South Is. Alps
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Coromandel
Coromandel, NZ
Square Kauri
Square Kauri, NZ
Lake Griffin
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パスタミートソース、ナバナとトマトの温野菜

パスタミートソース:ニンニクみじん切り+オリーブオイル+合挽きミンチ+タマネギみじん切り+ニンジンみじん切り+セロリみじん切り+塩コショウ+ナツメグ+チリーパウダー+白ワイン+トマトソース+ぶなしめじ
ナバナとトマトの温野菜:前夜と続きなので、今夜は白ワインビネガー+粒胡椒を使ったドレッシングにした

2021-03-01 21:00:46 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『地に這うものの記録 (文春e-book)』

 
この物語は、この一年のコロナ禍のなかで潜在的に顕になった人間中心主義への告発に見えてしょうがない。そのことは後で述べる。たまたまのタイミングであったのかもしれないが、少なくとも時宜を得た出版であったように思う。原作は「文學界」2017年11月から2019年8月まで掲載されたもので、タイミング的に意図的に書かれていたわけではもちろんないだろう。しかし、まずは、ネタバレ失礼だが、ざっくりと振り返ってみよう。

パパから言葉を学んだクマネズミのポール、すみかとする駅前一号ビルの建て替え計画を知って、人類がこれまでネズミ一族を唾棄すべき存在として迫害を続けてきたことに対し、抵抗を試みる。人間の前に、言葉を駆使するネズミとして姿を表し、人間とネズミの「和解」を訴えようと考えたのだ。市議会が駅前開発を巡って駅前一号ビルを建て替えするという一派と公園にする一派に分かれていることを知り、前者の浦田議員(女性)に話しかける。浦田さんはポールを受け入れ、彼をマスコミに登場させ市議会の公聴会や講演に引き込む。浦田さんは助手の玉木さん(女性)にポールの世話を頼む(玉木さんは、浦田さんのパートナーでもあった)。ところが、ポールは種を超えて玉木さんに恋をしてしまう。なんとも悩ましい三角関係に入る。一方、浦田さんは市議会のボスの益岡が送り込んだ川井(男性)というバイトと寝てしまう(浦田さんと玉木さんは同性なので、こちらも微妙な三角関係)。後者の三角関係をポールが知るところになったのは、浦田さんの事務所のポールが住まうことになった部屋で羽化をむかえる前の蝶の蛹の密告によるが、蛹もまた言葉を話すことができた。ここでも種を超えた会話がかわされる。蛹は羽化したとき、窓を開けてくれるようにポールに頼むが、羽化したあと言葉を駆使できるかはわからないという。羽化を迎え、案の定、蛹は言葉を失ってしまう。ポールは蝶を殺し窓から捨てる。

ポールは、市議会に招かれ、午前中議員からの質問を受け、また、午後は自身で演説を行うが、彼の論点は、言葉にならなければ事実にならず、記録になければ事実はないのか、という点。ネズミと人間の関わりについて、明智光秀が本能寺の変を起こす前夜ネズミが出没して光秀の神経をかき乱したからだ、クレオパトラの鼻をネズミがかじった、ヒットラーの最後の日にネズミが話しかけた、といった、記録として残っていない出来事を取り上げた。また、議員の一人から、人間がネズミを虐殺してきたことに対して、ネズミもペスト菌を持ち込んだことについて抗議が寄せられた。

演説が終わったあと浦田さんの方の上に乗ってポールが退出する際に、ポールは、「今日を限りに皆さんの前から姿を消すことにする・・・・、嘘も方便、このボクチャンめが正真正銘、真正の、まごうかたなきペスト持ちだからなんでありまーす」と叫んで、失踪するのだ。その後、駅前第一ビルをめざすが、最終的には生死は明確には明かされないが、公園となった跡地にスーツでネクタイ姿のポールの石像が建てられていることを、言葉となって漂っているポールが報告するのがエピローグとなっている。

さて、本作の焦点は、言葉である。作品そのものはネズミのポールの口を借りて饒舌に様々な物語を記述する。その内容は、言葉は語られることによって、書き記されることによって、人に伝えられ、実在あるいは真実となるというてんであり、同時に、書き記された記録が事実を作るのであって、人間の言葉がまさに、本質であって、身体は実在物とは言えないと言っているようだ。その証拠に、ネズミに、蝶の蛹に人間の言葉(日本語)を喋らせている。本書に語られる物語では日本以外の人物もあるので、ネズミはその地の言葉を話していることが想定される。ネズミに言葉を喋らせるということ自体、言葉が本質であることを明示しているということだ。

ペストは中世ヨーロッパの人口を半減させたと言われている。厳密にはネズミが人間に感染させたのではなく、ネズミの蚤が媒介したといわれている。また、ネズミは、ゴミを漁り、人間の食べ残しを食べる。人間とともに暮らしてきたとも言える。ネズミは、ペストだけでなく、直接関節に人間に様々な感染症をもたらす。

公衆衛生が人間にとっての「健康」を維持する原点であるというのが現代社会である。しかし、待ってもらいたい。コロナ禍の発端はどうであったか?コウモリに感染していたコロナ・ウィルスの一種が哺乳類のセンザンコウを介して人間に感染したとされる。その前のSARSはどうだったか?やはり、コウモリに感染していたSARSウィルスがハクビシンを介して人間に感染した。

鳥インフルエンザは毎年のようにニワトリなどの家禽に感染し、そのたびに大量のニワトリが殺処分される。また、豚熱は養豚場の間をイノシシによって媒介されたウィルスが感染を広げ、これまた、大量に殺処分が行われる。しかし、これは、人間の飼育方法が家畜や家禽を経済的な事情から密集させて飼育するという方法によっているために感染が起こりやすくなるのであるからであって、ニワトリやブタが好きこのんで感染したわけではない。

人間も実は同じ状況(都市でくらし、様々な社会生活・経済生活はヒトとの接触を必要とするということ)で生活しているから新型コロナウィルスのような感染症を呼び込むことになるのだ。あえて過激な言葉を使えば、まさに、人間は自爆しているに等しい。

さて、ポールの物語は、タイトルや作品の中にも引用されているように聖書の「創世記」が関わっている。聖書の神がこの世を作り出した6日目に、ネズミを含む「地に這うもの」が先に造られ、その後、人間(男のアダム)が造られ、他の生物たちを「治めさせよう」と神が宣言した。その後、7日目に休んだこと、これが、安息日(日曜)の起源というわけだ。聖書の物語は、バベルの塔の物語(人間が多言語になった理由)やノアの洪水の物語も含まれることに注意を向けておきたい。本書の中で、ポールはネズミもノアの箱舟の乗客であったことを繰り返し述べている。神は「地に這うもの」を人間に治めさせると宣言しつつも、「地に這うもの」も、箱舟に載せるようノアに示唆しているのだ。聖書は神の物語であると同時に、人間が他の生物を支配する原理を示した物語でもある。

とはいえ、その人間中心主義が現在にいたって、再考されねばならないのだ。人新世(Anthropocene)の議論もそうである。わたしには、ポールのかたりが、人間中心主義批判のように聞こえたのだが、どうだろうか。

2021-03-01 17:22:33 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )