『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(1)

2024-03-14 18:15:02 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(1)


◎序章B『資本論』の著述プランと利子・信用論(6)(大谷禎之介著『マルクスの利子生み資本論』全4巻の紹介 №10)

  第1巻の〈序章B 『資本論』の著述プランと利子・信用論〉の第6回目です。〈序章B〉の最後の大項目である〈C 『資本論』における利子と信用〉の〈(1)「資本一般」から「資本の一般的分析」へ〉で、大谷氏は「批判」体系プランから『資本論』へのマルクスの構想の変化を次のように述べています。

   〈『資本論』も,「批判」体系プランの「資本一般」も,どちらも資本に関する「一般的なもの」であるというかぎりでは同一である。しかしその「一般性」の意味は大きく変化した。「資本一般」は,「第1部 資本」のなかの,「多数資本」捨象によって得られた「一般性における資本」を対象とする,体系の最初の構成部分であって,続く「競争」(特殊性),「信用」(個別性)へと上昇していってはじめて「資本」の具体的な現象形態に辿り着くことができるものであった。したがって,「資本一般」を締めくくるべき「資本と利子」もきわめて抽象的なものにとどまらざるをえなかった。それはいわば,いまだ,現象から分離された本質の段階にとどまるものであった。「資本一般」の「一般性」は,対象を厳しく「一般的なもの」に限定するという意味でのそれであったのである。
    これにたいして『資本論』の「一般性」は,その研究,分析,叙述が,つまりその認識が一般的なものだ,という意味でのそれである。すなわち,『資本論』は「資本主義的生産の一般的研究」〔63〕,「資本の一般的分析」〔64〕,「資本主義的生産様式の内的編制のその理想的平均における叙述 」〔65〕であり,したがって特殊研究,個別的分析,動態における叙述,等々と区別されるものである。かかるものとしての『資本論』は,それ自体として資本についての一般的認識を完結しなければならない。それは「批判」体系プランの出発点たる「序説」プランに立ち戻って言えば,「ブルジョア社会の内的編制を形づくり,また基本的諸階級の基礎となっている諸範疇」の分析を一般的に完了することである。そのためには,「多数資本」捨象によって対象を限定するという方法を捨て,かつて「競争と信用」,さらに「土地所有」と「賃労働」とに予定されていた諸対象のなかから,資本主義的生産の内在的諸法則の一般的な現象諸形態,あるいは一般的なものを表わすかぎりでの具体的な諸形態をなすものを取り入れなければならなかった。ここで重要なことは,対象をきびしく「一般的なもの」に限定することではなくて,「一般的研究」として遺漏なきを期すことであった。〉(101頁、下線は大谷氏による傍点による強調箇所)

    『経済学批判』体系プランのいわゆる「6部構成」(資本・土地所有・賃労働・国家・対外商業・世界市場)の最初の「資本」の構成である「一般・特殊・個別」の最初の「資本一般」というのは、その論理的な構成から考えて、何となく分かりますが、大谷氏のいう〈『資本論』の「一般性」〉というのは、やや分かりにくい気がします。果たして、マルクスは当初のプランをどのように変えて、『資本論』として最終的に結実させたのでしょうか。『資本論』には6部構成の前半体系(資本・土地所有・賃労働)がほぼ含まれているように思えます。もっとも『資本論』そのものはやはり未完成ですし、はっきりした像を結ぶまでには完成していないという面もありますが。しかし『資本論』を読んでゆきますと、いろいろなところでマルクスは対象を制限して特殊研究や具体的なものを後のものとして残すという文言が目に入ります。しかしそれが必ずしも6部構成の後半体系(国家・対外商業・世界市場)を意味しているようには見えないものがほとんどです。
    他方で、すでに見ましたように(No.39(通算第89回)(1))、マルクスはすでに『要綱』の段階で、後に『資本論』の第1部・第2部と区別される第3部の位置づけを明確に持っていたようにも思えます。マルクスはその時点ではそれを「競争」と述べていましたが。
    『資本論』の第1部や第2部は資本主義的生産様式の内在的諸法則をそれ自体として問題にし、その限りで〈資本主義的生産様式の内的編制のその理想的平均における叙述 〉といえるものです。宇野弘蔵は「純粋資本主義」なるものを『資本論』から読み取ったのですが、その意味では第1部・第2部は、諸法則をそれ自体として論じているという意味では「純粋」なものと言えるでしょう。しかし第3部はそれに対して、その内在的な諸法則が転倒してブルジョア社会の表面に具体的に現れている諸現象を論じるものとしています(宇野はだからそこに「不純」を見るのですが)。
    もっともこうした第3部が対象とするものも、資本主義的生産様式のやはり「一般的なもの」であると言えるのかもしれません。というのは、マルクスは第5篇(章)の「5)信用。架空資本」の冒頭、〈信用制度とそれが自分のため/につくりだす,信用貨幣などのような諸用具との分析は,われわれの計画の範囲外にある。ここではただ,資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点をはっきりさせるだけでよい。そのさいわれわれはただ商業信用だけを取り扱う。この信用の発展と公信用の発展との関連は考察しないでおく〉(大谷本第2巻157-158頁)と、分析の対象を狭く限定し、それは〈資本主義的生産様式一般〉を特徴づけるものだけで十分だからだというものです(ここで「公信用」を排除しているのは後半体系の問題だからと言えなくもないです)。

