『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第45回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

2012-05-14 10:34:12 | 『資本論』

第45回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

 

◎注39

 第2パラグラフには、注がついています。それも一応紹介しておきましょう

 【注39】〈(39) 「なぜなら、どの物の用途も二通りあるからである。--一方は物としての物に固有であり、他方はそうではない。たとえば、靴には、靴としてはくという用途と交換されうるという用途とがある。両方とも靴の使用価値である。なぜなら、靴を、自分にないもの、たとえば食物と交換する人でも、やはり靴を靴として用いているからである。もっとも、これは靴の本来の用法ではない。なぜなら、靴は交換のために存在しているのではないからである」(アリストテレス『政治学』、第一巻、第九章〔山本光雄訳、『アリストテレス全集』15、岩波書店、二三ページ。同訳、岩波文庫、五一~五二ページ〕)。〉

 この注は特に解読の必要はないと思いますが、ほぼ同じような注は『経済学批判』では冒頭の〈一見したところでは、ブルジョア的富は一つの巨大な商品の集まりとして現われ、一つ一つの商品はその富の基本的定在として現われる。ところがそれぞれの商品は、使用価値交換価値という二重の観点のもとに自己をあらわしている〔*〕〉(同前13頁)に付けられています(引用文の最後に〈他の物についても同じことが言える。〉という一文が付け加わっている)。そして先に紹介した一文--〈商品は、使用価値、小麦、リンネル、ダイヤモンド、機械等々であるが、しかし商品としては、同時にまた使用価値でない。もしそれがその所有者にとって使用価値であるならば、すなわち直接に彼自身の欲望を満足させるための手段であるならば、それは商品ではないであろう。彼にとっては、それはむしろ非使用価値であり、すなわち、交換価値のたんなる素材的な担い手、またはたんなる交換手段である。交換価値の能動的な担い手として、使用価値は交換手段となる。その所有者にとっては、商品は交換価値としてだけ使用価値なのである〔*〕〉に付けられている注では、この冒頭の注を参照するように指示して、〈アリストテレス……が交換価値を把握したのは、この規定性においてである〉と指摘しています。

◎第3パラグラフ

 【3】〈(イ)他面では、諸商品は、自分を価値として実現しうる前に、自分が使用価値であることを実証しなければならない。(ロ)というのは、諸商品に支出された人間労働が、それとして認められるのは、この労働が他人にとって有用な形態で支出された場合に限られるからである。(ハ)ところが、その労働が他人にとって有用であるかどうか、したがってその生産物が他人の欲求を満足させるかどうかは、ただ諸商品の交換だけが証明できることである。〉

(イ)(ロ)
 他方では、諸商品は、自分たちを価値として実現しうる前に、自分たちが使用価値であることを実証しなければなりません。というのは、諸商品に支出された人間労働が、そういうものとして認められるのは、それらの労働が他人にとって有用な形態で支出された場合に限られるからです。

 ここで〈それとして認められる〉というところは、初版では〈数のなかにはいる〉となっています。またフランス語版では〈それが他人に有用な形態のもとで支出されるかぎりでしか、計算に入らないからである〉となっています。だから商品に支出された人間労働が、社会の総労働量の一部分として、社会的・平均的に必要な量だけ支出される限りで、それが価値として認められるのであり、それは価値として他の諸商品と関係することが出来るのだということではないかと思います。

 またここで〈使用価値であることを実証しなければならない〉というのは、先に出てきた〈使用価値として実現〉するということと、同じだと思います。というのは、〈使用価値であることを実証〉するとは、〈この労働が他人にとって有用な形態で支出された場合に限られる〉とも述べているように、社会的使用価値であることを実証するということと同義だからです。つまり社会的な分業の総体の一分肢であることを示すことだと思います。

 (ハ)ところが、この労働が他人にとって有用であるか、だからその生産物が他人の欲求を満足させうるかどうかは、ただ諸商品の交換だけが証明できることなのです。

 このパラグラフの場合も、その理解に役立つと思える『経済学批判』の一文を紹介しておきましょう。

 〈個々の商品は、使用価値の観点のもとでは、本来独立した物として現われたが、これに反して交換価値としては、はじめから他のすべての商品との関係で考察された。けれどもこの関係は、ただ理論的な、思考上の一関係にすぎなかった。この関係が実際に証明されるのは、ただ交換過程においてだけである。他方では、たしかに商品は、一定量の労働時間がそれについやされており、したがってそれが対象化された労働時間であるかぎり、交換価値である。しかしそれは、直接そのままでは、特殊な内容の対象化された個人的労働時間であるにすぎず、一般的労働時間ではない。だからそれは、直接ものままでは交換価値ではなく、これからそれにならなければならない。まず商品は、一定の有用なしかたで用いられた、したがってある使用価値にふくまれた労働時間をあらわすかぎりでだけ、一般的労働時間の対象化でありうる。商品にふくまれた労働時間が、一般的社会的労働時間として前提されたのは、こういう素材的条件のもとだけであった。だから商品は、交換価値として実現されることによってはじめて使用価値として生成しうるのだが、他方ではその外化において使用価値としての実を示すことによってはじめて交換価値として実現されうるのである。〉(前掲28頁)

