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Lake Griffin
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『対岸のヴェネツィア (集英社文庫)』

 

ミラノからヴェネツィアに移住したといっても、ベネツィア本島の南にあって定期船でわたるジュデッカ島への移住で、本書のタイトルの「対岸の」というのはまさに、ヴェネツィアに居住したといっても、少し距離をおいた視点が本書の肝である。本書だけではないのだが、著者のエッセイで描かれることは決して著者の考えを押し付けることなく、「で?」と思わせる最後の一行がこれまた、著者のエッセイの魅力と言えるのではないだろうか。

たとえば、「女であること」の締めの一行は、「ヴェネツィアの女たちは、海の男たちの扱い方を心得ている。それは吹き荒れる風や潮の満ち引きに処し、退屈な凪をやり過ごして、日々うまく折り合いをつけて暮らすのに慣れているからだろう」である。この文は本島ではなくジュデッカ島に吹き荒れる季節風で洗濯物が乾くので風を読む女たちの話から始まって、島での暮らしの中での男とのやり取り(騙し合い)がいくつも取り上げられている。しかし、締めの一行はジュデッカではなくヴェネツィアの女たちとなっている。ジュデッカが縮図になっているですね!とまでは言い切らないで、読者に想いを巡らすような結末になっている。


2025-04-22 16:12:14 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『響きと怒り』(岩波文庫)

 
 
 
寝本だったので読み切るのに時間がかかった。著者のフォークナー、名前は知っていたがこれまで手を出したことはなかった。読む気になったのは11月に読み終えた『百年の孤独』を読了したことがあった。年代記というか、時代背景も含めた一家の記憶(あるいは記録)が重要な意味をもつということだ。本作では、合衆国の奴隷解放にかかわる南北戦争と南部の家族内の人種問題や時代に関わる人間観を主要なテーマにしている。

読み終えた後、「付録:コンプソン家」が本作のレビューに役に立った。フォークナー自身による付録とのことで、この付録自体がひとつの作品(年代記)となっていて、長い時間をかけて呼んだので記憶が曖昧だったところを蘇らせてくれた。

寝本にしていたので、随分時間がかかった。

2025-04-06 22:29:57 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『おしゃべりな絶滅動物たち──会えそうで会えなかった生きものと語る未来』(電子書籍)

 

地質年代におきた生物の大絶滅にはもともと強い興味を持っていた。そもそもは、恐竜に興味があって、なぜかれらが絶滅したのか知りたいと思っていたからだが、小惑星の衝突によるのではという仮説が出たとき、地球上に起きた生物の大絶滅に惹きつけられた。地質年代におきた大絶滅は、小惑星の衝突を含む大きな地殻変動、それにともなう大規模な環境変化により地球上の生物の大量絶滅がおきたとされる。しかし、過去5回の絶滅(「ビッグファイブ」)につづき、現代は第6の大絶滅の時期に入っていることが多くの生物学者により認識されている。これは、人類の諸活動の影響によるところが大きい。

大量絶滅 - Wikipedia

私は、オーストラリア先住民についての研究をしていたこともあって、関連してカカドゥー国立公園の岩壁画にタスマニアタイガーの姿をみたことから、オーストラリアの生物の絶滅についても強く関心を持っていた。オーストラリア大陸へは現時点ではすくなくとも5万年以上前に人類が到達したことが明らかになっている。大陸は他の大陸や島嶼部と海洋で隔てられているものの、人類はおそらく、その後もたびたび大陸に到達していたことは想像に難くない。ディンゴは、どの時点で人類が連れてきたものだろうか。人類と犬の到達以降に、オーストラリア大陸での大型有袋類の絶滅がおきたとされるのだが、はたして、人類と犬はオーストラリアの大型有袋類の絶滅要因であったのだろうか。

タスマニアタイガーは、タスマニアの名がついているように、白人のオーストラリア大陸への植民開始の時点、少なくとも文字や映像による記録に残っていると言う意味において、西オーストラリアとタスマニアにしか彼らはすでに存在しなくなっていた。オーストラリア北部の岸壁画には残されていたということは、タスマニアタイガーはかつては全土に存在した可能性があるということだ。なぜ分布が狭まったのだろうか。タスマニアには人類が到達していたが、ディンゴは到達していない。ということは、タスマニアが本土と切り離された最終氷期(約2万年前)までにはディンゴは到達できていなかったことを示している。タスマニアに関しては人類とディンゴには時間差があったということ、たすまにあでタスマニアタイガーが生存していたこと、それが何を意味しているかについて興味深いところである。

ディンゴ - Wikipedia

本書は、ステラーカイギュウ、ドードー、リョコウバト、フクロオオカミ(タスマニアタイガー)、ヨウスコウカワイルカの絶滅に取材し、化石以外の資料の残る「現代の絶滅」について、報告したものである。はたして、「現代の絶滅」は何を示唆しているのだろうかというのが、大きなテーマとなっている。

本書によれば、これら「現代の絶滅」は明らかに人類が関与している。食糧獲得のための狩猟圧、家畜管理のための狩猟圧、人類の生産活動による環境の激変、これら様々な理由で本書であつかわれる「現代の絶滅」が起きたことはまちがいない。とはいえ、大規模な地殻変動と環境変化による過去の「ビッグファイブ」と「現代の絶滅」の違いは、生物の側からすると大きな差はない。きっかけはともかくも環境変化が大絶滅を生じさせることは必然で、かこの大絶滅により大規模な大進化がおこり生物相が切り替わってきた。しかし、著者によると、大きな違いは自己を顧みて後悔し反省するのは人類だけだというものだ。結果として、環境保護や環境改善、種の保存、遺伝子操作などによって、起こり得る結果を和らげようとするという。

とはいえ、メタンの放出(家畜の増加による)、二酸化炭素の放出(産業革命以降の工業化による)、それらの結果としての温暖化(あるいは、気候の激変化)を管理することは、おそらく非常に困難だ。人類の経済活動や国際関係は簡単には制御できるとは思えない。また、動物園などによる種の保存というのも、そもそも個体群の規模が縮小してしまうと遺伝的多様性が失われてしまって、種の維持が可能かどうか不明な点が多い。また、最新の遺伝子操作などによって過去に絶滅した動物を復元することは現在では不可能であって、近縁種を遺伝子操作によって改変しようとしても、これまた、個体群の規模が問題となろう。また、環境の維持管理のために頂点捕食者を復活させるというアイデアもそう簡単ではない。生態系は複雑極まりないのだ。たとえ、イエローストーン国立公園へのオオカミの再導入の試みが一見成功したかに見えるとしても、牧畜業者はこううした頂点捕食者を駆逐しようとしてきた歴史を振り返ってみても、用意ではないはずだ。タスマニアタイガーの復元でも、生態系の頂点捕食者としてという期待があるようだが、はたして、かれらは頂点捕食者であったかどうかも定かではないようだ。

本書は大変興味深く読むことができたのだが、それは、特定の生物の絶滅は多様な問題が内在されていることが、よく理解できたという意味においてであった。


2025-04-06 13:20:23 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『ボローニャの吐息』

 

著者の作品を読むのは何作目か?学生の頃ナポリに留学してその後、イタリアでジャーナリズムに暮らした作者の生活感あふれるエッセイ。

2025-01-06 21:00:54 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『ボタニストの殺人(上)(下)』(ハヤカワ・ミステリ文庫)

ボタニストの殺人 上 ワシントン・ポー (ハヤカワ・ミステリ文庫)
M W クレイヴン
早川書房
ボタニストの殺人 下 ワシントン・ポー (ハヤカワ・ミステリ文庫)
M W クレイヴン
早川書房

これまでの作品でも登場していた、エクセル・ドイル病理学医師が父親殺しで逮捕されてしまう。これとボタニストという薬物を使う殺人犯とのポーやティリーたちのチームの戦いの物語。相変わらず、どんでん返しが続いて次々読み勧めた。

作品世界だけでなく、現実社会との関連としては気になるのは特にカプセル製剤の製造やパッキングの過程、また、様々な事情での薬剤の宅配がこの事件の背景にあることだ。犯人のボタニストは素人ではなく、各種毒物に専門的な知識を持つ研究者であって、専門家でなければ関われないわけではあるが・・・。

ポーのシリーズ5作目なのだが、そろそろ、終りが近いらしい。作者クレイヴンは次のシリーズ作品をすでに発表しているらしい。楽しみではある。


2024-12-13 13:15:01 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『百年の孤独』

ガブリエル・ガルシア=マルケス、2024、『百年の孤独』、新潮文庫

ノーベル文学賞受賞者のガブリエル・ガスシア=マルケスの代表作の本書、単行本のうちは読まないと思っているうちに時間がたった。文庫化されたと聞いてようやく手に入れた(2024−8−18)。寝本だったので随分と時間がかかった。読み始めたのがおそらく10月のはじめで、1ヶ月半ぐらいかかったことになる。

