『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第32回「『資本論』を読む会」の報告(その3)

2011-03-01 22:21:25 | 『資本論』

第32回「『資本論』を読む会」の報告(その3)

【付属資料】

●【Dの表題】

《初版付録》

 〈IV 貨幣形態〉(905頁)

《フランス語版》

 〈(貨幣形態《Forme monnaie ou argent(24)》

(24)“Geld,Geldform”というドイツ語の正確な翻訳は困難である。“forme argent”という表現は、貴金属を除いてすべての商品に無差別に適用できる。人はたとえば、読者の頭を混乱させずに、“forme argent de I'argent”とか“I'or devient argent”などとは言えないであろう〔フランス語の“”は、「貨幣」という意味と「銀」という意味をもっているから〕。さて、“forme monnaie”という表現は、“monnaie”という語がフランス語では鋳造された貨幣片の意味でしばしば用いられることから生じるところの、別の不都合を示している。われわれは状況に応じて、といっても、いつも同じ意味で、“forme monnaie”と“forme argent ”との両語を交互に使用することにする〔両語とも本書では「貨幣形態」と訳すことにする〕。〉(43-4頁)

●【貨幣形態の図示】

《初版付録》

 〈 20エレのリンネル  =
   1着の上着       =
   10ポンドの茶     =
   40ポンドのコーヒー = 2オンスの金
   1クォーターの小麦  =
   1/2トンの鉄     =
   x量の商品A      =
   その他の商品     =      〉

《フランス語版》

 〈 20メートルリンネル  =
    1着の上衣        =
    10ポンドの茶      =
    40ポンドのコーヒー  =  2オンスの金
    1/2トンの鉄      =
    x量の商品A       =
      その他                 =       〉(44頁)

●【1】パラグラフ

《初版付録》

 初版付録には、「IV 貨幣形態」には三つの小項目がある。すなわち

 〈(1)一般的な価値形態から貨幣形態への移行と、それ以前の発展移行との差異。〉
 〈(2)一般的な相対的価値形態の価格形態への転化。〉
 〈(3)単純な商品形態は、貨幣形態の秘密である。〉

 ここでは、まず項目(1)の内容を紹介する。

 〈(1)一般的な価値形態から貨幣形態への移行と、それ以前の発展移行との差異

 本質的な変化は、形態 I から形態IIへの移行、形態IIから形態IIIへの移行にさいして、生じている。これに反して、形態IVは形態IIIとは、いまではリンネルに代わって金が一般的な等価形態をもっているということを除くと、なんらの差異もない。金は、形態IVでは、リンネルが形態IIIでそうであったもの--一般的な等価物である。進歩があるのは、直接的な一般的交換可能性という形態あるいは一般的な等価形態が、いまでは、社会的な慣習にのっとって、商品体独自な現物形態最終的に癒着している、という点だけである。〉(905頁)

《フランス語版》

 〈本質的な変化は、形態 I から形態IIへの移行、形態IIから形態IIIへの移行において生ずる。これに反して、形態IVは、いまでは金がリンネルにかわって一般的等価形態をもつようになったことを除けば、形態IIIと全然ちがわない。進歩はただたんに、直接的、普遍的な交換可能性の形態、すなわち一般的等価形態が、金という独自な自然形態のうちに終局的に体現された、ということにある。〉(44頁)

●【2】パラグラフ

《初版付録》

 以下も項目(1)である。

 〈が他の諸商品に貨幣として相対しているのは、金がこれらの商品にたいしてすでにあらかじめ商品として相対していたからにほかならない。金もまた、他のすべての商品と同じに、個々別々の交換行為における単一の等価物としてであろうと、他の商品等価物と並んで特殊的な等価物としてであろうと、等価物として機能していたのである。だんだんに、金は、もっと狭いかもっと広い範囲のなかで、一般的な等価物として機能するようになった。金が商品世界の価値表現においてこの地位の独占をかちとってしまうと、金が貨幣商品になる。そして、金がすでに貨幣商品になってしまった瞬間から、初めて、形態IVが形態IIIと区別されることになる。すなわち、一般的な価値形態貨幣形態に転化する。〉(905-6頁)

《フランス語版》

 〈金が他の商品にたいして貨幣の役割を演じるのは、金がすでに以前から他の商品にたいして商品の役割を演じていたからにほかならない。他のすべての商品と同じように金もまた、孤立的交換において偶然的にであろうと、他の等価物とならんで特殊な等価物としてであろうと、等価物として機能してきた。金は広狭さまざまな限度内で、しだいに一般的等価物として機能したのだ。金は、商品世界の価値表現においてこういった地位の独占を勝ちとるやいなや、貨幣商品になったのであり、金がもはや貨幣商品になったその時にはじめて、形態IVが形態IIIから区別される、すなわち、一般的価値形態が貨幣形態に変態する。〉(44-5頁)

