詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

須藤洋平『赤い内壁』(2)

2018-09-22 09:41:49 | 詩集
須藤洋平『赤い内壁』(2)(海棠社、2018年09月30日発行)

 「プラスチックバット」におさめられた作品群は、私には、よくわからない。それでも、「プラスチックバット」の次の二行、

土方の一服はなぜこんなにも
気持ちがよくなるのだろう

 が強く響いてくる。土方仕事の合間、休憩時間にたばこを吸っている。そのときの気持ちよさそうな顔が目に浮かぶ。といっても、私は須藤を知らないから、知っているだれかの顔というか、そのときの「肉体」の動きを思い浮かべている。
 私は貧乏暮らしなので、高校のとき土方のアルバイトをしたことがある。二学期の授業料を稼ぐのだ。兄が仕事をしている建設現場でいっしょに働いた。私はたばこを吸わないが、兄は吸った。ほかの男たちも吸った。そのときのことを思い出したりする。そこには何か共通する「肉体」の動きがある。
 でも、それは、私の「肉体」ではないし……。
 なぜ、誘い込まれたのだろう。
 全行を読み直してみる。

頂のない食事のような
二人目はまるで別な顔だった
清々しく怖じ気づけば
美しく爆破する舟
常に開かれ、すぐに閉じてゆく
頭蓋の硬さが、今日も俺を脅かす

二つ前の席のやけに童顔の男が
間違いでもさがすように何度か振り返る

土方の一服はなぜこんなにも
気持ちがよくなるのだろう

きっと、それが俺らの魂の色だ

 一連目は、わからない。誰かを殴ろうとしているのか。殴ったのか。「美しく爆破する舟」と「頭蓋の硬さ」は、バットで叩き割られた頭を連想させる。タイトルの「プラスチックバット」のせいである。でも、プラスチックバットだから頭は叩き割られない(と、思う。)
 目を閉じて思い浮かべる幻想、目を開いてかき消す幻想。
 土方仕事で疲れた「肉体」のなかで何かが、揺れている。

 二連目が、具体的で、わかりやすい。見たことがある、こういう光景に出合ったことがある。食堂の席。離れたところから、誰かが何度も見つめ返してくる。「振り返り」見つめてくるので、「見ている/見られている」ということが、わかる。
 「何度か振り返る」、振り返られて見られたことがある。同時に、振り返って見た記憶もある。振り返り、見るのは「何かをさがす」ためなのか。「間違い」を探しているわけではない。もし「間違い」があるとしたら、「振り返り、さがす(見る)」という動詞そのものの中にある。「間違い」は見つからないのに、無意味に「振り返り」「さがす」。
 無駄な時間。「意味」にならない時間。
 そういう「時間」のなかでも、「肉体」は動く。その「肉体」そのものが、「わかる」。「振り返る」とは、どういうことか。「見る」とはどういうことか。「繰り返す」とはどういうことか。ことばで説明するのはむずかしいが、「わかる」。「わかる」から、いま、その姿を見ていないのに、振り返る男の姿が見える。
 この「肉体」の手触りのようなものがあって、そのあとで、

土方の一服はなぜこんなにも
気持ちがよくなるのだろう

 がくるから、「肉体」が自然に何かを思い出すのだ。他人の肉体なのに、自分では経験していないのに、「ああ、気持ちよさそうだ」と感じてしまう。
 このあと、須藤は、

きっと、それが俺らの魂の色だ

 と書いている。「それ」が何を指しているか、わからない。また、私は「魂」というものを見たことがないので、「魂の色」というのも想像することができない。しかし、この「わからない」ことがあるということが、逆にまた、二連目、三連目の「肉体」をさらにくっきりさせる。二連目、三連目は「わかるぞ」と感じさせる。
 私は「誤読」しているのだろうと思う。
 いや、「誤読」にすらならず、何も読んでいないのかもしれないが、いま感じていることを、そのまま書くのである。














*

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文部省次官の引責辞任、その次は?