作者の見聞きした物語や生国(コロンビア)の歴史をふまえて、ブェンディア家100年の年代記としてまとめられた。母国のスペイン、カトリック教会、先住民、植民地主義、入植者の歴史等など、複雑な関係性が綴る一筋縄ではいかないストーリーが展開する。登場人物の名前が継がれているから余計にわかりにくいこともあった。

読み終えたときの「何だったのかこの物語」という感想が正直なところだが、それでもこの物語を粘り強く書き続けなければならなかった作者の底力を感じた。途中でよく投げ出さずに(なんどか、このあたりで終わるのか、と思えるところもあったのだが)たどり着いたものだ。ブェンディア家最後の男児の死骸が蟻に運ばれていくというイメージ、また、この年代記がすでに羊皮紙に書かれていたという最後は、なんとも衝撃的だった。

同じ著者の「族長の秋」の新版の文庫本が早春に出版されるようなので、それも読んでみようと思う。


 

2024-11-21 14:15:39 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『アジア発酵紀行』(電子版)

 
Kindleに入れておくと、ついつい、読み続けずに読み忘れて時間がたつなんてことがある。本書など、今年1月6日にダウンロードして、おそらく読み始めているはずだが、半分ほど読んだところでつい忘れてそのままになってしまっていたのだが、つい数日前に気が付き、一気に読み上げた。本書は日本の発酵文化の起源を訪ねてユーラシア大陸の東南部各地、タイ北部、雲南省、ネパール、インドを訪ねた紀行である。

本書が取り上げる糀だが、本書を読んでいくうちに何が伝播してきたのだろうかと考えた。糀はコメなりなんなりのデンプンを含む穀類に菌をつけて発酵させ、様々な発酵食品、例えば、酒や味噌醤油の類、のスターターとするというものだ。本書では、雲南省あたりから東播した発酵文化が日本にいたり、西播したそれがインドのマニプール州やネパールに至る広がりが見られるということと、西に東に結ぶ発酵した茶葉を運ぶ少数民族を結ぶルートで結ばれているという。結ばれているとすれば、なにが結ばれているのだろうか。

昨今の紅麹問題もそうだが、微生物はどこにでもいるとはいえ、腐敗菌と発酵菌は紙ひとえというか、同じ菌の作用を人間にとって有用でないものを腐敗とよび、有用なものを発酵と言っているにすぎない。紅麹の問題は青カビが混入したということだが、現在のような工場生産の現場ですら混入(手違いか、意図的か、偶然かを問わず)という現象がおこってしまう。ということは、糀そのものが運ばれる途中に菌は次々と変わっていく可能性が高くなるのは不可避なのではないか。というか、それぞれの地方にいる菌に置き換わっていくことはやむを得ないと考えたほうが良いのではないだろうか。有用でないものがたまたま生成されれば、下手をすると摂取した人は健康を損ねたり事によったら死んでしまい、発酵文化の伝播はとだえる。あるいは、そういった経験を踏まえて技術が改良され伝承されていく。

見えないものを利活用する文化というのは、方法をまねぶだけで、はたして可能なのだろうか。同じやり方をしても菌が交代してしまえば、同じ結果を生むわけではないとおもうのだが。もちろん、日本の種麹屋のように、長い時間をかけて均一の糀を生産する技術にまで至ればよいだろうが、本書で記述されているようなケースでは菌を運ぶのではなく、目に見えない菌を利活用する文化が伝わるということではあるのだが、結果オーライの成果が各地の発酵文化といえばいいすぎだろうか。あるいは、フグ毒などを処理する調理法が生まれてきたように、自然科学的な知識ではなく、経験的に編み出された技術が目に見えないものの利活用に貢献したというべきなのだろうか。

いずれにしても、我々の体内に抱える膨大な種類と数の菌類との共生は、最近ますます重要視されるようになってきており、様々な発酵文化の再発見や見直しがなされていることをふまえれば、本書の発酵文化を訪ねて追体験することは、あらためて、菌との共生を再考できるだろう。

2024-08-17 16:33:00 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像』(電子版)