    大谷氏も続けて第3部の位置づけにも次のような変化があったと述べています。

  〈3部分からなる点で旧「資本一般」と同じである『資本論』(「理論的部分」)のどの部についても,この転換の結果を各所に見ることができるが,それを最も明確に示すのは,「3。資本と利潤」から「第3部 総過程の諸形象化〔Gestaltungen〕」25)への変化である。マルクスは第3部第1稿の冒頭にこの表題を記したうえで,その直後に,この部の課題は「全体として考察された資本の過程」,すなわち生産過程と流通過程との統一「から生じてくる具体的諸形態を見つけだして叙述すること」,すなわち「資本の諸形象化」を「展開する」ことであるとした〔70〕。すなわち,「諸資本の現実的運動」そのものは範囲外であるとしても,「諸資本の現実的運動のなかで諸資本が現象するさいの具体的諸形態」を明らかにすることによって,「資本の一般的分析」を完成させ,かくして「諸資本の現実的運動」を叙述するための確固たる土台を置こうとしたのである。その結果,利子生み資本も,もはや「利潤をもたらす資本の純粋に抽象的な形態」であるがゆえに,またそうした観点でのみ論じられるのではなくて,それ自体資本の一つの特殊的形態として取り上げられ,しかもわれわれの表象に直接に与えられている,信用制度のもとでの貨幣資本という「具体的姿態」にまで,この「資本の形象化が展開」されることになったのであった。〉(101-102頁)

    ただ確かにこうした変化はあったのは事実ですが、しかしマルクスはすでに見ましたように、『要綱』の段階でも後の『資本論』の第3部として位置づけるものを明確に持っていたということも指摘しておく必要があります。
    上記の大谷氏の一文で少し気になったのは、〈「諸資本の現実的運動」そのものは範囲外であるとしても,「諸資本の現実的運動のなかで諸資本が現象するさいの具体的諸形態」を明らかにすることによって,「資本の一般的分析」を完成させ,かくして「諸資本の現実的運動」を叙述するための確固たる土台を置こうとしたのである。〉という部分です。ここで〈「諸資本の現実的運動」そのものは範囲外であるとしても〉というのは、大谷氏が追加して述べていることですが、マルクス自身は、第3部の冒頭部分ではこうしたことは述べていません。その一文については大谷氏が章末注〔70〕で紹介していますので、確認のために重引しておきましょう。

   〈〔70〕「すでにみたように,生産過程は,全体として考察すれば,生産過程と流通過程との統一である。このことは,流通過程を再生産過程として考察したさいに……詳しく論じた。この部で問題になるのは,この「統一」についてあれこれと一般的反省を行なうことではありえない。問題はむしろ,資本の過程から--それが全体として考察されたときに--生じてくる具体的諸形態を見つけだして叙述することである。{諸資本の現実的運動においては,諸資本は次のような具体的諸形態で,すなわち,それらにとっては直接的生産過程における資本の姿態〔Gestalt〕も流通過程における資本の姿態〔Gestalt〕もただ特殊的諸契機として現われるにすぎない,そのような具体的諸形態で対し合う。だから,われわれがこの部で展開する資本のもろもろの形象化〔Gestaltungen〕は,それらが社会の表面で,生産当事者たち自身の日常の意識のなかで,そして最後に,さまざまの資本の相互にたいする競争のなかで生じるときの形態に,一歩一歩近づいていくのである。}」(『資本論』第3部第1稿。MEGAII/4.2S7,〔現行版対応箇所:MEW25,S.33,〕)〉(137頁)