2018-09-21 23:05:46 | 自民党憲法改正草案を読む
文部省次官の引責辞任、その次は?
             自民党憲法改正草案を読む/番外229(情報の読み方)

 2018年09月21日の読売新聞夕刊(西部版・4 版)の一面。

戸谷文科次官 引責辞任/接待汚職、局長1 人も/相次ぐ不祥事 教育行政打撃

という見出し。
 前川・前次官につづき、「事務方トップが2代続けて不祥事の引責辞任に追い込まれる異例の事態になった」と書いてある。
 ここで疑問。
 問題になっているのは「接待汚職」だが、それはほんとうに文科省だけで起きているのか。他の省庁では「接待汚職」はないのか。
 根拠もなく、私は、こんな風に妄想している。
 安倍は、文科省を狙い撃ちしている。安倍にとって不都合なことを言わせないぞ、という意思表示とみている。
 なぜ、文部省を狙い撃ちするか。
 教育は、洗脳に都合がいい。教育への介入を増やしたいのだ。
 安倍は「教育の無償化」を憲法改正の一項目に掲げているが、これは注意深く見守らないと大変なことになる。
 今でも朝鮮学校への「無償化」は行われていない。日本で生まれ、日本で育った子供への教育が差別されている。
 この差別は、見えない形で他の民族(人種)差別に応用されている。
 「外国人研修生」という名目の労働者は、日本に「単身」で来ている。家族では来ていない。日本が家族を拒んでいる。家族で来れば、受け入れのための社会環境づくりに金がかかる。そこに金をつぎ込んでいては安い賃金で「研修生」を搾取する意味がなくなる。
 もし「研修生」に子供が生まれれば、その教育環境も必要。金がかかる。だから、そうならないように、「単身」でしか受け入れていない。
 日本はすでに外国人の労働者抜きでは、社会が成り立たない。私がときどき利用するコンビニも、きっと従業員が確保できずにつぶれるだろう。
 それなのに、安倍は「外国人排除」を貫こうとしている。
 学校現場で、この方針を貫く必要がある。そのための「文部科学行政」を推し進める必要がある。
 文科省次官の辞任ではなく、次に誰が次官になるか。その人物は、安倍とどういう関係か。そのことに目を向けないといけない。
 私は、政界や官界の人間関係などまったく知らない。マスコミは、その辺りを集中的に取材し、報道してほしい。きっと、安倍の「息のかかった」人間が次官になるはずだ。







#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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須藤洋平『赤い内壁』(1)

2018-09-21 12:00:11 | 詩集
須藤洋平『赤い内壁』(1)(海棠社、2018年09月30日発行)

 須藤洋平『赤い内壁』は「赤い内壁」「プラスチックバット」「ワゴンの記憶」とみっつの章に分かれている。
 きょうは「赤い内壁」を読んだ。
 とてもおもしろく、ぐいぐい引き込まれる。一気に読み通した方がいいのかもしれないが、ぐっと我慢した。
 立ち止まりたいからである。

 巻頭の「染み出るピンク色の手の中で」は、

一度、股を通過した蟻は、たとえ、踏まれてもそう簡単には潰れ
やしない。

 と、始まる。「蟻」が何のことかわからない。
 この「わからない」が私には重要だ。わからないとわかったときから、私は考え始める。
 詩は、こう続いていく。

アルコールを垂れ流した大男は思う。死にたいんじゃなく、
(確かに身体は面倒だが)別に死んだって構いやしないってこと。
それでも中には、何度も何度も、小さな蟻になろうとして、いつ
しか圧縮されていた記憶があふれ、ピストルに弾を込める奴もい
るだろう。けれど、それは別に不思議なことでもなんでもない。
僕も似たような時があった。ただ、こういう奴等は、何かと偉大
な力のようなものを感じることが多いようだ。
実際に僕もそうだった。

