『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第32回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

2011-03-01 23:06:54 | 『資本論』

第32回「『資本論』を読む会」の報告(その2)


◎「第3節 価値形態または交換価値」の位置

 さて、今回で〈第3節 価値形態または交換価値〉が終わったのですが、そもそもこの第3節は第1章のなかでどういう位置と役割を持っているのかも最後に問題になりました。そしてこうした第1章の各節や第2章、第3章のそれぞれの役割や意義について、最初に問題にして、自身の理解を明らかにし、その後、その見解が多くの人たちにも受け入れられ、また最近になって批判されもしているという点で大きな影響を与えたものとして、久留間鮫造著『価値形態論と交換過程論』が話題になりました。そこで、ここでは、この久留間氏の著書を取り上げるなかでこの問題を考えてみたいと思います。

 久留間氏は次のように自身の問題意識を紹介することから始めています。

 〈「資本論」の最初の部分の構成を見てみると、第一章が「商品」で、これが四つの節に分れている。第一節が「商品の二つの要因、使用価値および価値」、第二節が「商品で表示される労働の二重性格」、第三節が「価値形態または交換価値」、第四節が「商品の物神的性格とその秘密」。それから章がかわって、第二章が「交換過程」、その次の第三章が「貨幣または商品流通」となっている。この構成を見てみるといろいろな疑問が起きてくる。貨幣という言葉は、表題では、第三章の「貨幣または商品流通」のところにはじめてあらわれてくる、これがいわゆる貨幣論にあたるものと考えられる。しかし内容をみると、その前にすでに貨幣に関するさまざまな議論が展開されている。第一は価値形態論、第二は物神性論、第三は交換過程論で、すべて貨幣が出てくる。いったいこれらは、第三章の貨幣論に対してどういう関係に立つのか。こういう疑問が当然おきてくる。第三章の貨幣論は本格的な貨幣論で、それ以前のものは序論的なものだと考えるのが当然のように思われるが、それではいったい、序論といい本論といい、その間にどういう本質的な区別があるのか、これがはっきりしないと具合がわるい。それから第二には、この第三章以前の貨幣に関する議論は序論的なものだとして、この今あげた三つのもの、すなわち価値形態論と物神性論と交換過程論、これらは序論としてそれぞれどういう特殊な意味をもっているのか。これがまた疑問のたねになる。そしてこれがわからぬとやはり具合がわるい。それから第三には、序論にあたると考えられる以上の三論のうちで、価値形態論と物神性論とは、「資本論」の現行版でいうと、第一章「商品」のうちのそれぞれ一つの節をなしているのに対して、交換過程論は、この商品論の全体とならぶ位置を与えられて、第二章になっている。しかも、頁数を見てみると、いまあげた第一章のどの一節よりもはるかに少いのである。にもかかわらず、それらの全部をふくむ第一章と対等な地位を与えられている。これはいったいどういうわけなのか。これがまた擬問のたねになる。こういういろいろな疑問が、「資本論」の最初の部分の構成を徹底的に理解しようとするならば、きっとおきてくるにちがいない。少くともわたくしのばあいにはそうであった。〉(1-2頁)

 この久留間氏の問題意識をみて最初に気付くのは、氏が問題にしているのは、第1篇の内容であるのに、そもそも第1篇の「商品と貨幣」という表題には注意が及んでいないことです。だから氏の問題意識は、第3章の「いわゆる貨幣論」から始まっており、この貨幣論の本論ともいうべき第3章と、その前で貨幣について論じている序論というべき部分(第1章第3節、同第4節、第2章)との関係はどうか、それは貨幣論の本論に対してどんな意義があるのかという問題意識しかないということです。

 しかし第1篇の表題が「商品と貨幣」であることを考えるなら、マルクス自身は、この第1篇では、まず「商品」を考察し、その上で「貨幣」を考察していると捉えなければなりません。貨幣が中心にあるわけではないのです。もちろん、貨幣とは何かを明らかにするためには、まず商品が明らかにされなければならないわけですが、しかし貨幣を明らかにするのは、資本を明らかにするためでもあり、決して、貨幣が事の中心にあるわけではないのです。まず商品とは何かが解明されて、初めて貨幣とは何かも明らかになり、貨幣の諸機能と諸法則が解明されるわけです。そして第2篇の「貨幣の資本への転化」へと繋がっていると捉える必要があるわけです。

