『資本論』学習資料No.44(通算第94回)(1)
◎第1篇・第1章「利子生み資本」(エンゲルス版第21章)に使われたマルクス草稿について(大谷禎之介著『マルクスの利子生み資本論』全4巻の紹介 №13)
今回からいよいよ、大谷禎之介著『マルクスの利子生み資本論』第1巻の〈第1篇 利子生み資本〉に入ります。これはほぼ大谷本第1巻の内容をなしています(なお「第2篇 信用制度概説」は大谷本第2巻の内容になります)。ここにはエンゲルス版の第5篇、第21章から第24章までの草稿の翻訳文が紹介されています。しかしこれらの諸草稿のパラグラフごとの詳しい解読はすでに『マルクス研究会通信』という別のブログで行っています。興味のある方は一度見てみてください。ということで、ここではそれぞれの草稿の翻訳を紹介するにあたり、大谷氏が行っている解説やそれに関連するさまざまな論文を取り上げたいと思います。
今回はエンゲルス版の第21章に該当する部分の草稿なのですが、それに関しては、大谷氏は幾つかの問題を解説しています。しかしそれらをすべて検討するわけには行かないので、私が興味をもったものだけに限定して紹介して行くことにします(なおすでにお断りしていますが、この前文は、私が大谷氏の『マルクスの利子産み資本論』全4巻を読んで行く過程でノートしたものを下敷きにしています。ですからこの紹介文は大谷氏の本の内容が分かるように紹介するものというよりも、そこで私が興味をもったものや批判点を紹介するものになっています。その点、取り上げるものがあちらこちらに論点が飛んでしまっていますが、そこらあたりは、ご容赦ねがいます。)
まず大谷氏はこの章の前文で次のように述べています。
〈マルクスが第5章で理論的に解明しようとしたのは,目前に見えている信用制度(銀行制度)のもとでの利子生み資本すなわちmonied capitalであって,このような利子生み資本の具体的な形態に到達するために,マルクスは,「1)」-「4)」で,まずもって信用制度を度外視して利子生み資本を概念的に把握(begreifen)し,それから上昇して「5)」で,信用制度のもとでの利子生み資本の分析に取り掛かった。だから「5)」でのmonied capitalは,より具体的な形態にある利子生み資本なのであり,「5)」でマルクスが「利子生み資本」と言っているものも,ここで掲げた用例から明らかなように,まごうかたなき「利子を生む資本〔Zins tragendes Capital〕」のことであって,それはけっして「資本-利子」という三位一体的定式の一項のもとにおける転倒的観念としての「資本」のことではない。そして,以上の利子生み資本の理論的分析とそのあとの「6)」での利子生み資本の歴史的考察との全体,つまり第5章の全体が,利子生み資本の分析を成しているのである。〉(147頁)
この大谷氏の説明は全体としては首肯しうるのですが、大谷氏が〈「5)」でマルクスが「利子生み資本」と言っているもの〉は〈けっして「資本-利子」という三位一体的定式の一項のもとにおける転倒的観念としての「資本」のことではない〉とわざわざ指摘している意味がいま一つよく分かりません。確かに〈三位一体的定式〉を論じているのは、第7章(篇)においてですから、もっとも具体的で表面的な関係としてマルクスは論じているわけです。ですから、この利子生み資本の概念を論じている段階とは抽象度が違うというならその通りです。しかし利子生み資本の概念を論じている「4)」(エンゲルス版第24章)でも、〈利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化〉が論じられており〈「資本-利子」〉の転倒についても十分に論じているように思えるのです。この点、若干の疑問を禁じ得ません。
あるいは大谷氏は、恐らく誰かの主張を念頭にこのように述べているかも知れませんが、それが誰のどのような主張を念頭においてこのように述べているのかはよく分かりません。最初に大谷氏が〈マルクスが第5章で理論的に解明しようとしたのは,目前に見えている信用制度(銀行制度)のもとでの利子生み資本すなわちmonied capitalであって〉と述べているのは、〈理論的に〉の部分を下線を引いて強調していることを見ても、恐らく宇野の「利子論の方法」を意識したものであろうということは分ります。つまりマルクスは問題を理論的に論じているのだが、しかしだからと言って純粋の資本主義を想定して、利子も産業資本から遊離する貨幣(資本)に限定すべきなどとは考えずに、まずは目の前にある現実の利子生み資本(moneyed Capita1)を前提して、その観察・分析から始めているのだ、というのが大谷氏が言いたいことだと推測できます。しかし前者の場合は誰を意識したものかが分からないのです。宇野はそのような主張をしていたかはよく覚えていません。
大谷氏は第5章(第5篇)の表題〈利子と企業利得(産業利潤または商業利潤)とへの利潤の分裂。利子生み資本〉の意味について、次のように解説しています。
〈この表題のうち前半の「利子と企業利得(産業利潤または商業利潤)とへの利潤の分裂」という部分は,第3部の他の多くの部分の表題と同様に,分配形態かつ収入形態である,剰余価値の転化形態,すなわち剰余価値が受けとる「具体的形態」に即してこの章の主題を示しており,後半の「利子生み資本」は,同じ主題を資本の「具体的形態」に即して示している。これをさらに簡潔に言い表わせば,第5章の主題は,剰余価値の分配形態に即して言えば「利子と企業利得」であり,資本に即して言えば「利子生み資本」である。〉(149頁)