コンビニの駐車場でポケットからウイスキーの小瓶を取り出し
叩き割り短い雄叫びを上げた時もそうだった。

袋詰め作業を思い切って辞めて、無一文になった時にもそれを感
じた。

それはつまり全面降伏を認めた時だ。

 読み進んでも、わからない。わからないけれど、「偉大な力」と「全面降伏」が固く結びついていることが感じられる。そして、その「接着剤」のようにして、

コンビニの駐車場でポケットからウイスキーの小瓶を取り出し
叩き割り短い雄叫びを上げた時もそうだった。

袋詰め作業を思い切って辞めて、無一文になった時にもそれを感
じた。

 という「ことば」がある。
 「コンビニの駐車場でポケットからウイスキーの小瓶を取り出し/叩き割り短い雄叫びを上げた時」は、「アルコールを垂れ流した大男」と結びつく。
 コンビニでウイスキーを買って、駐車場でラッパ飲みする。それから瓶を叩き割る。男の口からウイスキーが垂れている。アスファルトの上には瓶に残っていたウイスキーが垂れ流しになっている。「雄叫び」と、自分への怒り、絶望の声かもしれない。「死にたいんじゃなく」ということばも、それに重なる。
 私は、どうすることもできなくて、自分で自分を制御することもできなくて、怒り、絶望している男を想像する。そして、怒り、絶望した瞬間、「偉大な力」を感じている、という「矛盾」のようなものに引き込まれる。
 絶望している瞬間に感じる「偉大」とはなんだろうか。「生きてしまっている」ということではないだろうか。生きているから「怒り」も「絶望」もある。
 途中に出てきた「ピストルに弾を込める」というのは「自殺」のことかもしれない。絶望して、自殺を試みる人(試みた人)もいる。そのときも、その人は「生きてしまっている」ということを向き合っていた。
 そういうことを思っていると、突然、「蟻」が「大男/僕」と結びつく。「僕」は「大男」であると同時に「蟻」である。
 そこから書き出しにもどる。「蟻」を「僕/大男」と書き換えてみる。読み直してみる。

一度、股を通過した「僕/大男」は、たとえ、踏まれてもそう簡単には潰れやしない。

 「股」は「女の股」、「母の股」のことだ。「通過する」は、セックスではなく、「生まれる」ということだ。人間は誰でも「女の股」を通って生まれてくる。そして、生まれてきてしまったら、「踏まれてもそう簡単には潰れやしない。」
 これは須藤の実感なのだ。
 何もかもがいやになって、絶望し、怒りの声をあげる。「こう生きろ」と押しつけてくる社会に対して、「全面降伏」する。その瞬間に、まだ「自分は生きている」(自分を生かしてくれている力がある)と感じる。
 人間は死なない。いや、死ねないのだ。
 詩は、続いている。

何かが手助けしてくれた。医者でもない、カウンセラーでもない、
家族なんて端からいない。
それはずっと自分の中にあるものだった。
おそらく、体液だ。皮肉にも体液のしなやかさだったのだ。
もし、偉大な存在がほんとうにいるのなら、言うだろう。

「それは、私の手の中でこしらえたものだ」と。

染み出るピンク色の両の手の中で。

 最後がまた、わからないのだが、わからないものはわからないままにしておく。
 「偉大な力」を「それはずっと自分の中にあるものだった」ということばをとおして、私は「生きている力」と読み替える。
 須藤は、「生きている力」と向き合っている。「生きている力」は須藤を突き破って動こうとしていく。それは、混乱(困惑)を引き起こす。しかし、そこから逃げずに、須藤は向き合う。つまり「偉大な力」そのものになる。
 一篇の詩に。
 それは血がにじむ。血がにじんでピンク色をしている。
 残酷と美の、不思議な結合。結晶、と呼べるかもしれない。
 「赤い内壁」には、そういう美しさが、やさしさにかわって、静かに動いている。

「ちくび、かくせるまでのばすのゆめ」
はっきりとは聞きとれなかったが、真黒い髪を弄りながらあなた
は笑い、
そして、机の上にあった画集を開き
「これ好き!」
と言い、開いて見せてくれたのは、
シャガールの『緑色のバイオリン弾き』だった。
「僕も好き」言うと、いきなりハグしてきた。

 ことばが自然に動いている。幸せというのは、こういう具合に、ことばがリズムをもって動く瞬間なのだ。
 なんとやさしい人間なのだろう、とこころが震える。

鼻の下にうっすらと髭を生やし、
毛玉のついたセーターを着て、
黒縁メガネのレンズはいつも汚れていて、

あなたと野生のカモシカを見てみたい。
僕はあなたを殴ってしまうこともあるかもしれない。
あなたの胸元を乱暴にはだけてしまうかもしれない。

あなたを指差し、
「同じ顔をしたの何人いるんだよ!」
笑う奴らにはどうあがいていも勝てないかも知れないけれども、
フナムシには時折、立ち向かってくるものもいる。

あなたの服を優しく脱がせたい
あなたと背向いて生きたい。
よじ登る、赤い内壁を。











*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(75)

2018-09-21 10:24:54 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
                         2018年09月21日(金曜日)

75 若さと死

後世はギリシアに 永遠の若さを求める

 と書き出されるので、若い人がテーマかと思うと、そうではない。詩の主人公はソクラテスである。ソクラテスを、高橋は、こう描写している。

彼さえも 老衰の果ての死を怖れていた
これなど すでにじゅうぶんに老人鬱
彼は言いがかりの罪科に これ幸いと飛びつき
敢然と 名誉ある受難の死を選んだ
老いの結果ではない 尊厳ある死を

 私は、そう考えたことがない。
 私はソクラテスを老人と考えたことがない。ソクラテスは、プラトンが描く登場人物の中で、いつもいちばん若い。いちばん若い考え方をする。結論どころか「出発点」も持たずに考え始める。そこには「始める」という動詞が先にあり、それから「考える」がやってくる。
 他人の考え、そのことばを点検するところから始める。何にも頼らずに。それは「既成」の「ことば」を捨てるということ。「老人の知恵」を捨て、「ことば」を「始める」。
 「永遠の若さ」とは、そういうソクラテスの生き方ではないだろうか。
 ソクラテスが批判されたのは(嫌われたのは)、ソクラテスが老いなかったからだ。まるで子どものように、「なぜ」を繰り返した。ソクラテスは「永遠の子ども」だった。

 ソクラテスの「死」は、私にいつも疑問である。
 私にとって「死」は人間の最大の不幸である。
 ソクラテスの「ことば」は正しい。論理的に正しい。けれど、それは「死」をはねつけることができなかった。それは、ソクラテスの論理(ことば)が正しかったのではなく、どこか間違っているのだ。
 でも、まだ、だれもどこが間違っているのか、指摘できない。「正しい」ことばとして、いまも読み継がれている。
 ソクラテスはいつでも「生まれてきたまま」の何かである。いつでも「生まれる」何かである。「生まれつづける」というのがソクラテスの生き方であり、ソクラテスは永遠に年をとらない。死んでしまっても、まだ、「生まれつづけている」。




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高橋睦郎『つい昨日のこと』(74)

2018-09-20 08:46:26 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
                         2018年09月20日(木曜日)

74 老いについて

 高橋は一篇一篇の詩を独立した状態で書いているわけではないようだ。前に書いた詩をひきずりながら次の詩が書かれることもある。この詩は「72 裸身礼讃」から始まった「若者礼讃」のつづきとして読むことができる。「若者(裸身)」を高橋が礼讃するのは、高橋が「老人」であり、「裸身」の美しさを失っているという自覚があるためだ。

いまにして思い知る 老いはなんとひりひりと老いなのだろう
なまなましく感じ なまなましく苦しむ まるで若者のように

 「ひりひりと」は「なまなましく」と言いなおされている。老いを「なまなましく」感じる、と高橋は書く。そして、その「なまなましく」のなかの「若さ」にすがっている。それを「いたいたしい」と言いなおせば「ひりひり」とことばが通い合う。「痛み」として、高橋は「老い」を感じている。「痛み」という感覚は、「若者」にもあって、それは「なまなましい、痛み」だ。「なまなましい」ものは、またその「なまなましい」力によって回復する。ところが「老い」の「ひりひり」は回復とは無縁のものだ。だからこそ、「ひりひり」「なまなましく」は書き分けられている。
 高橋は、こう言いなおしている。