 さて、この第2、第3パラグラフで分析されている交換過程の矛盾をどのように理解したらよいのでしょうか。ここでは、以前、大阪で行っていた「『資本論』を学ぶ会」のニュースから、それについて論じた部分を紹介しておくことにします。

 〈マルクスが最初に問題にしている矛盾とは、「諸商品は、みずからを使用価値として実現しうるまえに、価値として実現しなければならない」ということと「価値として実現しうるまえに、みずからが使用価値であることを実証しなければならない」ということです。つまり使用価値も交換価値もその実現のためには相手の実現を前提し合う関係にあるということです。ということは現実には商品交換は不可能だということになります。『経済学批判』ではマルクスはこれを「悪循環」とも述べています。

 問題はこれはいったいどういう現実を言っているのだろうか、ということです。しかしこれはそれほど難しいことではなくて、現実の生産物の物々交換(つまり貨幣がまだ現われていない交換)を想定してみれば分かります。私が魚をとって市場で野菜と交換したいと考えても、たまたま野菜を市場に持って来ている人が、魚をほしがっているならば交換可能ですが、そうでなければ交換できません。両者の欲求が一致するのはまったく偶然であって、実際にはなかなか一致せず、だから交換も出来ないのです。マルクスが明らかにしている矛盾はまさにこうした現実を示しているのではないでしょうか。

 交換過程を問題にするときには、商品は使用価値と価値の統一物であり、商品所有者の欲求が分析の対象にならなければなりません。だからまたこうした矛盾が生じるのです。第一章では20エレのリンネルは上着一着と交換されましたが、しかし等価形態に上着が来るか、鉄がくるかコーヒーが来るかは問題ではありませんでした。それは何でも良かったのです。というのは第一章では商品が交換されている現実を前提にしてそれを直接分析の対象にしていたからであって、そこでは商品所有者も彼の欲望も捨象されて問題にはされなかったからです。しかし第二章では商品交換はより具体的に分析され、商品は現実の商品としていわば運動するものとしてとらえられているともいえます。〉(「学ぶ会ニュース」No.27)

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【付属資料】

●表題

《初版本文》

 〈「諸商品の交換過程」〉

《フランス語版》

 〈「諸交換について」〉

●第1パラグラフ

《初版本文》

 〈諸商品は、自分たち自身で市場に行くととができないし、自分たち自身を交換しあうこともできない。だから、われわれは、それらの番人である商品所持者たちを探し出さなければならない。諸商品は、物であり、したがって人間にたいしては無抵抗である。それらが従順でなければ、人聞は暴力を用いることができる。言い換えれば、それらをっかまえることができる(32)。これらの物を商品として互いに関係させるためには、商品の番人たちは、自分たちの意志がこれらの物においてある存在をもつところの諸個人として、互いに関係しあわなければならない。したがって、各人は、自分の意志と他人の意志とをもってのみ、つまり、双方が共通の意志をもってのみ、自分たちの商品を譲渡することによって他人の商品を取得しなければならず、そしてまた、他人の商品を取得するためには自分の商品を譲渡しなければならない。だから、彼らは互いに、私的所有者として認めあわなければならない。法的に表示されていようといまいと契約という形式をとる、この法的関係は、経済的関係がそのなかに反映しているところの意志関係にほかならない。この法的関係または意志関係内容は、経済的関係そのものによって与えられている(38)。諸個人は、ここでは、自分たちがなんらかの諸物を商品として互いに関係させることによって、互いに関係しあっているにすぎない。だから、この関係のあらゆる規定は、商品としての物の規定のなかに含まれている。ここでは、一方の人は、他方の人にたいし、商品の代表者として、したがって商品所持者として、存在しているにすぎない。叙述が進むにつれて、諸個人の経済的な諸扮装は経済的な諸関係の擬人化にすぎず、彼らはこれらの関係の担い手として互いに相対しているということを、われわれは一般的に見いだすであろう。〉(江夏他訳70頁)

