12個が10個に縮まる のであって、彼が自分の工場を売ろうとしても、それらは実際には10個にしか評価されず、そのため全国の各工場はその価値の6分の1を失うであろう(9)」。〉(江夏・上杉訳321-322頁)

《イギリス語版》

  〈 (17) もし、我々が、単純な労働過程の視点から、生産過程を見るとすれば、労働者は、生産手段との関係に立っており、資本のなんやらの性質にあるのではなく、彼自身の知的な生産活動の単なる手段と材料に対して立っている。例えば、皮なめしでは、彼は皮を単純な労働対象として取り扱う。資本家の皮をなめすのではない。( 訳者注: 資本家が所有する価値としての皮のことと分かるのであるが、資本家本人の皮膚とも訳せないではない、なにしろ資本擬人の皮膚という代物だからね ) しかし、これを剰余価値の創造過程という視点から見れば、生産過程はたちまち違ったものとなる。生産手段は、たちまち、他人の労働の吸収手段に換わる。もはや労働者が生産手段を用いるのではなく、生産手段が労働者を用いる。彼の生産的活動の材料的要素として彼が消費するものではなくて、それらがそれら自身の生命過程の必要な酵素として彼(訳者挿入 労働者)を消費する。そして資本の生命過程が、絶え間なく価値拡大の活動だけを作りだす。絶え間なく自身を倍増するだけの活動を作りだす。溶鉱炉や工場が、夜何もせずに突っ立っているだけで、生きた労働を吸収しないならば、それは資本家にとっては、「ただの損失」なのである。故に、溶鉱炉や工場は、労働者たちの夜間労働を、正当なる要求とするのである。単純な、貨幣の生産過程の材料的要素への転化が、生産手段への転化が、夜間労働への要求を、他人の労働と剰余労働に対する一命題に、一権利に転化するのである。死んだ労働と生きた労働間の、価値と価値を創造する力間の関係の完全なる倒錯、資本主義的生産の特徴でありかつ特異な珍妙論が、どのようにして、資本家の意識、それ自体の鏡像となるのか、後段の一つの例が明らかにするであろう。1848年から1850年の間、英国工場主の反抗の頃、「西スコットランドの最も古く、最も尊敬される工場の一つ カーライル一族会社、ペイスレーのリネンと綿の繊維工場、1752年に創業し1世紀に及ぶ存続を誇り、4世代の同家族によって経営されてきた、その工場主」…. この「非常に知的な紳士」が手紙*7 ( 本文注: 7 *工場査察官報告書 1849年4月30日) を書いた。1849年4月25日付けグラスゴー ディリー メール紙に、「リレー システム」と題するもので、いろいろとある中で、次のような珍妙で朴訥な文章があった。「我々は今、…. 悪魔が工場の労働を10時間に制限するやもしれない…. やつらは、工場主達の将来と財産に最も重大な損害を及ぼそうとしている。もし、彼 ( 彼の「労働者」のこと ) は以前12時間働いていたが、10時間に制限されると、彼の工場では、あらゆる12の機械または紡錘が10に縮んでしまう。工場を畳まねばならなくなるに違いない。その価値はただの10になるだろう。そうなれば、この国の全ての工場の価値の1/6の部分が差し引かれることとなるであろう。」*8〉(インターネットから)


●原注207

《初版》

 〈(207) 『1849年4月30日の工場監督官報告書』、59ページ。〉(江夏訳351頁)

《フランス語版》

 〈(8) 『1849年4月30日の工場監督官報告書』、59ページ。〉(江夏・上杉訳322頁)

《イギリス語版》 本文に挿入。


●原注208

《初版》

 〈(208) 同前、60ページ。工場監督官ステュアートは、彼自身スコットランド人であって、イングランドの工場監督官とは反対に、資本家的な考え方にすっかりとらわれているが、自分の報告書に収録したこの書簡について、これは、「工場主のうちリレー制度を用いているなに者かの手で書かれ、この制度にたいする偏見と疑念を取り除くことを格別にねらっているところの、きわめて有益な通信である。」と明言している。〉(江夏訳351頁)