 少なくともここには〈「諸資本の現実的運動」そのものは範囲外である〉というような文言は見られません。むしろ第3部で対象にするのは「諸資本の現実的運動」だと述べているように思えます。この文章から、次のようなことが分かってきます。

・〈全体として考察された〉〈資本の過程から……生じてくる具体的諸形態〉=〈諸資本の現実的運動〉=〈資本のもろもろの形象化
・〈資本のもろもろの形象化〉の展開は、〈それらが社会の表面で,生産当事者たち自身の日常の意識のなかで,そして最後に,さまざまの資本の相互にたいする競争のなかで生じるときの形態に,一歩一歩近づいていく

    これはまさにマルクスが『要綱』において、〈競争の基本法則〉と述べていた内容ではないでしょうか。少なくとも大谷氏が主張している〈『資本論』の「一般性」〉においては第1部・第2部と第3部との区別が分かりにくいものになっているような気がします。
    とりあえず、今回はこれぐらいにしておきます。それでは本論に入ります。今回は「第3篇 絶対的剰余価値の生産」の最後にある「第9章 剰余価値率と剰余価値量」です。まず第9章の位置づけから見てゆきましょう。

 

第9章 剰余価値率と剰余価値量

 

◎「第9章 剰余価値率と剰余価値量」の位置づけ

    この第9章は「第3篇 絶対的剰余価値の生産」の最後に位置します。つまり「絶対的剰余価値の生産」を締めくくるとともに、「第4篇 相対的剰余価値の生産」への移行を担うものといえるでしょう。
    同じような位置づけを持っているものとして、私たちはすでに「第2章 交換過程」(商品の貨幣への転化)や「第4章 貨幣の資本への転化」を知っています。第2章が新日本新書版で15頁と短かったのですが、同じように第9章も15頁しかありません。
    以前、第2篇「貨幣の資本への転化」から第3篇「絶対的剰余価値の生産」への移行において、ここから「第1部 資本の生産過程」の本題に入るわけですが、それがどうして「絶対的剰余価値の生産」になっているのかについて、それは資本の生産過程というのは剰余価値の生産過程だからであり、剰余価値の生産には絶対的剰余価値の生産と相対的剰余価値の生産とがあること、《絶対的なものはとにかく長時間労働を強いて搾り取るか、あるいはきつい労働をやらせて搾り取るやりかたです。もう一つの相対的な搾取のやり方は、もっとスマートなやり方ですが、それは資本の生産力を高めて労働力の価値そのものを引き下げて、剰余労働を増やすやり方なのです。歴史的には最初の絶対的な搾取のやり方は資本がまだ労働力を雇い入れてそのまま使用して剰余価値を得るやり方ですが、後者の方法は資本がもっと発展して生産様式そのものを資本の生産にあったものに変革するなかで、行われるものです》と説明しました。
    そして「第8章 労働日」をそれに先行する第5章や第6章、第7章と対比して次のように説明しました。

    《だから第8章「労働日」は絶対的剰余価値の生産の本論ともいえるものでしょう。それまでの第3篇の第5章や第6章や第7章は、生産過程やそこで生み出される剰余価値の一般的な条件の考察であり、『資本論』全3部の基礎になるものでした。それに対して第8章はそれらを踏まえて、絶対的剰余価値の生産そのものを問題にするところと言えるのではないでしょうか。》