 だからそもそもの久留間氏の問題意識そのものに問題があると言わなければならないのです。最初からこうしたやや偏った問題意識から出発しているが故に、その解決も必ずしも正しいものにならなかった、とわれわれは結論せざるをえません。

 氏は上記の引用では、三つの問題を提起していますが、それらはすべて、この氏の最初の間違った問題意識と関連しており、そうした間違った意識そのものによって生じてきている問題でもあるということです。それぞれについて少し検討してみましょう。

 まず久留間氏の最初の問題意識は、「価値形態論」(第1章第3節)と「物神性論」(同第4節)と「交換過程論」(第2章)では、すべて貨幣が出てくるが、これらは第3章の貨幣論に対してどういう関係に立つのか、〈第三章の貨幣論は本格的な貨幣論で、それ以前のものは序論的なものだと考えるのが当然のように思われるが、それではいったい、序論といい本論といい、その間にどういう本質的な区別があるのか、これがはっきりしないと具合がわるい〉というものです。すでに述べたように、第1章第3節や同第4節、第2章は、決して第3章の「序論」といった性格のものではありません。われわれは、『資本論』の展開に則して、素直にみて行くべきです。すなわち、それは次のようになっています。

 まず「第1篇 商品と貨幣」は「第1章 商品」と「第2章 交換過程」、「第3章 貨幣または商品流通」からなっています。この構成をみれば、第1章では商品とは何かが解明され、第3章では貨幣の諸機能と商品流通における諸法則が解明されることが明らかになり、第2章は、第1章と第3章を媒介する章であることが分かるのです。これが問題の正しい捉え方なのです。

 だから次の久留間氏の第二の問題意識も同じことが言えます。つまりそれは久留間氏が貨幣論の序論として位置づけた〈すなわち価値形態論と物神性論と交換過程論、これらは序論としてそれぞれどういう特殊な意味をもっているのか。これがまた疑問のたねになる。そしてこれがわからぬとやはり具合がわるい〉というものです。しかしこれらは第1章第3節、同第4節、第2章なのです。だからこの三つを、ただ貨幣が出てくるというだけで貨幣論の序論として位置づけることそのものがおかしいわけです。少なくとも「価値形態論」と「物神性論」は「第1章 商品」のそれぞれ第3節と第4節をなしており、だからそれらは「商品とは何か」を解明している第1章の、いわば「商品論」の一部である、という認識が必要なのです。それが十分意識されていないことが久留間氏の問題意識の決定的な誤りと言えるでしょう。今述べたことは、だから久留間氏の第三の問題意識にも直接関連しています。だから第三の問題意識もついでにみておくことにします。それは次のようなものです。

 第三の問題意識は、〈序論にあたると考えられる以上の三論のうちで、価値形態論と物神性論とは、「資本論」の現行版でいうと、第一章「商品」のうちのそれぞれ一つの節をなしているのに対して、交換過程論は、この商品論の全体とならぶ位置を与えられて、第二章になっている。しかも、頁数を見てみると、いまあげた第一章のどの一節よりもはるかに少いのである。にもかかわらず、それらの全部をふくむ第一章と対等な地位を与えられている。これはいったいどういうわけなのか。これがまた擬問のたねになる〉というものです。しかし第2章が第1章と第3章を媒介する章であるとの位置づけが分かれば、それが短いのに一つの章として第1章と第3章と対等の位置に置かれているという理由も分かると思います。それは例えば第2篇には、一つの章しかなく、しかも分量としては短いものであるのに、第1篇や第3篇と対等の位置にどうして位置づけられているのかという理由と同じ理由なのです。第2篇の表題は「貨幣の資本への転化」ですが、これはまさに第1篇と第3篇を媒介する篇であることをその表題そのものが示しているといえるでしょう。だから同じような位置づけで考えるなら、「第2章 交換過程」は、内容からいえば、いわば「商品の貨幣への転化」とでも言えるような位置にあると考えられるわけです。

 そこで今問題になっている。第3節の第1章全体における位置とその役割はどういうものと考えるべきか、についてですが、まず久留間氏の問題意識が、その点でもやはりおかしい点を指摘しておかなければなりません。氏は次のように述べています。

 〈特に価値形態論と交換過程論との関係、これが、三十四五年前に「資本論」を読みはじめてから間もない頃から、ずいぶん長いあいだわたくしを苦しめた。どちらを読んでみても、貨幣がどのようにしてできるかについて論じているように思われる。ところがその論じかたを見てみると、全くちがっている。そのちがいは、本質的にはどういう点にあるのか。これがなかなかわからない。そしてそれに関連して、前にも述べたように、価値形態論の方は第一章の商品論のうちの第三節になっているが、交換過程論の方は独立した第二章になっている。これもいったいどういうわけなのかということ、これまた長いあいだ疑問のたねであった。〉(2頁)

 やはり久留間氏の問題意識そのものが間違っているのです。と言うのは、氏は第3節と第2章との関係を直接問うているのですが(そしてこの問いは、この著書の表題『価値形態論と交換過程論』そのものになっていることをみても久留間氏にとっては重要な問題意識だったことか分かります)、しかし、関係を問題にするのなら、いきなり第1章第3節と第2章とではなく、まず第3節の第1章のなかでの位置を明確にした上で、次に第1章と第2章との関係を問うべきではないでしょうか。そうすれば自ずから、第1章第3節と第2章との関係も明らかになるはずなのです。

 では第3節は第1章でどういう位置と役割を持っているのでしょうか。

 第1章の表題は「商品」です。つまり商品とは何かを明らかにすることが課題になっています。しかし第1章の冒頭パラグラフでは、マルクスは「第1部 資本の生産過程」が「第1篇 商品と貨幣」の考察から始まり、さらにそれは「第1章 商品」の考察から始めなければならない理由を述べています。

 そして商品をそのありのままの姿で観察して、それがまず使用価値として存在すること、しかしそれが商品である限りは、同時に交換価値でもあることを指摘して、交換価値の考察に移り、交換価値をさしあたりは一つの種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係としてとらえます。つまり諸商品の交換関係という現象から考察を始めているのです。そしてマルクスはそこからその交換関係に内在する商品の価値を摘出し、価値の概念を与え、さらに使用価値と価値という二重物である商品に表される労働の二重性の考察まで深めたあと(第2節)、もう一度、商品の交換価値という現象形態に帰ってくるのです。それがすなわち第3節でした。第1節で価値の概念を明らかにしたところでも、次のように述べていました。

 〈研究の進行は、価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値にわれわれをつれ戻すであろうが、やはり、価値は、さしあたり、この形態から独立に考察されなければならない。〉(全集版53頁)

 だから第3節はわれわれが第1章の冒頭で商品をそのまま観察した現象の背後にある本質的なもの(価値)を取り出して考察したあとで、その現象形態(交換価値)に再び帰ったものなのです。つまり現象の背後にある本質的な関係を考察したあと、再びその本質から最初の現象形態を展開して説明するのが第3節の課題であると言えるでしょう。つまり価値の概念からその現象形態(価値形態)を展開して説明することです。

 第3節の課題については、その冒頭の前文ともいうべきところで、次のように述べています。

 〈商品は、使用価値または商品体の形態で、鉄、リンネル、小麦などとして、この世に生まれてくる。これが商品のありふれた現物形態である。けれども、商品が商品であるのは、それが二重のものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからにほかならない。だから、商品は、現物形態と価値形態という二重形態をもつ限りでのみ、商品として現れ、言いかえれば、商品という形態をとるのである。〉(全集版64頁)

 このようにマルクスはまず〈商品は、使用価値または商品体の形態で、鉄、リンネル、小麦などとして、この世に生まれてくる。これが商品のありふれた現物形態である〉と商品のもっとも最初の現象に帰っています。つまり商品がわれれわれの目に写るありふれた姿をそれ自体としてとらえているわけです。これは第1節の冒頭で商品をまず使用価値としてとらえていたのと同じです。そして同時に〈商品が商品であるのは、それが二重のものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからにほかならない〉と指摘するのです。〈だから、商品は、現物形態と価値形態という二重形態をもつ限りでのみ、商品として現れ、言いかえれば、商品という形態をとるのである〉というのが大変重要なのです。つまりわれわれが商品をみて、これは商品だと分かるのは、商品が現物形態(これは鉄、リンネル、小麦という物的姿そのものです)と同時に価値形態という二重形態を持たねばならないと述べています。「価値形態」というのは、価値が形あるものとして目に見えるものとして現われているということです。だから商品が商品という形態、つまりその姿そのもので商品であることが分かるようなものになるためには、その物的形態だけではなく、商品に内在する価値も、何らかの形あるものとして直接的なものとして現われていなければならないのだ、とマルクスは述べているわけです。ではその価値形態というのはどういうものなのか、それが問題です。それについては、マルクスは次のように述べています。