《フランス語版》

 〈諸商品はけっして自分たち自身で市場に行くこともできないし、自分たち自身を互いに交換しあうこともできない。したがって、われわれは商品の保管者や監督者、すなわち商品の所有者のほうに眼を向けなければならない。商品は物であり、したがって、人間に少しも抵抗できない。もし商品に善意がなければ、人間は暴力を用いることができる、換言すれば、商品をとらえることができる(1)。これらの物を商品として互いに関係させるためには、その保管者たち自身が、これらの物自体のうちに意志を宿す人として、互いに関係しあわなければならず、したがって、一方の意志は他方の意志でもあり、個々の保管者は共通の意志行為によって、自分の商品を手ばなして他人の商品をわがものにすることになる。だから、彼らは互いに私有者として認めあわなければならない。合法的に結ばれようとそうでなかろうと、契約という形式をとるこの法的関係は、経済的関係を反映する意志関係にほかならない。その内容は、経済的関係そのものによって与えられている(2)。人々はここでは、数々の物を商品として互いに関係させるかぎりでのみ、互いに関わりあっているのである。人々が互いに相手として存在するのは、彼らが所有する商品の代表者としてのことでしかない。われわれはさらに、よりいっそう詳述を進めてゆく過程のなかで、人々が状況に応じてかぶるさまざまな仮面が、彼らが互いに相手にたいして維持する経済的関係の擬人化にほかならない、ということを知るであろう。〉(江夏他訳61頁)

●注37と注38

《初版本文》

 〈(32)敬虔で聞こえた12世紀には、これらの商品のなかには、しばしば、非常にやんわりした物が見いだされる。それだから、当時のフランスのある詩人は、ランディの市場内に現われた諸商品のなかに、服地や靴や革や農器具や毛皮等々のほかに「浮気な女」をも数えあげている。〉(同71頁)

 〈(33)プルードンは、まず、正義すなわち永遠の正義という彼の理想を、商品生産に対応する法的諸関係から汲み取っているが、ついでに言っておくと、このことによって、商品生産という形態も正義と同様に永遠であるというすべての俗物にとって大いに慰めになる証明も、提供されているのである。次いで、彼は、逆に、現実の商品生産とこれに対応する現実の法律とを、ニの理想にのっとって改造しようとする。物質代謝の現実の諸法則を研究しこれらを基礎として特定の諸課題を解決せず、「自然的性状」や「親和力」という「永遠の理念」にのっとって物質代謝を改造しようとするような化学者がいれば、人はこの化学者をどう思うだろうか? 人が、高利は「永遠の正義」や「永遠の公正」や「永遠の相互扶助」やその他の「永遠の真理」と矛盾している言うとき、その人が「高利」について知っていることは、教父たちが高利は「永遠の恩寵」や「永遠の信仰」や「神の永遠の意志」と矛盾していると言ったとき、彼らが高利について知っていたことよりも、いくらかは長じていることになるのだろうか? 〉(同71頁)

《フランス語版》

 〈(1) 敬度なことであれほど評判の高い12世紀には、往々にして商品のなかにきわめてなよやかな物が見出される。たとえば、当時のフランスの一詩人は、ランディの市場で見た商品のなかに、布地や靴や皮や農具のほかに「浮気な女」をあげている。〉(61頁)

 〈(2) 多くの人々は彼らの正義理想を、商品生産に基礎を置く社会から生まれた法的関係から汲みとっている。ついでに言っておくが、このことは、この種の生産が正義そのものと同じくらい長持ちするであろうという証拠を、彼らに快く提供しているのである。次いで彼らは、現在の社会から引ぎ出されるこの理想のなかに、この社会とその法とを改良するための支点を置く。物質化合の法則を研究もせず、この基礎の上で一定の課題を解決もせずに、「親和力や自然的性情という永久的理念」にしたがってかこの化合を変えようとする化学者がいたら、人はこの化学者をどう考えるであろうか? 例えば、人が「高利」は「永遠の正義」や「永遠の公正」と矛盾すると言うとき、この人が高利について知っていることは、教父が、高利と「永遠の恩寵や永遠の信仰や神の永遠の意志」との矛盾を宣言して同じことを行ったとき、この教父が高利について知っていたことよりも、どこか長じているところがあろうか?〉(61-2頁)