    第8章では標準労働日をめぐる資本家階級と労働者階級との闘いによって1労働日に制限が加えられ、10時間労働日とか8時間労働日が歴史的に法的に規制されたことが明らかにされました。つまり労働日を絶対的に延長して剰余価値を拡大しようとする資本の飽くなき欲望は、標準労働日の確立によって、法的・社会的限界に突き当たったのです。だから資本に残された剰余労働を拡大する方法は、今度は1労働日のうちの必要労働時間を可能な限り縮減して、剰余労働時間を拡大するしかないことになります。それが次の「第4篇 相対的剰余価値の生産」になるわけです。
   この第9章はそれへの移行を担うものです。 つまり「第3篇 絶対的剰余価値の生産」の締めくくる位置にあります。
    だからこの第9章は主に二つの部分に分かれています。前半は、表題にある「剰余価値率と剰余価値量」が問題になっています。剰余価値生産の絶対的形態では、剰余価値の増大を図るためには剰余価値率(搾取度)を引き上げ、搾取する労働者の人数を増やすしかありませんが、しかしそれには自ずから限界があることが示されます。そのあと横線を引いて、マルクスは第3篇全体のまとめをやっています。
    それでは具体的にパラグラフごとに見てゆくことにしましょう。


◎第1パラグラフ(これまでと同じように、この章でも労働力の価値は不変な量として想定される)

【1】〈(イ)これまでと同じに、この章でも労働力の価値、つまり労働日のうち労働力の再生産または維持に必要な部分は、与えられた不変な量として想定される。〉(全集第23a巻399頁)

  (イ) これまでと同じように、この章でも労働力の価値、つまり労働日のうち労働力の再生産または維持に必要な部分は、与えられた不変な量として想定されます。

   〈労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されている。……労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。言い換えれば、労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である〉と第2篇第4章第3節で述べられていました。また第8章の冒頭、〈われわれは、労働力がその価値どおりに売買されるという前提から出発した。労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、その生産に必要な労働時間によって規定される。だから、もし労働者の平均1日の生活手段の生産に6時間が必要ならば、彼は、自分の労働力を毎日生産するためには、または自分の労働力を売って受け取る価値を再生産するためには、平均して1日に6時間労働しなければならない。この場合には彼の労働日の必要部分は6時間であり、したがって、ほかの事情が変わらないかぎり、一つの与えられた量である〉とありました。
    この章でも同じように労働力の価値は、一つの与えられた量として、不変なものとして想定されるということです。絶対的剰余価値の生産では必要労働時間(そして同じことを意味しますが生産力)は一つの与えられたものとして前提して、その上で、剰余労働時間を増大させるために、1日の労働時間を絶対的に拡大しようとすることでした。だから絶対的剰余価値の生産では労働力の価値は不変な量として想定されていたのです。次の相対的剰余価値の生産では、今度は労働力の価値、よって必要労働時間(同じように生産力)そのものが可変量として捉えられることになります。
 『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

   〈われわれは、絶対的剰余価値および相対的剰余価値という二つの形態を切り離して考察したが、……この二つの形態を切り離すことによって、労賃と剰余価値との関係におけるもろもろの違いが明らかになるのである。生産力の発展が所与であれば、剰余価値はつねに絶対的剰余価値として現われるのであって、とりわけ剰余価値の変動は、ただ総労働日の変化によってのみ可能である。労働日が所与のものとして前提されれば、剰余価値の発展は、ただ相対的剰余価値の発展としてのみ、すなわち生産力の発展によってのみ可能である。〉(草稿集⑨367頁)


◎第2パラグラフ(労働力の価値が与えられれば、剰余価値率が、個々の労働者によって生産される剰余価値量を規定する。)

【2】〈(イ)このように前提すれば、剰余価値率と同時に、1人の労働者が一定の時間内に資本家に引き渡す剰余価値量も与えられている。(ロ)たとえば必要労働は1日に6時間で、それが3シリング 1ターレルの金量で表わされるとすれば、1ターレルは、1個の労働力の日価値、または1個の労働力の買い入れに前貸しされる資本価値である。(ハ)さらに、剰余価値率を100%とすれば、この1ターレルの可変資本は1ターレルの剰余価値量を生産する。(ニ)言い換えれば、労働者は1日に6時間の剰余労働量を引き渡す。〉(全集第23a巻399頁)