《フランス語版》

 〈(9) 同前、60ページ。工場監督官ステュアートは、彼自身スコットランド人であって、イングランドの工場監督官とは反対に資本家的な考え方がすっかりしみこんでいるが、彼の報告書に収録したこの書簡は、「リレー制度を使用する工場主によって書かれた最も有益な通信であり、それは主として、この制度から生じた偏見や疑念を取り除くことを目的としている」と明言している。〉(江夏・上杉訳322頁)

《イギリス語版》

  〈注:8 *前出報告書 工場査察官 スチュアートは、彼自身はスコットランド人、は、英国人工場査察官達とは逆に、全く、資本家的な思考方式に捕らわれているのであるが、彼の報告書に加えたこの手紙について、次のように明確に述べている。「これは、同じ商売に従事する工場主達に与えられたリレー方式の採用についての最も有益な内容であり、作業時間の調整による変化への疑念と云う先入観を取り除くには最も明解なものである。」〉(インターネットから)


●第18パラグラフ

《初版》

 〈西スコットランドのこの先祖伝来の資本頭脳にとっては、紡錘等々という生産手段の価値と、自分自身を価値増/するという、すなわち毎日一定量の他人の無償労働を呑み込むという、生産手段の資本属性とが、全くみさかいがつかなくなっているのであって、そのために、このカーライル同族会社の社長は、自分の工場を売れば、自分には、紡錘の価値だけでなく、おまけに紡錘の価値増殖も支払われるのだと、すなわち、紡錘のなかに含まれていて同種の紡錘の生産に必要な労働だけでなく、毎日ぺイズリーの健気な西スコットランド人から汲み出される剰余労働も支払われるのだと、じっさいに妄想しているのであって、それだからこそ、彼は、労働日を2時間短縮すれば、各12台の紡績機の売却価格が各10台の売却価格に下がってしまう! と思っているのである。〉(江夏訳351-352頁)

《フランス語版》

 〈われわれの見るとおり、スコットランドのこの石頭にとっては、生産手段の価値が、自己増殖しあるいは一定量の無償労働を日々同化するという生産手段のもつ資本属性と、全く混同されている。そして、カーライル同族会社のこの社長は、工場を売却するさいには、機械の価値だけでなく、おまけに機械の価値増殖も支払われる、すなわち、機械のなかに含まれていて同類の機械の生産に必要な労働だけでなく、機械の役立ちでぺーズリの律義なスコットランド人から日々詐取されている剰余労働までも支払われる、と信ずるほどに妄想を抱いている。彼の意見によれば、それだからこそ、労働日の2時間の短縮は、彼の機械の販売価格を引き下げるであろう。機械1ダースはもはや10個の価値しかないことになろう!〉(江夏・上杉訳322頁)

《イギリス語版》

  〈(18) この、西スコットランドのブルジョワの頭脳にとっては、「4代」もの間受け継がれ、積み上げられた資本家的品質の頭脳にとっては、生産手段の価値、紡錘等々は、それらの財産、資本としての、それら自体の価値と、日々飲み込む他人の不払い労働のある一定量、が切り離しがたく混ざり合っており、カーライル一族会社の社長は、実際のところ、もし彼が工場を売れば、彼に支払われる紡錘の価値のみではなく、それに加えて、剰余価値を追加する力も、紡錘の中に体現されている労働、そしてその種の紡錘の生産に必要な労働のみでなく、勇敢なるスコットランドのペイスレーの土地が日々の汲み出しを手助けする剰余労働もまた支払われると思っているようだ。だからこそ、彼は労働日の2時間の短縮が、12の紡績機械の売値が10 ! のそれになると思っている分けだ。〉(インターネットから)

  (第9章終わり)

 

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