●第2パラグラフ

《初版本文》

 〈商品所持者を特に商品から区別するものは、商品にとってはどの他商品の使用価値も自分自身の価値の現象形態としてしか認められない、という事情である。だから、生まれながらの平等派であり犬儒学派である商品は、絶えず、どの他商品とでも、たといそれがマリトルネス〔セルパンテスの『ドン・キホーテ』に出てくる醜い女中〕よりも体裁が悪かろうと、魂だけでなく体までもとり交わそうとしている。商品には欠けている、商品体という具体物にたいするこういった感覚を、商品所持者は、自分自身の五感およびそれ以上の感覚で補うのである。彼の商品は、彼にとっては直接的な使用価値をなんらもっていない。もっていれば、彼はその商品を市場にもってゆきはしない。彼の商品は、他人にとって価値をもっている。彼にとって、それは直接的に、交換価値の担い手でありしたがって交換手段であるという使用価値のみを、もっている(34)。それだから、彼は、自分を満足させる使用価値をもっ商品と引き換えに、この商品を譲渡しようとする。すべての商品は、それの所持者にとっては非使用価値でありそれの非所持者にとっては使用価値である。だから、これらの商品は全面的に持ち手を変更しなければならない。ところが、この持ち手の変更が、これらの商品の交換を形成しており、これらの商品の交換が、これらの商品を価値として互いに関係させ、これらの商品を価値として実現するのである。だから、諸商品は、それらが使用価値として実現されうる以前に、価値として実現されていなければならない。〉(71-2頁)

《フランス語版》

 〈交換者を彼の商品から特に区別するものは、この商品にとっては他のどの商品自体の価値の現象形態にほかならない、ということなのだ。この商品は、生まれながらにして放蕩で厚かましいから、他のどんな商品とでも--たとえそれがマリトルネス〔セルヴァンテスの『ドン・キホーテ』に出てくる醜い女中〕と同じくらい魅力に乏しかろうとも--、自分の魂やさらに肉体までも交換しようと、いつも身構えている。この商品は自分の姉妹の具体的な側面を評価する感覚を欠いているが、この欠落を、交換者は五つ以上もある自分自身の感覚で補い、発達させるのである。彼にとっては、この商品はどんな直接の使用価値ももっていない。そうでなければ、彼はこれを市場にもってゆかない。彼がこの商品に見出す唯一の使用価値は、この商品が他人にとって有用な価値の担い手であり、したがって交換手段である、ということである(3)。だから、彼は、自分を満足させることのできる使用価値をもつ別の商品と引き換えに、この商品を譲渡しようとする。すべての商品は、それを所有する人々にとっては非使用価値であり、それを所有しない人々にとっては使用価値である。したがって、すべての商品は一方の持ち手から他方の持ち手へと全面的に移行しなけれぽならない。ところが、この持ち手変更が商品交換をなすのであって、この商品交換が商品を価値として互いに関係させ、商品を価値として実現する。したがって、商品は使用価値として実現されうる以前に価値として現われていなければならない。〉(62頁)

●注39

《初版本文》

 〈(34)「なぜならば、どの財貨の用途も二重であるからである。--一方の用途は物としての物に固有であり、他方の用途はそうではない。たとえば、サンダルは、はき物として役立つし、また交換可能でもあるというように。両方の用途ともサンダルの使用価値である。というのは、サンダルを自分がもっていない物、たとえば食物と交換する人でも、やはり、サンダルをサンダルとして利用するからである。といっても、サンダルの本来の用い方ではないが。なぜならば、サンダルは交換のために存在するものではないからである。」(アリストテレス『国家論』、第一巻、第九章。)〉(72頁)

《フランス語版》

 〈(3) 「なぜかというと、どの物にも二種の用途があるからである。その一方は、物としての物に固有であり、他方はそうでない。たとえばサンダルは、履物としても交換手段としても役立つ。この二つの観点のもとで、サンダルは使用価値なのである。自分に欠けているもの、たとえば食糧と引ぎ換えに、サンダルを交換する人も、サンダルをサンダルとして用いるからである。だが、このことはサンダルの生来の用い方ではない。サンダルはまさに、交換のためにそこにあるわけではないからである」(アリストテレス『政治学』、第1巻、第9章)。〉(62-3頁)

●第3パラグラフ

《初版本文》

 〈他方では、諸商品は、それらが価値として実現されうる以前に使用価値として実証されていなければならない。というのは、諸商品に支出された人間労働は、それが有用な形態で支出されたかぎりでのみ、しかも他人にとって有用な労働であるかぎりでのみ、数のなかにはいるからである。ところが、その労働が他人にとって有用であるかどうか、したがってその労働の生産物が他人の必要をみたすかどうかは、諸商品の交換だけが証明しうるところである。〉(72頁)

《フランス語版》

 〈他方では、商品が価値として実現されうる以前に、その使用価値が確認されていなけれぽならない。商品の生産に支出された人間労働は、それが他人に有用な形態のもとで支出されるかぎりでしか、計算に入らないからである。ところで、この労働が他人に有用であるかどうか、すなわち、その生産物が他人の必要をみたすことができるかどうかは、商品の交換だけが証明しうることなのだ。〉(63頁)

 

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