いや 若者の比ではない 若者は好もしさの甲冑に守られているが
老人を守るものは何もない あるものは醜さと頑なさだけ

 「なまなましく(なまなましい)」は「好もしさ」と言いなおされる。そこに「いのち」があり、それがひとを惹きつける。「好もしさ」は「美しい」と言いなおすこともできる。だからこそ「老い」の「醜さ」と対比される。「醜さ」は「頑なさ」と言いなおされる。「頑なさ」ということばのなかには「硬い(固い)」が隠れている。それは「なまなましさ(やわらかさ)」と向き合っている。
 これを高橋は、さらに言いなおす。

そのくせ魂だけが剥き出しに無防備 これもギリシアが
教えてくれたこと 何も鎧わない赤はだかのギリシアが

 「剥き出し(無防備)」は「(鎧わない)赤はだか」。しかし、それは「ことば」だけの「赤はだか」であって「肉体」ではない。主語は「魂」。
 ことばの運動としての「必然性」は感じられるが、ことばがいくら自在に動いても、「肉体」が消えてしまっている。「肉体」を脇においておいて「老い」をことばの言い換え(言い直し)で語られても、惹きつけられない。










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自民党総裁選(あるいは、おぼっちゃ政治の行方)

2018-09-20 00:00:01 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党総裁選(あるいは、おぼっちゃ政治の行方)
             自民党憲法改正草案を読む/番外228(情報の読み方)

 きょう2018年09月20日は、自民党総裁選の日。いろいろなことが報道されたが、いちばん驚いたのは、誰かが石破支持の大臣に辞表を書けと迫ったか、というもの。
 この問題は、単に自民党や閣僚の問題ではない。

 総裁選でこういうことが平然とおこなわれているということは、あらゆる社会(ひっくりかえせば、会社、つまり企業)でも起きているということ。
 みんな国のトップのまねをする。
 安倍は、今回の総裁選ではないが、国政選挙で暴力団をつかって選挙妨害をしたことが報じられている。報酬をけちったために、火炎瓶を投げ込まれるということが起きた。火炎瓶を投げ込んだ方が、そういうことを主張している。
 暴力団をつかっての「圧力」は目に見えるが、側近の議員をつかって辞表を書けという圧力は、なかなか目に見えない。
 この目に見えない「やり方」がとても問題である。
 こういうことが横行すると、その結果、社会(会社)がどうなるか、ということなど「お坊っちゃま」首相にはわかっていない。

 すでに、これは「企業(会社)」の枠をこえて、さらに広がっている。
 だれも「トップ」を批判しない。
 トップに近づき、その威を借りることがトップになる「コツ」と思い込んでいる。威を借りることこそがトップを支持していることを具体的にあらわす手段となっている。「目的」と「手段」が完全に一致する。
 それは単に「トップの側近」の枠を超えて、広がっている。
 トップの子分、そのまた子分を批判すれば(方針に反対すれば)、「下っ端」は簡単に排除される。側近もびくびくしているかもしれないが、下っ端はさらにびくびくしている。下っ端は切り離されてしまえば、生きていけない。ただただ上に気に入られるように動くようになる。

 こういう「社会(世界)」が成り立つのは、その「世界(会社/組織)」に人が多いときだけ。簡単に言いなおすと、下っ端を切り捨てても、どんどん下っ端が入ってくる社会だけ。「おまえの代わりはいくらでもいるんだぞ」と言えるときだけ。
 いまは、そういう状況ではない。トップは「側近」しか見えないから、社会で何が起きているか、まったくわかっていない。
 だから、旧式の「脅し」で人を動かそうとする。