 〈だれでも、ほかのことは何も知らなくても、諸商品がそれらの使用価値の種々雑多な現物形態とはきわめて著しい対照をなす共通の価値形態をもっているということは知っている。すなわち、貨幣形態である。〉(65頁)

 つまりわれわれが商品の価値形態として、そのありふれた姿として見えているのは、貨幣形態だとマルクスは述べています。そしてすでに貨幣形態まで学んだわわれは、マルクスがここで述べている「貨幣形態」というのは「価格形態」であることを知っています。つまり商品はその物的形態と同時に価格形態、すなわち「値札」をつけているというのが、われわれが商品を店頭でみるもっともありふれた姿なのです。だから例え商品であっても、それにもし値札が付いていないとそれが商品であるのか、すなわち売り物であるのか、それともその商店が自分で使っているものなのかは分かりません。値札がついていて、「ああ、これは商品だな」と分かるわけです。だから値札こそ、商品の価値形態であり、その発展したもの、すなわち貨幣形態なのです。だから第3節の課題は、商品とは何かを解明するために、商品にはどうして値札が付いているのかを説明することなのです。そしてそのためには貨幣形態を説明しなければならず、どうして商品は貨幣形態を持つのかを説明しなければならなかったわけです。だからマルクスは次のように述べているのです。

 〈しかし、今ここでなしとげなければならないことは、ブルジョア経済学によって決して試みられることもなかったこと、すなわち貨幣形態の発生を立証すること、すなわち、諸商品の価値関係に含まれている価値表現の発展を、そのもっとも単純なもっとも目立たない姿態から目をくらませる貨幣形態にいたるまで追跡することである。それによって、同時に、貨幣の謎も消えうせる。〉(65頁)

 だからこの第3節は確かに貨幣に言及し、貨幣形態の発生を立証しているわけですが、しかし、それはあくまでも商品とは何か(それが第1章の課題です)を明らかにする一環としてそうしているのだということ、商品とは何かを明らかにするために、商品にはどうして値札が付いているのかを説明するためのものだという理解が重要なのです。同じように貨幣の発生を説明しているように見える第2章が、第1章の商品論を前提にして、商品がその現実の交換過程において、如何にして貨幣へと転化するのかを解明するものであり、それによって第1章と第3章とを媒介するものであるという、その役割や位置づけにおける相違も分かってくるのです。

 だから第3節を最後まで考察し終えたわれわれは、すでに商品とは何かがそれによって掴むことができたことになります。しかし、それでは第4節はどういう意義を持っているのでしょうか。これは次回以降の学習の対象であり、次回以降の課題になりますが、久留間氏の諸説を検討したついでに、少し先回りして簡単に論じておきましょう。

 確かに第3節までで商品とは何かは明らかになったのですが、しかしそれだけでは商品の何たるかが十全に解明されたとは言えないのです。というのは商品というのは、歴史的にはどういう性格のものなのかがまだとらえられていないからです。資本主義的生産様式は歴史的な一つの生産様式です。だから資本主義的生産様式とそれに照応する生産諸関係や交易諸関係というものも、やはり歴史的な存在であるわけです。だから資本主義的生産様式を構成するさまざまな諸契機もやはりそれぞれが、やはり歴史的な存在なのです。つまりそれらも歴史的に形成されてきたものであり、それぞれがそれぞれの歴史を持っており、それぞれがそれぞれの生成や発展、消滅の過程を辿っているものなのです。だから商品の何たるかを十全に把握するためには、それを歴史的なものとしてとらえる必要があるわけです。そしてその課題を解決しているのが、すなわち第4節なのです。

 そして第1章として「商品」が解明されたあと、諸商品の実際の交換過程のなかから、如何にして貨幣が生まれてくるのかを説明するのが、第2章の課題であり、それを踏まえて貨幣の諸機能や商品流通における諸法則を解明するのが、第3章の課題である、ということができるのです。極めて簡略ですが、久留間氏の問題意識に答えるものとして、このように説明しておきましょう(久留間氏の著書を批判的に検討するのは、それはそれで別の課題であり、ここでの課題ではありません)。

(付属資料は「その3」に続きます。)

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