 
藤原行成の「権記」、藤原実資の「小右記」、藤原道長の「御堂関白記」を読み解きながら平安貴族の日常を表現しようとする。
まず初めに平安時代の貴族たちの日記とは何か、子孫の栄達のために詳細な記録を残そうとしたもので、残された日記にはそれぞれの特徴が見られる。ただし、いずれの日記もすべての日取りが残されているわけではないこと、一方、自筆で残っているものが道長の「御堂関白記」であって、その筆致もまた記録として残されている。また、「権記」では、共通の目的に加えて個人的な夢や感情も記されている。「小右記」では、実資が長寿であったこともあって、長期間に渡る記録でもあること、さらには、儀式ごとに分類しようとする意図があったようで、実資自身もそれをこころみ、養子もそれを引き継ごうとしたために、かえって、散逸したともいえる。「権記」と「小右記」は後代の筆写本が残されているので、本人の誤記脱字であるのかそれとも筆写者の誤記脱字であるのかが不明である。こうした古記録をもとに平安貴族の考え方や疾病観などを読み取ることができることは大変興味深く読むことができた。

本書も、NHKの大河ドラマ「光る君へ」の副読本のように読み始めたが、双方相まって興味深い。読了したのは本書で2冊目だが、他にもまだ数冊のこっている。

2024-08-15 15:15:17 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『紫式部と藤原道長』(電子版)


本書は、古記録をもとに紫式部と藤原道長の関係を描いたものである。時代を追ってその関係が描かれるが、最大のポイントは、「枕草子」と「源氏物語」あるいは、清少納言と紫式部の対決、といったところなのではある。とはいえ、その対決の背後にあるのは、道長の摂関政治の完結に関わったということにある。
道長の兄の道隆が一条帝の后・皇后として送り込んだ「定子」の華やかなサロンは、清少納言の「枕草子」の記述によって「定子」の死後もその華やかさが語り継がれていた。それに対抗して、道長は娘「彰子」を送り込み、「彰子」の生んだ皇太子、天皇の外孫としての権力を講師することが狙いであった。ところが、「彰子」の地味なサロンを活性化するひつようがあった。そこで、紫式部を女房(おつきの世話役)として送り込んで、「源氏物語」を執筆させ、「彰子」への一条帝の寵愛を得ようとしたものであるという点にある。

ドラマでは紫式部は「まひろ」、清少納言は「ききょう」の名が与えられているが、史実はどちらも本名も生没年も不詳であることは知っておいてよいだろう。清少納言は、父の姓の「清原」から「清」、父の職位の「少納言」からとられた女房名である。紫式部は、清少納言にならえば、おそらくは当時は「藤式部」とでも呼ばれていたであろうが、「紫」については、「源氏物語」の「紫の上」の「紫」から取られているようで、存命中に「紫」と呼ばれていたと考えられる。

これまたNHK大河ドラマ「光る君へ」の副読本として、あまり知らない平安時代について知ろうとしたものだ。

2024-08-15 15:15:17 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『イタリア発イタリア着』(朝日文庫)

 著者は学生の頃卒論のテーマでイタリア南部のトピックを選び、そのためにはイタリアに行かねばならないとナポリで1年の留学生活を送った。それをきっかけに、イタリア南部を中心に根を下ろし、やがては、北部のミラノやリグーリア州で過ごすようになった。本書は8つの章に編まれているのだが、それぞれの章には複数のセクションがあって、内容的にはそれぞれが単独の小編となっているように思う。もちろん著者の意図があって編まれているのだが、あいにく読者のセンスが悪いのか、なぜこの並びであるか、読み取れないこともあった。とはいえ、べつにそれは大きな問題ではない。小編は単独で読んでもまとまりがあるのだ。また、それぞれの章に配されているとはいえ、時系列に従っているわけでもない。したがって、小編を読者は勝手に並べ直して、著者のイタリア遍歴の流れを読み取ったような気もしている。

2024-07-18 22:23:34 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『紫式部:女房たちの宮廷生活』(電子版)

 
本書を手に取ったのはもちろん、2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」を視聴しているからで、自分自身のこの時代についての浅薄な知識を補うべく読んだ。他にも何冊か併読していて(本書のほか4冊)、このやり方も私の流儀ではある。

本書が最初に読了できたのは、紫式部自身について書かれた後、当時のエリート女性たちの職場としての宮廷での生活(タイトル通り)が中心に書かれていて、その生活が「源氏物語」そのものの舞台であることをふまえて、「紫式部日記」の読み解きと合わせて描かれていたからであろう。

紫式部はベストセラー作家として、他にメディアのない時代に政権の中心にいて、フィクションの形式を取りながらも、時代を描くというジャーナリズム的な発想があったように見える。もちそんそれは、今からの勝手な読み込みに過ぎないけれど、メディア論的に見れば、男性の「日記」にならぶ女性(作家は匿名なので男性も含む)の「物語」と並べてみれば、その重要性は「源氏物語」にかぎらず、この時代のメディアとしての「物語」にハイライトを当てるべきだろう。そして、とりわけ、「源氏物語」の物語性、作者の紫式部のタレントが光っていることも当然のことだろう。