こうした大谷氏の説明はそれほど問題にすべきことはないように思えますが、しかし少し問題を提起すれば、このように考えるべきではないでしょうか。大谷氏は多分に宇野の「分配論」を意識してこれを書いている嫌いがあります。しかし果たしてそれは妥当でしょうか。マルクスが第3部で収入の諸形態を問題にしていることは、その最終章で三位一体的形式を批判的に論じていることからも、すなわちブルジョア社会の三大階級、資本家、労働者、土地所有者のそれぞれの経済的基礎とその収入諸形態を暴露することが一つの課題であることはあきらかでしょう。しかしもちろん、宇野のように図式的にだから「分配論」だなどとすることは果たして正しいかどうかです。『資本論』はあくまでも資本主義的生産様式の内在的な諸法則の一般的な解明と叙述を目的にしたものであり、だから第3部でもやはりより具体的な諸形象化を展開しているとはいえ、やはり資本主義の諸法則の一般的な展開と考えるべきです。単に「分配論」を問題にしているのではないのです。最初の利潤論にしても、それは決して分配論の問題ではありません。むしろ第1部第2部で剰余価値として解明されたものが資本主義のより表層においては(直接的な定在としては)利潤として現れ、しかもその利潤という直接的な形態こそが資本にとってはより規定的な意味をもつことを暴露することにあるように思えます。そしてそこから資本主義的生産は転倒した新たな諸法則を展開するのであって、それが第1章(篇)~第3章(篇)の内容をなしています。それは決して「分配」が問題になっているのではないのです。
そうした『資本論』の実際の展開に則して考えてみますと、この第5章の表題も次のように捉えるべきではないでしょうか。この第5章で解明されるのは利子生み資本ですが、それは資本主義的生産様式においては、利潤が利子と企業利得とに分裂することを基礎として解明されるべきだということです。つまり資本主義以前の利子生み資本、すなわち高利資本等では、この意味では決して利潤が利子と企業利得とに分裂することを前提にはしていないのです。つまり第5章の表題〈利子と企業利得(産業利潤または商業利潤)とへの利潤の分裂。利子生み資本〉の意味として考えるべきなのは、利潤が利子と企業利得とへ分裂した結果もたらされる利子生み資本(つまり資本主義的生産に従属した利子生み資本)を主題とするという意図を示していると考えるべきなのではないでしょうか。この点、大谷氏の説明は若干の疑問とするものです。
とりあえず、以上で、今回の大谷本の紹介は終わります。
それでは『資本論』の解説に取りかかりましょう。今回は「第12章 分業とマニュファクチュア」です。ただこの章は長いので、一回ですべて解説するのはやや無理がありますので、2回に分けたいと思います。今回は前半だけです。まずはこの章の位置づけから考えて行きましょう。
第12章 分業とマニュファクチュア
◎「第12章 分業とマニュファクチュア」の位置づけ
先に「第11章 協業」の位置づけの時にも紹介しましたが、「第10章 相対的剰余価値の概念」の最後でマルクスは〈労働の生産力の発展は、資本主義的生産のなかでは、労働日のうちの労働者が自分自身のために労働しなければならない部分を短縮して、まさにそうすることによって、労働者が資本家のためにただで労働することのできる残りの部分を延長することを目的としているのである。このような結果は、商品を安くしないでも、どの程度まで達成できるものであるか、それは相対的剰余価値のいろいろな特殊な生産方法に現われるであろう。次にこの方法の考察に移ろう〉と述べていました。そしてそのときにも述べましたが「第11章 協業」から「第13章 機械と大工業」までは、相対的剰余価値の特殊な生産方法を明かにしていくことになるわけです。だから「第12章 分業とマニュファクチュア」も同じような位置づけがあるといえます。またマルクスは次のようにも述べています。
〈分業は、協業の特殊的な〔besonder〕、特殊化された〔spezifiziert〕、発展した形態であって、それは、労働の生産力を高め、同一の仕事を行なうのに必要な労働時間を短縮するための、したがって、労働能力の再生産に必要な労働時間を短縮し、剰余労働時間を延長するための、強力な一手段である。
単純協業で見られるのは、同一の労働を行なう多数者の協働である。分業で見られるのは、資本の指揮のもとで次のようなことを行なう多数の労働者の協業である。すなわち彼らは、同一の諸商品の異なった諸部分を生産するのであるが、その諸商品の各特殊的部分はそれぞれある特殊的労働、特殊的作業〔Operation〕を必要とするのであって、各労働者またはある一定倍数の労働者は一つの特殊的作業だけを行ない、別の者は別のことをする、等々である。しかし、これらの作業の総体が一つの商品を、一定の特殊的商品を生産するのであり、したがってこの商品には、これらの特殊的労働の総体が表わされるのである。〉(草稿集④423頁)
だからまた次のようにも言いうるのです。
〈ここでは、資本主義的生産様式はすでに、労働をその実体において捉えて変化させてしまっている。それはもはや、単に資本のもとへの労働者の形態的包摂、すなわち他人の指揮と他人の監督とのもとで他人のために労働すること、ではない。……ここでの事態はそのようなものとは異なっている。彼の労働能力が全体機構--その全体が作業場を形成する--の一部分の単なる機能に転化することによって、彼はそもそも一商品の生産者であることをやめてしまったのである。彼は一つの一面的な作業の生産者でしかなく、その作業がそもそもなにかを生産するのは、作業場を形成する機構全体とのつながりのなかにおいてでしかない。つまり、彼は作業場の生きた一構成部分なのであって、自身の労働の様式そのものによって資本の付属物になってしまった。というのは彼の能力は、作業場においてでなければ、つまり彼に対立して資本の定在となっている一機構の一環としてでなければ、発揮されえないからである。……労働者はいまや、もはや労働手段の欠如によるだけではなく、彼の労働能力そのものによって、彼の労働の仕方様式によって、資本主義的生産のもとに包摂され資本に捉えられるのであって、資本はもはや単に客体的諸条件を手中におさめているだけでなく、労働者の労働がかろうじてまだ労働でありうるための、主体的労働の社会的諸条件をも手中におさめているのである。〉(草稿集④445-446頁)