●【3】パラグラフ

《初版付録》

 次から小項目の(2)である。

 〈(2)一般的な相対的価値形態の価格形態への転化

 すでに貨幣商品として機能している商品での、たとえば金での、一商品たとえばリンネルの単純な相対的価値表現が、価格形態なのである。だから、リンネルの価格形態は
 20エレのリンネル2オンスの金
であり、または、二ポンド・スターリングが二オンスの金の鋳貨名であれば、
  20エレのリンネル2ポンド・スターリング
である。〉(906頁)

《フランス語版》

 〈たとえばリンネルという一商品の、すでに貨幣として機能している商品たとえば金においての、単純な相対的価値表現が、価格形態になる。したがって、リンネルの価格形態は、
  20メートルのリンネル2オンスの金
あるいは、2ポンド・スターリングが2オンスの金の鋳貨名であれば、
  20メールのリンネル2ポンド・スターリング
になる。〉(45頁)

●【4】パラグラフ

《初版付録》

 次は小項目(3)である。

 〈(3)単純な商品形態は、貨瞥形態の秘密である

 要するに、本来の貨幣形態は、それ自体としては、全くなんらの困難をも呈していない。一般的な等価形態がひとたび看破されてしまうと、この等価形態が金という独自の商品種類に固着するということを理解するには、いささかも苦慮する必要がないのであって、このことは、一般的な等価形態は、本来、ある特定の商品種類が他のすべての商品によって社会的に排除されることを条件としている、ということを理解するのに苦慮する必要がない、のと同じである。問題になるのは、こういった排除が、客観的社会的一貫性一般的妥当性とを獲得し、したがって、いろいろな商品にかわるがわる付着するのでもないし、商品世界のたんに特殊な範囲内でたんに局地的な射程をもっているだけでもない、ということだけである。貨幣形態の概念上の困難は、一般的な等価形態の理解に、したがって、形態IIIという一般的な価値形態一般の理解に、かぎられている。ところが、形態IIIは、反射的に形態IIに解消し、そして、形態IIの構成要素は、形態 I 、すなわち 20エレのリンネル1着の上着 または、x量の商品Ay量の商品B なのである。そこで、使用価値と交換価値がなんであるかを知れば、この形態 I は、たとえばリンネルのような任意の労働生産物を、商品として、すなわち、使用価値と交換価値という対立物の統一として、表示するところの、最も単純で最も未発展な仕方である、ということがわかる。そうなると、同時に、単純な商品形態である 20エレのリンネル1着の上着 が、この形態の完成した姿態である 20エレのリンネル2ポンド・スターリング すなわち貨幣形態を獲得するために通過しなければならないところの、諸変態の系列も、容易に見いだされることになる。〉(906-7頁)

《フランス語版》

 〈したがって、単純な商品形態は貨幣形態の胚種である(25)。

 (25)古典派経済学はいまだかつて、商品、特に商品の価値の分析から、商品が交換価値になる形態を演繹することに成功したためしがなく、これがこの経済学の主要な欠陥の一つである。まさにアダム・スミスやリカードのような古典派経済学の最良の代表者は、価値形態を、商品そのものの本性には無関心なあるもの、すなわち、この本性とはどんな内的関係もないあるもの、として論じている。それは、量としての価値が彼らの注意をひいたためばかりではない。その理田はもっと深いところにある。労働生産物の価値形態は、現在の生産様式の最も抽象的な、最も一般的な形態であって、それゆえに歴史的な性格を、特殊な社会的生産様式という性格を獲得しているのである。これを、あらゆる社会におけるあらゆる生産の自然約な永遠の形態と取りちがえる、という誤りをおかすならば、価値形態、次いで商品形態、また、さらに発達した段階では貨幣形態、資本形態等の独自な側面を、必ず見失ってしまう。労働時間による価値量の測定については完全に意見がお互いに一致している経済学者たちのあいだで、貨幣、すなわち、一般的等価物の固定した形態については、この上もなく多種多様でこの上もなく矛盾しあった考えが見出されるのも、このためである。たとえば銀行問題のような問題が姐上にのぼるやいなや、われわれはこのことに特に気がつくものだ。そのばあいになると、貨幣の定義やこの定義について絶えず言いふらされてきた常套旬とは、もはや縁が切れなくなる。私はきっぱりと指摘するが、私が古典派経済学と言うのは、俗流経済学とは反対に、ウィリアム・ペティ以降、ブルジョア社会における生産関係の現実的で内的な総体を洞察しょうと努める、すべての経済学のことである。俗流経済学は、外観に満足し、自分自身の必要のために、また、この上なく大ざっぱな現象の俗流化のために、先行者たちによってすでに丹念に作りあげられた諸材料を絶えず反芻し、ブルジョアが自分に属する世界すなわち可能なかぎりすばらしい世界に好んで繁殖させる幻想を、衒学的に体系にまで昇格させ、これを永遠の真理である、と宣言するにとどまっている。〉(45-6頁)

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