2024-07-17 15:41:45 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『イタリアのしっぽ(集英社文庫)』

 
あとがきを読むとタイトルの理由がわかる。子供の頃、太平洋の洋をとって「洋子」と名付けた祖父と飼い犬とともに、須磨海岸に出かけたエピソードを書いている。海岸で海の向こうに行くのだと語った祖父の思い出と年を取って途中で歩けなくなり祖父に抱えられた飼い犬のしっぽ動きにちなんで、本書のタイトルがつけられた。本書に書かれているエッセイはいずれも動物にちなんだものとなっているからこのタイトルであることは確かだが、動物に絡んだいたイタリアの知人たちのエピソードとなっていて、イタリア人のステレオタイプとして持たれがちな、明るいあっけらかんとした性格とは異なる様々なイタリア人像を描き出している。

2024-07-09 20:42:44 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『ボートの三人男(中公文庫)』

 

2024-06-28 11:23:43 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『アルテミス(上下)』

以前、『火星の人』(映画では「オデッセイ」)で知ったアンディ・ウィアーの第2作、今回の舞台は月面につくられた5つの「バブル」からなるアルテミスという腎高2000人の街、ケニアが建設し観光で成り立っている。主人公はジャズことジャスミン・バシャラというサウジアラビア人で6歳で父とともにアルテミスに移住して20年になる。『火星の人』の主人公マーク・ワトニーは一人取り残された火星で生き延びていくが、月面の街で暮らすジャズもまた自分に与えられたミッションを創意工夫で限られた知識で乗り切っていく。二人の共通項は楽天的で、与えられた困難なミッションを応用知識と技術をもっていること。
 
 

2024-06-06 16:18:10 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『失われたドーナツの穴を求めて』

 
面白かったが、読み始めたときから、動物はドーナツではないか、動物の話(生物学)はいつ登場するのかと読み進めていた。ところが、なかなか動物の話は出てこなくて、最後の最後に編者の一人の奥田太郎の「ドーナツの穴は存在するのか」の文末に登場していた。以下にその段落を引用しておく。

思えば私達は、産道という穴から生まれ、墓場という穴へと死にゆく存在である。また、私達は、食道という穴から食物を入れ、胃腸という穴でそれを消化・吸収し、肛門という穴から排泄をして生きている。ドーナツの穴に私達が見せられるのは、穴なくしては存在し得ないという私達自身の存在論的要請に促されるがゆえなのかもしれない[同書 p.207]。

そこにあえて異論を唱えるものではないが、若干補足しておきたいと思うのだ。奥田は食道、胃腸、肛門という穴をならべているが、口は穴とは呼びたくなかったのだろうか。どういうわけか食道から「穴」を始めている。なんでかな?
さて、生物の発生の機序から見ると口から肛門に至る「穴」は、受精卵が細胞分裂を始めて陥入を起こして細胞が三胚葉に分かれる段階で形成される。口から肛門に至る「穴」を構成する細胞は中胚葉由来であり、生物の外部を覆う皮膚細胞等は外胚葉由来であり、その間を充填する細胞(骨格や内臓や筋肉等)は内胚葉由来である。卵子が精子によって受精してから「個体発生は系統発生を繰り返し」単細胞から細胞分裂を繰り返してあるステージで陥入をおこし三胚葉になると人体はドーナツと化すのだ。動物は外部栄養を摂取することによって生存可能になるが、体内に形成された内胚葉由来の消化管という「ドーナツの穴」=外部から、内部に栄養を吸収することなしには生存できない。
本書で追求されるドーナツの穴に関する議論の重要なポイント、ドーナツの穴は食べることができるのか、あるいは、ドーナツとドーナツの穴の関係性(たとえば、ドーナツを食べ終えるとドーナツの穴も消滅する、まるでチェシャ猫のようなニヤニヤをのこして)についての議論に、この生物の発生からみた議論を加えると良かったと思うのだ。消化管というドーナツの穴は外部であって体内にある外部からいかに異物である食物に含まれる生存に必要な栄養を、吸収するかというのが生物の生存に関わるのであって、奥田の論の5節のタイトル「ドーナツの穴はドーナツに依存している」は「ドーナツはドーナツの穴に依拠している」と書き改めてはいかがと思うのだ。つまり、「ドーナツである人体にとってドーナツの穴は必須であってドーナツの穴なくして、ドーナツなし」、あれ、結論はやっぱりいっしょだったかな?!



2024-06-02 14:17:21 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


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