つまり労働者は実体的にも資本に包摂され、労働者は資本のその生産機構のなかでしか労働者として振る舞えないほどに変質されてしまうわけです。こうした実体的包摂が分業からはじまり、労働者はだからますます資本の支配のもとに取り込まれて行くことになるのです。
なお河上肇やローゼンベルグなどは、その他の章と同じようにこの章でも、マルクスは最初は使用価値の生産(労働過程)という側面から分業とマニュファクチュアを観察し(第1~3節)、しかるのちに価値増殖過程として、すなわち資本家的な特殊性において問題を考察する(第4、5節)という手順を踏んでいると指摘しています。そうしたことも頭に入れて、以下、第1節の第1パラグラフから検討して行きましょう。
第1節 マニュファクチュアの二重の起源
◎第1パラグラフ(マニュファクチュアが資本主義的生産過程の特徴的な形態として優勢になるのは、ざっと計算して16世紀の半ばから18世紀の最後の3分の1期まで続く本来のマニュファクチュア時代のことである)
【1】〈(イ)分業にもとづく協業は、マニュファクチュアにおいてその古典的な姿を身につける。(ロ)マニュファクチュアが資本主義的生産過程の特徴的な形態として優勢になるのは、ざっと計算して16世紀の半ばから18世紀の最後の3分の1期まで続く本来のマニュファクチュア時代のことである。〉(全集第23a巻441頁)
(イ) 分業にもとづいた協業は、マニュファクチュアにおいてその古典的な姿を身につけます。
まず協業というのは、〈同じ生産過程で、または同じではないが関連のあるいくつかの生産過程で、多くの人々が計画的にいっしょに協力して労働するという労働の形態〉のことをいうと説明がありました(第11章、第6パラグラフ)。では協業と分業とでは何が異なるのでしょうか。マルクスは協業の具体例としてデステュット・ド・トラシの次のような説明を紹介していました。
〈ある複雑な仕事の実行が問題だとしようか? いくつものことが同時になされなければならない。一人があることをしているあいだに別の一人は別のことをし、こうして、すべての人々が、一人だけでは生みだせないような結果に寄与するのである。一人が漕いでいるあいだに別の一人は舵をとり、第3の一人は網を投げたり、銛(モリ)で魚を突いたりし、こうして、漁業は、このような協力なしには不可能であろうような成果をあげるのである」(デステュット・ド・トラシ『イデオロギー要論。第四部および第五部。意志および意志作用論』、バリ、1826年、78ページ〉。〉(第11章原注15)
これは草稿集④でも抜粋されていましたが(それは付属資料で紹介)、そこではマルクスはこの抜粋に続けて次のように述べていました。
〈この場合、この最後の協業では、すでに分業が行なわれている。なぜなら「いくつものことが同時になされなければならない」からである。しかし、これは、本来の意味での分業ではない。この3人は、協働活動のときにそれぞれただ一つのことをするだけではあるが、彼らは代わるがわる、漕いだり、舵をとったり、魚をとったりすることができる。これにたいして本来の分業の眼目は、「数人が互いにたすけあって働くとき、各人は、自分が最も優れている仕事にもっぱら従事することができる、云々」(同前、79ページ)ということである。〉(草稿集④420-421頁)
つまり協業と分業との相違は、確かに分業でも〈同じ生産過程で、または同じではないが関連のあるいくつかの生産過程で、多くの人々が計画的にいっしょに協力して労働する〉のですが、しかし各人は一つの仕事に〈もっぱら従事する〉ということが異なるのです。分業では協働する各人は自分の仕事に固定されているということです。
ですから〈分業にもとづく協業〉というのは、〈同じ生産過程で、または同じではないが関連のあるいくつかの生産過程で、多くの人々が計画的にいっしょに協力して労働する〉のですが、それぞれの労働は多くの労働者に配分されて、しかも労働者はそれらの労働に縛りつけられているということなのです。
そしてそれが〈マニュファクチュアにおいてその古典的な姿を身につける〉と述べています。「マニュファクチュア」というのは何でしょうか? イギリス語版ではマニュファクチュアという用語に「工場手工業」という訳語を当てています。一般には「工場制手工業」とも言われているものです。それは労働者は一カ所に工場(作業場)に集められているのですが、しかしその作業そのものは依然として手工業的なものにとどまっているというものです。これは資本主義的生産の初期に現れてきたものといえるでしょう。
AIは次のように説明しています。
〈「マニュファクチュア」は、製造業の形態の一つで、日本語では工場制手工業と訳されます。この言葉は、「manu(手)」と「facture(製造)」の二つの語から成り立っています。歴史的な用語としては、被雇用労働者の大規模な手工業を指します。具体的には、一つの作業場内で数名から数十名の労働者が雇用され、手工業的な技術に基づきながら分業と協業の体制のもとで工業生産が行われる形態を指します。この概念は、産業革命以前の資本主義的な工業の最初の形態でした。〉(Bing)
(ロ) マニュファクチュアが資本主義的生産過程の特徴的な形態として優勢になるのは、ざっと計算して16世紀の半ばから18世紀の最後の3分の1期まで続く本来のマニュファクチュア時代のことです。