    このパラグラフそのものは何も難しいことはありませんが、フランス語版では全体にかなり書き換えられています。よって最初にフランス語版をまず紹介しておきましょう。

  〈1平均労働力の日価値が3シリングあるいは1エキュであって、これを再生産するために1日に6時間が必要であると想定しよう。資本家は、このような1労働力を買うために1エキュを前貸ししなければならない。この1エキュは資本家にどれだけの剰余価値をもたらすであろうか? それは剰余価値率に依存している。剰余価値率が50%であれば、剰余価値は3時間の剰余労働を代表する半エキュであろうし、100% であれば、6時間の剰余労働を代表する1エキュに上がるだろう。こうして、労働力の価値が与えられれば、剰余価値率が、個々の労働者によって生産される剰余価値量を規定する。〉(江夏・上杉訳313頁)

  (イ) このように前提しますと、剰余価値率と同時に、1人の労働者が一定の時間内に資本家に引き渡す剰余価値量も与えられています。

    必要労働時間、つまり労働力の価値が一定の与えられた量として前提されますと、剰余価値率=剰余労働時間÷必要労働時間 →剰余労働時間=必要労働時間×剰余価値率 となりますから、剰余価値率が決まってくれば、同時に剰余労働時間、すなわち一定の時間内に労働者が資本家に引き渡す剰余価値量も決まってくることになります。

  (ロ) たとえば必要労働は1日に6時間で、それが3シリング=1ターレルの金量で表わされるとしますと、1ターレルは、1個の労働力の日価値、または1個の労働力の買い入れに前貸しされる資本価値です。

    具体例を入れて考えますと、必要労働時間は1日6時間で、3シリング=1ターレルの金量で表されるとしますと、1ターレルは、1個の労働力の日価値、または1個の労働力の買い入れに前貸しされる資本価値、つまり可変資本量です。

  (ハ)(ニ) さらに、剰余価値率を100%としますと、この1ターレルの可変資本は1ターレルの剰余価値量を生産します。言い換えますと、労働者は1日に6時間の剰余労働量を引き渡すことになります。

    そして剰余価値率を100%としますと、1ターレルの可変資本は1ターレルの剰余価値を生産します。言い換えますと、労働者は1日に6時間の剰余労働量を資本家に引き渡します。


◎第3パラグラフ(可変資本の価値は、1個の労働力の平均価値に使用労働力の数を掛けたものに等しい)

【3】〈(イ)しかし、可変資本は、資本家が同時に使用するすべての労働力の総価値を表わす貨幣表現である。(ロ)だから、可変資本の価値は、1個の労働力の平均価値に使用労働力の数を掛けたものに等しい。(ハ)したがって、労働力の価値が与えられていれば、可変資本の大きさは、同時に使用される労働者の数に正比例する。(ニ)そこで、1個の労働力の日価値が1ターレルならば、毎日100個の労働力を搾取するためには100ターレルの、n個の労働力を搾取するためにはnターレルの資本を前貸ししなければならない。〉(全集第23a巻399頁)

  (イ)(ロ) しかし、可変資本は、資本家が同時に使用するすべての労働力の総価値を表わす貨幣表現です。ですから、可変資本の価値は、1個の労働力の平均価値に使用労働力の数を掛けたものに等しいことになります。

    ところで、可変資本というのは、一人の資本家が彼が雇ったすべての労働力の総価値の貨幣表現です。ですから、可変資本の価値というのは、一人の労働力の平均的な価値に、使用する労働力の数を掛けたものになります。すなわち 可変資本量=1個の労働力の平均価値×使用される労働力の数 となります。

  (ハ) だから、労働力の価値が与えられていますと、可変資本の大きさは、同時に使用される労働者の数に正比例します。

    だから想定のように、労働力の価値が与えられたものとしますと、可変資本の大きさは同時に使用される労働者の数に正比例します。上記の等式で 1個の労働力の平均価値 を不変量すれば、このことは一目瞭然です。

  (ニ) ということは、1個の労働力の日価値が1ターレルとしますと、毎日100個の労働力を搾取するためには100ターレルの、n個の労働力を搾取するためにはnターレルの資本を前貸ししなければなりません。

    具体的な数値をあてはめますと、1個の労働力の日価値が1ターレルとし、毎日100個のろ労働力を使用するとしますと、100ターレルの可変資本が必要になります。同じようにn個の労働力を搾取するためには、nターレルの資本を前貸しする必要があるということです。