 実際の社会を見てみれば、すぐにわかる。
 日本は労働人口が激減している。あちこちに外国人労働者をみかける。私の生活圏ではコンビニの店員が多い。よく行く映画館でも外国人が働いている。外国人がいないことにはコンビニも営業できないのである。
 それなのに日本は、外国人を排除しようとしている。排除という言い方がわるければ、外国人が働きやすい環境づくりをしようとはしていない。環境をつくらないのは、結果的に排除することだ。
 いまは、まだ外国人が日本に魅力(?)を感じて働いてくれているが、きっとそっぽを向く。単に「労働力」としてしかあつかっていないからだ。「外国人研修生」という、「名目」だけ美しい「搾取組織」を国を挙げてつくっている。
 こんなことをしていては、外国人はだれも日本にやってこなくなる。もうすでにやってくる人が少なくなっているので、外国人研修生などに関する「規制」をあれこれ緩和しようとしているが、根本からかえないと破綻する。
 どうなるだろう。
 日本の社会は成り立たない。

 「おぼっちゃま」は基本的に金持ちである。そして、自分が生きている間は、親の稼いでくれた金で生きて行ける。まわりの人間は、「おぼっちゃま」の金めあてで集まってくる。ちやほやしてくれる。そういう人たちも、結局、働かない人である。「おぼっちゃまの子分」として生きているだけである。
 こういう人たちが、他人を脅して自分の「地位」を守ることに一生懸命である。
 こういうシステムには「弱い人」は敏感である。
 日本人は行くところがないから、「弱い人」のままでいるかもしれない。
 けれど、外国人は違う。
 こんな国ではやっていけない、と思えば、行き先をすぐに変更する。「日本脱出」が始まる。

 「おぼっちゃまの子分の子分」なんて、収入がかぎられている。どんなに「おぼっちゃま」にすりよっても、「おぼっちゃま」以上の金を手に入れることはできない。
 「おぼっちゃま」の子分にならないだけではなく、労働環境を整備してくれないばかりか、差別さえ受ける国では「金稼ぎ」はできない。
 「金持ち」になることはできない。
 「金持ち」になることが、人間の「理想」とはいわないが、このことが明らかになると、大異変が起きる。
 家族も呼び寄せることができない、子どもの教育もままならないということが、帰国した「外国人研修生」によって、外国に伝わる。
 外国人は日本に入ってこない。
 日本の企業をささえる労働者はいなくなる。
 労働者がいなくなれば、会社はつぶれる。
 安倍は求人倍率が高くなっているというが、そういう「みせかけ」の数字など意味がない。
 人が減っているから求人率が高くなっているに過ぎない。
 人をどうやって育てていくか、それを考えない限り、すべてが滅びる。

 10年後、どんなに遅くても20年後には、日本人は中国へ出稼ぎに行っているだろう。
 日本には「仕事」がなくなっている。「企業」そのものがないのだから、「仕事」があるはずがない。
 日本全体が「限界集落」になっている。老人だけが、ほそぼそと生きているという社会になる。

 私の書いていることは、「論理の飛躍」だろうか。
 だが、私には、どうしてもそう見えてしまう。
 自民党総裁には関心がないが、身の回りの現実の変化にはとても関心がある。いま身のまわりで起きていることとから総裁選を見つめると、どうしても、そう見えてしまう。
 私は年金暮らしの老人なので、身のまわりの変化には、とても敏感なのだ。自民党総裁が誰になるかよりも、いま近くにあるコンビニがなくなるかもしれない、映画館が消えるかもしれない、ということが大事なのだ。
 ひとが自分の意見を自由に言えるという社会にならない限り、社会は衰退する。衰退の原因をつくっているのは、「圧力」によって人を支配しようとする姿勢なのだ。
 「おぼっちゃま政治」(先代の資産食いつぶし政治)を打破するためには何をすべきなのか、何をしてはいけないのか、それが大事だ。
 「おぼっちゃま」だらけの自民党政治ではだめなのだ。









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*

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佐々木貴子『嘘の天ぷら』

2018-09-19 19:37:31 | 詩集
佐々木貴子『嘘の天ぷら』(土曜美術社出版販売、2018年09月30日発行)