だからマルクスはマニュファクチュアが資本主義的生産の特徴的な形態として優勢になるのはざっと計算して16世紀の半ばから18世紀の3分の1期までの間だと述べています。そしてそれを「本来のマニュファクチュア時代」と特徴づけているわけです。
新日本新書版にはこの最後に次のような訳者注が付いています。
〈ボッペ『技術学の歴史』第1巻、ゲッティンゲン、1807年、31ページ参照〉(585頁)
『61-63草稿』にはポッペからの引用が多数ありますが(マルクスは抜粋ノートにこの書の第1~3巻の抜き書きをやっている)、この訳者注で指示している頁数からのものはありませんでした。少しは関連すると思える部分を紹介しておきます。
〈「マニュファクチュアと工場。いくつもの手工業が集まり一つの目的に向かって仕事をする。商品を直接に入手でこしらえるか、人手が不足するときは機械でつくるという場合、ひとはマニュファクチュアと呼んでいる。商品の生産に炉火と槌が使用される場合、ひとは工場〔と呼んでいる〕。たとえば、陶器やガラスの製造など、大規模に行なわれるほかないいくつかの仕事は、それゆえ手工業ではありえない。すでに13、14世紀には、織物のような若干の労働は、大規模に営まれていた。
18世紀には、たくさんの学者が過去の手工業やマニユ/ファクチュアや工場を精確に学びとることを熱心な目標とした。いく人かは、そこから特殊な学問分野をつくった。ようやく近時になって、力学、物理学、化学などと手工業(生産、というべきだ)との結びつきが正当に認識されたのである。以前には、仕事場では、もろもろの規則やならわしが親方から職人へ、徒弟へと伝えられ、それが保守的な伝統〔をつくった〕。かつては、偏見が学者にたいして対立していた。1772年に、ベツクマンがはじめて技術学〔Technologie〕という名称を使用した。すでに18世紀の前半に、イタリア人ラマッツィーニは、工芸家と手工業者の病気について論文〔を書いている〕。包括的な技術学は、レオミュールとショウにはじまる。レオミュールは、フランス科学ア力デミーに一つのプランを提出した。ここから、『王立科学ア力デミーの会員によって作成ないし承認された、工芸の記述』、1761年初め、パリ(2つ折本)。」}〉(草稿集⑨64-65頁)
ついでにこのパラグラフに関連するものを『61-63草稿』から紹介しておきます。
〈18世紀の前半には、まだ大工業はな/く、分業に基づくマニュファクチュアが存在したにすぎない。資本の主要成分は依然として労賃に投下される可変資本であった。労働の生産力は発展したが、しかし、その世紀の後半に比べれば緩慢であった。資本の蓄積とともに、ほとんど比例的に、労働にたいする需要は増大し、したがって労賃も上がって行った。イギリスはまだ本質的には農業国であった。そして農業人口によって営まれる非常に広がった家内的マニュファクチュア(紡績と織布のための)が引き続き存在し(まだそれ自身拡大しつつあった)。単に働くだけのプロレタリアートはまだ発生しうるまでに至っていなかったのであり、それは当時工業の百万長者がほとんどいなかったのと同様であった。18世紀の前半には相対的に可変資本のほうが優勢であり、その後半には国定資本のほうが優勢であった。〉(草稿集⑥812-813頁)
〈商業資本は、いろいろな形態で産業資本に従属させられるか、または、同じことであるが、産業資本の機能となり、特殊な一機能を果たす産業資本となる。商人は、商品を買わないで、賃労働を買い、この賃労働で商品を生産して、この商品を商業のための販売用とする。しかし、これによって商業資本そのものは、それが生産に対立してもっていた固定形態を失う。こうして中世の同職組合はマニュファクチュアから挑戦を受け、手工業はより狭い範囲に閉じ込められた。中世には商人は(イタリアやスペインなどに散在していたマニュファクチュア発達地は別として)、単に、生産された--都市の同職組合によってであれ農民によってであれ--商品の問屋でしかなかった。このような、産業資本家への商人の転化は、同時に、産業資本の単なる一形態への商業資本の転化でもある。他方では生産者が商人になる。たとえば製布業者が彼の材料を継続的に少しずつ商人から受け取って商人のために労働するということをやめて、彼自身が自分の資本などに応じて材料を買うようになる。いろいろな生産条件が、彼自身によって買われた商品として、過程にはいる。そして、個々の商人や特定の顧客のために生産するのではなくて、今や製布業者は商業世界のために生産する。第一の形態では、商人が生産を支配し、商業資本が、それによって動かされる手工業や農民的家内工業を支配する。産業は商人の従属物である。第二の/形態では、生産は資本主義的生産に転化する。生産者自身が商人である。商業資本はただ流通過程を媒介し、資本の再生産過程における一定の機能を行なうだけである。これが二つの形態である。商人は商人として生産者になり、産業資本家になる。産業資本家は、生産者は、商人になる。元来、産業資本は、ただ、商品流通しかも商業にまで発展させられる商品流通という前提のうえに形成されるにすぎないのだから、商業は、同職組合的生産や農村的-家内工業的生産や封建的農業生産の資本主義的生産への転化のための前提である。商業は生産物を商品に発展させる。なぜならば、商業は一つには生産物に市場をつくりだすからであり、一つには新たな商品等価物をつくってやるからであり、一つには生産に新たな材料を供給し、こうして、はじめから商業に基づいており、市場のための生産に基づくとともに世界市場からくる諸生産要素に基づいている生産様式を開始するからである。