◎第4パラグラフ(第一の法則:生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しい。)

【4】〈(イ)同様に、1ターレルの可変資本、すなわち1個の労働力の日価値が毎日1ターレルの剰余価値を生産するとすれば、100ターレルの可変資本は毎日100ターレルの剰余価値を、nターレルの可変資本は毎日1ターレルのn/倍の剰余価値を生産する。(ロ)したがって、生産される剰余価値の量は、1人の労働者の1労働日が引き渡す剰余価値に充用労働者数を掛けたものに等しい。(ハ)しかし、さらに、1人の労働者が生産する剰余価値量は、労働力の価値が与えられていれば、剰余価値率によって規定されているのだから、そこで次のような第一の法則が出てくる。(ニ)生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しい。(ホ)言い換えれば、それは、同じ資本家によって同時に搾取される労働力の数と1個1個の労働力の搾取度との複比によって規定されている。*
  * (ヘ)著者校閲のフランス語版では、この命題の第二の部分は次のように訳されている。(ト)「言い換えれば、まさしくそれは、1個の労働力の価値にその搾取度を掛け、さらに同じ時に充用される労働力の数を掛けたものに等しい。」〉(全集第23a巻399-400頁)

    このパラグラフもフランス語版ではやや書き換えられており、全集版にはない原注(1)も付いていますので、最初にフランス語版を紹介しておきましょう。

 〈同様に、1労働力の価格である1エキュが1エキュの日々の剰余価値を生産すれば、100エキュの可変資本は100エキュの剰余価値を生産し、nエキュの資本は 1エキュ×n の剰余価値を生産するであろう。したがって、可変資本が生産する剰余価値量は、可変資本から支払いを受ける労働者の数に個々の労働者が1日にもたらす剰余価値量を乗/じたもの、によって規定される。そして、個々の労働力の価値が知られていれば、剰余価値量は剰余価値率、換言すれば労働者の必要労働にたいする剰余労働の比率、に依存している(1)。したがって、次のような法則が得られる。可変資本によって生産される剰余価値の量は、この前貸資本の価値に剰余価値率を乗じたものに等しく、あるいは、1労働力の価値にその搾取度を乗じ、さらに、同時に使用される労働力の数を乗じたもの、に等しい。

  (1) 本文では、1平均労働力の価値が一定であるばかりでなく、1資本家に使われているすべての労働者が平均労働力にほかならないことが、依然として想定されている。生産される剰余価値が搾取される労働者の数に比例して増加せず、そのさい労働力の価値が一定ではない、という例外的なばあいもある。〉(江夏・上杉訳313-314頁)

  (イ) 同じように、1ターレルの可変資本、つまり1個の労働力の日価値が毎日1ターレルの剰余価値を生産するとしますと、100ターレルの可変資本は毎日100ターレルの剰余価値を、nターレルの可変資本は毎日1ターレルのn倍の剰余価値を生産することになります。

    1ターレルの可変資本、すなわち1個の労働力の日価値が1ターレルで、毎日1ターレルの剰余価値を生産するとしますと(つまり剰余価値率は100%)、可変資本が100ターレルであれば、毎日100ターレルの剰余価値を生産します。そして可変資本がnターレルであれば、毎日1ターレル×nの剰余価値を生産することになります。

  (ロ) ということは、生産される剰余価値の量は、1人の労働者の1労働日が引き渡す剰余価値の量に充用労働者数を掛けたものに等しいことになります。

    つまり生産される剰余価値量は、1人の労働者が1日の労働で引き渡す剰余価値の量に充用労働者数を掛けたものに等しいということです。すなわち 生産される剰余価値量=1人の労働者が1日に生産する剰余価値量×充用労働者数

  (ハ)(ニ) しかし、さらにいえることは、1人の労働者が生産する剰余価値量は、労働力の価値が与えられていますと、剰余価値率によって規定されているのですから、そこから次のような第一の法則が出てきます。すなわち生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しいということです。

    さらに言えますことは、1人の労働者が生産する剰余価値量は、労働力の価値が与えられていますと、剰余価値率によって規定されていますから、生産される剰余価値の量は、前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しいという結論が出てきます。