16世紀には、いろいろな発見やマーチャント・アドヴェンチャラーズこそが、マニュファクチュアをひき起こしたものである。このマニュファクチュアがいくらか強固になれば、そしてさらに大工業としていっそう強固になれば、それはそれ自身で市場を創造し、それを征服し、部分的には力ずくで自分のために諸市場を開くが、それらの市場を自分の商品そのものによって征服する。それからは商業はもはや工業生産の召使でしかなくなり、工業生産にとっては絶えず拡大される市場が生活条件になっている。というのは、商業の既存の限界によっては(商業が現存の需要を表わすかぎりでは)制限されないでただ既存の資本の大きさと労働の生産力の発展とによってのみ制限されている絶えず拡大される大量生産は、絶えず既存の市場を氾濫させ、したがって市場の限界を絶えず拡大し遠ざけることに努めつつあるからである。ここでは商業は産業資本の召使であって、産業資本の生産条件から生ずる一機能を行なうのである。植民制度によって(禁止的関税制度と同時に)、最初の発展期における産業資本は、暴力的に一つの市場またはいくつもの市場を確保しようとする。産業資本家は世界市場に面している。産業資本家はそれ自身の費用価格を単に国内の市場価格とだけではなく全世界市場でのそれと比較するのであり、したがってまた絶えずそれと比較しなければならないのである。彼は絶えずこのことを顧慮しながら生産する。この比較は初期にはただ商人階級だけの仕事であり、したがって商業/資本のために生産的資本にたいする支配権を保証するのである。〉(草稿集⑦427-429頁)
◎第2パラグラフ(マニュファクチュアは二重の仕方で発生する。一方では、ある一つの生産物が完成されるまでにその手を通らなければならないいろいろな種類の独立手工業の労働者たちが、同じ資本家の指揮のもとにある一つの作業場に結合される)
【2】〈(イ)マニュファクチュアは二重の仕方で発生する。
(ロ)一方では、ある一つの生産物が完成されるまでにその手を通らなければならないいろいろな種類の独立手工業の労働者たちが、同じ資本家の指揮のもとにある一つの作業場に結合される。(ハ)たとえば1台の馬車は、車工、馬具工、指物工、錠前工、真鍮工、ろくろ工、レース工、ガラス工、画工、塗工、メッキ工など多数の独立手工業者の労働の総生産物だった。(ニ)馬車マニュファクチュアは、これらのいろいろな手工業者をすべて一つの作業場に集め、そこで彼らは互いに助け合いながら同時に労働する。(ホ)馬車にメッキすることは、たしかに、馬車がつくられてからでなければできない。(ヘ)しかし、たくさんの馬車が同時につくられるならば、あるものが生産過程の前のほうの段階を通っているあいだに、いつでも他のどれかがメッキされているということが可能である。(ト)そのかぎりでは、まだわれ/われは、有り合わせの人と物とを材料とする単純な協業の域を脱してはいない。(チ)ところが、やがて一つの重要な変化が現われる。(リ)ただ馬車の製造だけに従事している指物工や錠前工や真鍮工などは、自分の従来の手工業をその全範囲にわたって営む習慣といっしょに、そうする能力をもだんだん失ってくる。(ヌ)他方、彼の一面化された動作は、いまでは、狭められた活動範囲のための最も合目的的な形態を与えられる。(ル)元来は、馬車マニュファクチュアはいろいろな独立手工業の結合体として現われた。(ヲ)それは、しだいに、馬車生産をそのいろいろな特殊作業に分割するものになり、これらの作業のそれぞれが1人の労働者の専有機能に結晶してそれらの全体がこれらの部分労働者の結合体によって行なわれるようになる。(ワ)同様に、織物マニュファクチュアやその他の多くのマニュファクチュアも、同じ資本の指揮のもとでのいろいろな手工業の結合から生じたのである(26)。〉(全集第23a巻441-442頁)
(イ)(ロ) マニュファクチュアは二重の仕方で発生します。一つは、ある一つの生産物が完成されるまでにその手を通らなければならないいろいろな種類の独立手工業の労働者たちが、同じ資本家の指揮のもとにある一つの作業場に結合されるケースです。
マニュファクチュアが中世の手工業からどのようにして発生してくるかを見ると二つのケースが考えられるということです。
一つは一つの生産物が完成されるまでに、多くの人の手を通らなければならないケースです。それはそれまではさまざまな手工業者がそれぞれ独立してやっていたものですが、それらを一つの作業場に集めて一人の資本家の指揮のもとにそれらの作業が結合されて行われる場合です。
『61-63草稿』から紹介しておきます(ただし、ここで問題になっているのは〈その反対に、〉以下の部分です)。
〈分業が、まず既存の作業場を基礎として諸作業をさらに分解し、それらの作業のもとに一定数の労働者を包摂してゆく方向で発展するかぎりでは、それは分割を続けていくものであるのにたいして、分業はまた、その反対に、「詩人のばらばらにされた四肢〔disjecta membra poetae〕」が、以前にはそれだけの数の独立した商品として、したがってまたそれだけの数の独立した商品所有者の生産物として互いに並んで自立的に存在していたかぎりでは、それらのものの一つの機構への結合でもあるのであって、これはアダム〔・スミス〕がまったく見落としていた側面である。〉(草稿集④433頁)
(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト) たとえば1台の馬車は、それまでは車工、馬具工、指物工、錠前工、真鍮工、ろくろ工、レース工、ガラス工、画工、塗工、メッキ工など多数の独立手工業者の労働の総生産物でした。馬車マニュファクチュアは、これらのいろいろな手工業者をすべて一つの作業場に集め、そこで彼らを互いに助け合いながら同時に労働するようにします。馬車にメッキするのは、たしかに、馬車がつくられてからでなければできません。しかし、たくさんの馬車が同時につくられますと、あるものが生産過程の前のほうの段階を通っているあいだに、いつでも他のどれかがメッキされているということが可能なのです。しかしこの状態では、まだ私たちは、有り合わせの人と物とを使った単純な協業の域を脱していません。
その具体的な例として、馬車の生産が挙げられています。馬車を作るために必要なさまざまな部品は、それぞれその生産を専門とする独立した手工業者が各自の作業場で生産していたのですが、一人の資本家がそれらをすべて一つの作業場に集めて、互いに助け合いながら同時に生産するようにしたのです。しかしこの状態では、まだ単純な協業の域を脱したとはいえません。
『61-63草稿』から紹介しておきます。
〈馬車マニュファクチュア。〔馬車の製造〕では、車大工のほかに、いろいろな独立の手工業者が働いていた。馬具工、指物工、錠前工、真鍮工、ろくろ工、レース工、ガラス工、画工、塗工、メツキ工などである。のちには、これらの労働者は馬車工場のなかで一つにまとめられ、互いに協力して働いた。」(ヨハン・モーリツ・ポッペ『……技術学史』330ページ。)〉(草稿集⑨62頁)
(チ)(リ)(ヌ) しかし、やがて一つの重要な変化が現われます。ただ馬車の製造だけに従事している指物工や錠前工や真鍮工などは、従来はその手工業をその全範囲にわたって営んでいましたが、やがてその習慣といっしょに、そうする能力もだんだん失ってくるのです。そして、彼の一面化された作業は、その狭められた活動範囲のためもあって、その最も合目的的な形態を与えられるようにもなるのです。
しかしこのように資本家の指揮のもとに一カ所に集められて作業を行うことによって、やがて重要な変化が現れてきます。本来は馬車の部品を製造していた手工業者は、同時に別の仕事も請け負って仕事をしていました。例えば指物工や錠前工や真鍮工などは、馬車の部品だけではなくて、それ以外の製品も手がけていたのです。ところが一人の資本家の指揮もとに、一つの作業場に集められてただ馬車の部品だけを生産することを強いられますと、以前は独立した手工業者としてもっていたさまざまな能力も失われて、ただ馬車の部品の製造という一面化された作業に特化されることによって、その作業そのものももっとも合目的的な形態を与えられるようになるということです。
(ル)(ヲ) もともとは、馬車マニュファクチュアはいろいろな独立手工業の結合体として現われました。しかしそれは、しだいに、馬車生産をそのいろいろな特殊作業に分割するものになり、これらの作業のそれぞれが1人の労働者の専有機能に結晶してそれらの全体がこれらの部分労働者の結合体によって行なわれるようになるのです。
このように本来は独立した手工業者たちが生産した結合体だった馬車は、馬車生産をいろいろな特殊作業に分割して、それらの作業をそれぞれの労働者の専有機能にして、その全体がこうした部分労働者の結合体として行われるようになるということです。
(ワ) 同じように、織物マニュファクチュアやその他の多くのマニュファクチュアも、同じ資本の指揮のもとでのいろいろな手工業の結合から生じたのです。
こうしたさまざまな独立した手工業者を一人の資本家の指揮のもとに一つの作業場に集められ、それらの手工業者を部分労働者にして、一つの結合体を形成するやり方は、それ以外にも織物マニュファクチュアやその他のマニュファクチュアでも生じてきたのです。
◎原注26
【原注26】〈26 このようなマニュファクチュアの形成様式のもっと近代的な一例を、次の引用によって示そう。リヨンやニームの絹紡績業や絹織物業は「まったく家長制的である。それはたくさんの女や子供を使用しているが、彼らを過労させたり堕落させたりするようなことはない。それはドゥローム、ヴァール、イゼール、ヴォクリューズの彼らの美しい谷間に彼らを置いたままで、彼らに蚕を飼わせ、繭から糸を紡がせる。それはけっして本式の工場経営にはならない。それにもかかわらず、そのように高度に応用されるためには……ここでは分業の原則は一つの特殊な性格をもっている。そこには糸繰り工も糸撚り工も染色工も糊付け工もいるし、また織物工もいる。だが、彼らは同じ一つの作業場に集められてはいないし、同じ1人の主人に従属してもいない。彼らはみな独立している。」(A・ブランキ『産業経済学講義』、A・ブレーズ編、パリ、1838-1839年、79ページ。)ブランキがこれを書いてからも、いろいろな独立労働者の一部分は工場内に集められた。{第四版へ。--(ニ)そして、マルクスが以上のように書いてからあとで、これらの工場では力織機が採用されて急速に手織機を駆逐した。クレフェルトの絹工業もこれと同じ経験をもっている。--F・エンゲルス}〉(全集第23a巻442頁)
これはパラグラフの最後の一文〈同様に、織物マニュファクチュアやその他の多くのマニュファクチュアも、同じ資本の指揮のもとでのいろいろな手工業の結合から生じたのである(26)〉に付けられた原注です。
ここでは同じような過程を辿ってマニュファクチュアが形成された近代的な一例としてブランキからの引用がなされています。しかしブランキの引用文は、さまざまな手工業者が確かに分業関係にはあるが、しかし分散して仕事をしている様子が描かれているだけのものです。だから〈彼らは同じ一つの作業場に集められてはいないし、同じ1人の主人に従属してもいない。彼らはみな独立している〉と述べているわけです。つまりこれらは一つの作業場に集められる前のある意味では牧歌的な状況を描いているといえるでしょう。だからマルクスは引用のあとに〈ブランキがこれを書いてからも、いろいろな独立労働者の一部分は工場内に集められた〉と補足しているわけです。