    第一の法則; 生産される剰余価値量=前貸しされる可変資本の量×剰余価値率

    剰余価値率=剰余労働÷必要労働=剰余価値÷可変資本 ですから上記の式の剰余価値率に剰余価値÷可変資本を挿入しますと 前貸しされる可変資本の量×剰余価値率=前貸しされる可変資本×剰余価値÷可変資本となり、=剰余価値 になります。

  (ホ) これを言い換えますと、それは、同じ資本家によって同時に搾取される労働力の数と1個1個の労働力の搾取度との複比によって規定されているということです。

    これを言い換えますと(フランス語版にもとづき)、1個の労働力の価値に剰余価値率を掛けて、さらにそれに同時に使用される労働者数をかけたものに等しいということです。

    第一の法則; 生産される剰余価値量=前貸しされる可変資本の量×剰余価値率

 に 前貸しされる可変資本の量=1個の労働力の価値×労働者数 を挿入しますと

   生産される剰余価値量=1個の労働力の価値×労働者数×剰余価値率=1個の労働力の価値×剰余価値率×労働者数

  になるということです。

    なおフランス語版の原注(1)は全集版の次の第5パラグラフの最後に書かれているものとほぼ同じです。その代わりにフランス語版では第5パラグラフのその最後の一文が抜け落ちています。つまりマルクスは第2版をフランス語版として校訂する時に、第5パラグラフの最後の部分を第4パラグラフの原注にしたということです。


◎第5パラグラフ(第一の法則の数式による表現)

【5】〈(イ)そこで、剰余価値量をMとし、1人の労働者が平均して1日に引き渡す剰余価値をmとし、1個の労働力の買い入れに毎日前貸しされる可変資本をvとし、可変資本の総額をVとし、平均労働力1個の価値をkとし、その搾取度をa'/a(剰余労働/必要労働)とし、充用労働者数をnとすれば、

    m/v×V
  M ={
       k×a'/a×n

となる。(ロ)平均労働力1個の価値が不変だということだけではなく、1人の資本家によって充用される労働者たちが平均労働者に還元されているということも、引き続き想定される。(ハ)生産される剰余価値が搾取される労働者の数に比例しては増大しないという例外の場合もあるが、その場合には労働力の価値も不変のままではない。〉(全集第23a巻400頁)

  (イ) そこで、剃余価値量をMとし、1人の労働者が平均して1日に引き渡す剰余価値をmとし、1個の労働力の買い入れに毎日前貸しされる可変資本をvとし、可変資本の総額をVとし、平均労働力1個の価値をkとし、その搾取度をa'/a(剰余労働/必要労働)とし、充用労働者数をnとしますと、

  M=m/v×V あるいは
  M=k×a'/a×n

 となります。

    M=m/v×V というのは m/v は剰余価値率のことですから、m/v×V というのは前貸しされる可変資本総額に剰余価値率をかけたもであり、それが生産される剰余価値量になるわけですから、これは第一の法則そのものです。
    M=k×a'/a×n というのは 1個の労働力の価値×搾取度(剰余価値率)×労働者数となりますから、これは第4パラグラフにある第一の法則を言い換えたものです。
    なおついでに述べておきますと、このパラグラフは初版にはありません。第2版から新たに加えられたパラグラフです。

  (ロ) ここでは平均均労働力1個の価値が不変だということだけではなくて、1人の資本家によって充用される労働者たちが平均労働者に還元されているということも、引き続き想定されてます。

    これ以下はフランス語版の第4パラグラフの原注としてあるものと同じです。
    依然として1個の平均労働力の価値は不変で、1人の資本家が使用する労働者たちは平均労働力に還元されているこということが想定されているということです。

  (ハ) 生産される剰余価値が搾取される労働者の数に比例しては増大しないという例外の場合もありますが、その場合には労働力の価値も不変のままではありません。

    ただ例外的な場合として、生産される剰余価値が搾取される労働者数に比例しない場合もあるということです。ただその場合には労働力の価値も不変なままではなく、労働者も平均労働力に還元されているとはいえず、変化していることが想定されるということです。これは例えば複雑労働などを増やす場合にはそうしたことが言えます。

   ((2)に続く。)

 

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