後で紹介する『61-63草稿』のブランキからの抜粋ではその前にマルクスは〈ブランキは、前に示唆した箇所で、「大マニュファクチュアの組織のもとに従属した労働者の規制された、そしていわば強制された労働」[13ページ]と、農村住民の手工業的な、または家内副業として営まれている工業とを区別している〉と述べています。そして大マニュファクチュアの一例としては〈ルアンやミュルーズの工業は、広大な建物の中で、資本の力に頼って……真に一軍勢といえるほどの労働者をもって行なわれているものばかりであって、そこでは、兵舎に似た、塔のように高い、銃限のような窓で穴だらけの巨大な工場に、何百、何千もの労働者が閉じ込められている〉と述べ、それと対照的なものとして〈リヨンやニームの工業〉のマルクスが原注で引用しているような牧歌的な描写が行われているのです。だからマルクスが引用しているブランキの一文そのものは〈このようなマニュファクチュアの形成様式のもっと近代的な一例〉とは必ずしもいえないように思えます。
さらにエンゲルスによる第四版への注では、彼らを集めた工場では力織機が採用されて手織機は駆逐されたと述べていますが、〈マルクスが以上のように書いてからあとで〉ということですが、しかしこれはもはや次の「第13章 機械と大工業」に関連するもののように思われます。
すでに指摘しましたように、『61-63草稿』ではブランキの同じ箇所を引用したものがありますので、紹介しておきます。
〈ブランキは、前に示唆した箇所で、「大マニュファクチュアの組織のもとに従属した労働者の規制された、そしていわば強制された労働」[13ページ]と、農村住民の手工業的な、または家内副業として営まれている工業とを区別している。「マニュファクチュアの罪は、……労働者を隷属させ、労働者を……彼と彼の家族を、仕事の意のままにさせるところにある。[118ページ]……たとえば、/ルアンかミュルーズの工業をリヨンかニームの工業と比べてみるがよい。いずれも二つの繊維の、すなわち一方は綿、他方は絹の製糸と織物を目的としている。だが、両者に似たところはまったくない。ルアンやミュルーズの工業は、広大な建物の中で、資本の力に頼って……真に一軍勢といえるほどの労働者をもって行なわれているものばかりであって、そこでは、兵舎に似た、塔のように高い、銃限のような窓で穴だらけの巨大な工場に、何百、何千もの労働者が閉じ込められている。それと対照的に、リヨンやニームの工業は、まったく家父長制的である。それはたくさんの婦人や児童を使用しているが、彼らを疲れ果てさせたり堕落させたりするようなことはない。それはドゥローム、ヴァール、イゼール、ヴォグリューズの彼らの美しい谷間に彼らを置いたままで、彼らに蚕を飼わせ、繭から糸を紡がせる。それはけっして真の工場経営にはならない。この工業でも前者でと同じように分業の原則が守られてはいるが、ここではこの原則は一つの独自な性格を帯びている。そこには糸繰り工も糸撚り工も捺染工も糊付け工もいるし、また織物工もいる。だが、彼らは同じ一つの建物に集められてはいないし、同じ一人の雇主に従属してもいない。彼らはみな独立している。彼らの道具、彼らの織機、彼らのボイラーから成る彼らの資本は、あまり大きいものではないが、しかしそれは、彼らを雇主とある程度まで対等な位置におくには十分なものである。ここには、工場規則も忍従すべき条件もない。各人は、まったく自由に、自分のために契約するのである。」(ブランキ兄『産業経済学講義』、A・プレーズ編注、パリ、1838-1839年、44-80ページの各所。)〉(草稿集④457-548頁)
◎第3パラグラフ(マニュファクチュアはこれとは反対の道でも発生する。同じことまたは同じ種類のことを行なう多数の手工業者が同じ資本によって同じ時に同じ作業場で働かされ、何らかの外部的な事情によって、彼らの労働が分割され、それらの作業を互いに引き離し、孤立させ、空間的に並べ、それぞれの作業を別々の手工業者に割り当て、すべての作業がいっしょに協業者たちによって同時に行なわれるようにする)
【3】〈(イ)しかし、マニュファクチュアはこれとは反対の道でも発生する。(ロ)同じことまたは同じ種類のことを行なう、たとえば紙とか活字とか針とかをつくる多数の手工業者が同じ資本によって同じ時に同じ作業場で働かされる。(ハ)これは、/最も単純な形態の協業である。(ニ)これらの手工業者はそれぞれ(おそらく1人か2人の職人といっしょに) 一つの完全商品をつくっており、したがって、その生産に必要ないろいろな作業を順々にすませてゆく。(ホ)彼は自分の古い手工業的なやり方で労働することを続ける。(ヘ)しかし、やがて外部的な事情が、同じ場所に労働者が集まっていることや彼らが同時に労働することを別のやり方で利用させるようになる。(ト)たとえば、かなり大量の完成商品を一定期問内に供給する必要があるとしよう。(チ)そのために、労働が分割されることになる。(リ)いろいろな作業を同じ手工業者に時間的に順々に行なわせることをやめて、それらの作業を互いに引き離し、孤立させ、空間的に並べ、それぞれの作業を別々の手工業者に割り当て、すべての作業がいっしょに協業者たちによって同時に行なわれるようにする。(ヌ)このような偶然的な分割が繰り返され、その特有な利点を現わし、しだいに組織的な分業に固まってゆく。(ル)商品は、いろいろなことをする1人の独立手工業者の個人的な生産物から、各自がいつでも一つの同じ部分作業だけを行なっている手工業者たちの結合体の社会的な生産物に転化する。(ヲ)ドイツの同職組合的製紙業者が次々に行なってゆく諸作業としては互いに混じり合っていた諸作業が、オランダの製紙マニュファクチュアでは多数の協業労働者が相並んで行なう部分作業に独立化された。(ワ)ニュルンベルクの同職組合的製針業者は、イギリスの製針マニュファクチュアの基本要素になっている。(カ)しかし、ニュルンベルクの製針業者は、おそらく20種にのぼる一連の諸作を1人で次々にやっていたのであるが、イギリスのマニュファクチュアでは、まもなく、20人の製針工が相並んでそれぞれ20種の作業のうちの一つだけを行ない、これらの作業は経験に従ってもっとずっと細分化され分立化されて、各個の労働者の専有機能として独立化されたのである。〉(全集第23a巻442-443頁)
(イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ) しかし、マニュファクチュアはこれとは反対の道でも発生します。同じことかまたは同じ種類のことを行なう手工業者、たとえば紙とか活字とか針とかをつくる多数の手工業者が同じ資本によって同じ時に同じ作業場で働かされます。これはこの限りでは、最も単純な形態の協業です。それぞれの手工業者は(おそらく1人か2人の職人といっしょに) 一つの完全商品をつくっています。だからその生産に必要ないろいろな作業を彼らは順々にすませてゆくわけです。つまり彼は自分の古い手工業的なやり方で労働することを続けるわけです。
先のマニュファクチュアの発生は、一つの商品のさまざまな部分品をそれぞれ独立して生産していた手工業者たちを、一つ工場に集めて一人の資本の指揮のもとに協力して生産して最終的な商品として完成させるようにされることから生まれたものでした。今度は、同じ商品や同じ種類の商品(例えば紙とか活字とか針など)を生産している手工業者たちを、一つの作業場に集めて、資本家の指揮のもとに同じ商品の生産を行うケースです。これだけだと、これは単純な協業でしかありません。それぞれの手工業者はそれ以前と同じように一人か二人の助手を使って各自が生産を行っているわけです。唯一違うのは、彼らは同じ作業場に集められて一緒に生産しているというだけです。
(ヘ)(ト)(チ)(リ) しかし、やがて外部的な事情が、同じ場所に労働者が集まっていることや彼らが同時に労働することを別のやり方で利用させるようにさせます。たとえば、かなり大量の完成商品を一定期問内に供給する必要があるという事情が生じたとしましょう、そうすると、これまでのようにいろいろな作業を同じ手工業者が時間的に順々に行なわせることをやめて、それらの労働を分割して、互いの作業を引き離し、孤立させ、空間的に並べ、その上で、それぞれの作業を別々の手工業者に割り当て、すべての作業がいっしょに協業者たちによって同時に行なわれるようにする方が効率的であることに気づくのです。
しかしこの場合も、やはり外部的な事情が、彼らの協業の形態に変化をもたらします。例えば、かなり大量の商品を一定の期間内に供給する必要があるような事情が生じた場合、個々別々に独立して一つの商品の生産に必要な作業のすべてを一人の人がやっていたのでは、効率が悪いので、彼らの作業を一旦分解して、それぞれの部分作業を各自に割り振りして、そして各自が分担した単純な作業を同時に行うことによって一つの商品を生みだす方が効率的であることに気づきます。
(ヌ)(ル) そしてこのような偶然的な分割が繰り返され、その特有な利点を明らかになり、しだいに組織的な分業に固まってゆきます。商品は、いろいろなことをする1人の独立手工業者の個人的な生産物から、各自がいつでも一つの同じ部分作業だけを行なっている手工業者たちの結合体の社会的な生産物に転化するのです。
こうして最初は偶然的な契機による分割が、繰り返されますと、そうした作業の分割と分担の利点が明らかになり、さらに意識的な分割と組織的な分業が固まってきます。商品はいまやいろいろなことをやる一人の独立手工業者の個人的な生産物から、各人が同じ部分作業だけを行っている手工業者たちの結合体の社会的な生産物になるわけです。
(ヲ)(ワ)(カ) ドイツの同職組合的製紙業者が次々に行なってゆく諸作業としては互いに混じり合っていた諸作業が、オランダの製紙マニュファクチュアでは多数の協業労働者が相並んで行なう部分作業に独立化されました。ニュルンベルクの同職組合的製針業者は、イギリスの製針マニュファクチュアの基本要素になっています。しかし、ニュルンベルクの製針業者は、おそらく20種にのぼる一連の諸作を1人で次々にやっていたのですが、イギリスのマニュファクチュアでは、まもなく、20人の製針工が相並んでそれぞれ20種の作業のうちの一つだけを行ない、これらの作業は経験に従ってもっとずっと細分化され分立化されて、各個の労働者の専有機能として独立化されたのです。
例えばドイツの同職組合による製紙業者たちがそれぞれが次々に行っていた諸作業が、オランダの製紙マニュファクチュアでは、多数の協業労働者が一緒に並んで行う部分作業に独立化されました。マルクスは『61-63草稿』では〈とくに、オランダの製紙工場は、本格的な、非常に発達をとげた本格的なマニュファクチュアであった。部分的に個々の工程では、最初は手動機械(ミューレ)が、それから水力あるいは風力機械(ミューレ)が使用されていた〉(草稿集⑨78頁)とも述べています。
またニュルンベルグの同職組合の製針業者の作業は、イギリスの製針マニュファクチュアが統一して行う作業の基本要素になっています。ニュルンベルグの業者は、20種にものぼる一連の作業を一人で次々とやっていたのですが、イギリスのマニュファクチュアでは、20人の作業員が一緒にならんでそれぞれが20種類の作業のうちの一つだけを行っているわけです。しかもこれらの作業は経験によって、さらに細かく細分化されて分立化されて、それぞれの労働者によって担われ、彼らの専有の機能として独立化されたのです。
((2)に続く。)