 佐々木貴子『嘘の天ぷら』はタイトルが語っているように、「嘘(ことば)」がテーマである。ことばでしかあらわせないことを語っている。

今夜は
一人で揚げる

薄衣をつけた
あなたの言葉を
ジュワッと揚げる

もう
わたしを一人にしないと
約束した言葉を

歯に衣を着せた
あなたの優しさを

心、焦がさぬように
丁寧に揚げましょう

何がホントで
何が嘘

騙され続ける幸福に
サヨナラ言って

涙をこらえて
カラリと揚げましょう

嘘の天ぷら
傷つく前に
一人で食べる

 この詩は、詩集の本編(?)を構成している作品群とは少し違っているのだが、佐々木の詩がことばでできていることをよくあらわしている。
 「歯に衣を着せた」という一行は、「衣」が「天ぷら」を連想させる。そして同時に「嘘」というものが、「こころ」に「着せた」何かであることをも教えてくれる。「衣」という名詞にひっぱられて見逃してしまうが、「着せる」という「動詞」が佐々木の思想(肉体)をあらわしている。
 「裸」というか「ほんもの」がある。それをそのまま存在させるのではなく「衣(衣装)」を着せて人前に出す。そうすると、ここからは「天ぷら」の話ではなく、これは「人間」の話になる。
 でも、「衣」は、それでは「にせもの」なのか。
 そうとは、なかなか断言できない。
 「衣」は自然にできるわけではない。やはり「人間」がつくるものだからである。
 というようなことを佐々木は書いているわけではないが。

 佐々木が書いているのは「具(裸/ほんもの)」と「衣(嘘)」が、簡単に入れ代わってしまうということである。入れ代わってしまうというよりも、入れ替えずにはいられないのかもしれない。
 で、このときに「論理」というものが動く。
 「論理」というのは不思議なもので、動かしていけば「結論」にたどりつく。「論理」と「結論」はとても「閉鎖的な関係」にある。「結論」にしてしまえば、それは「結論」になる。「異論/反論」を挟む余地はない。つまり「完結」してしまう。「閉ざす」ことで「完結」を強力なものにしてしまう。
 「天ぷら」と違って、固まってしまった鉄のようなものだ。

 「影」という詩は、は「影」のない「わたし」が主人公である。「影」がないから「影踏み」ができない。それである日、死んだ子の影を接着剤でくっつけることになる。その影は、一度くっつけると、もう剥がせなくなる。そのうちにわたしと影は入れ替わり、影ではなくわたしが入れ代わる。「影は頭が良かったので、成績はぐんぐん良くなった。」そのため、家族も影を大事にする。わたしは見向きもされなくなる。

ひたすら踏まれ続ける日々。血が流れた。わたしの血が学校中に滲みた。

 これは学校(成績の良い子が、良い子という判断)によって殺される「わたしという個性」を象徴的に語っている。その結果、どうなるか。

時々、思い出したように影が下を向いて、ごめんね、と言う。勉強が忙しいので、誰も影踏みをしない。誰一人として影を見ない。今日、影はわたしを細かく切り刻んだ。もう、わたしには血の一滴も無い。

 佐々木の「論理」は「象徴/比喩/嘘」をつかって、「いま/ここ」を別の角度からとらえなおすという展開をする。そこには矛盾がない。もともと「論理」のために用意された「嘘/比喩/象徴」なのだから、矛盾が生まれるはずがない。
 で。
 こういう「完結した論理」が好きな人には、佐々木の詩はおもしろいだろうなあ。
 「論理」をひっくりかえすことを「詩」ととらえる、あるいは「新しい論理」の「新しい」を「詩」ととらえる人間には、おもしろいだろうなあ。
 まあ、そうでない人にもおもしろいかもしれない。
 私も、最初は、おもしろいと思って読んだ。でも、つづけて読んでしまうと、ああ、またか、と思ってしまう。「論理の新しさ」というのは、一度見てしまうと「新しさ」を失ってしまう。どんなに変更を加えてみても、「完結」へ向かって動いていくしかないものである。
 ときどき、思い出したようにして読めばいいのかもしれない。
 「嘘」は、どうしても飽きてしまう。














*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(73)

2018-09-19 08:13:14 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
73 ギリシアの冬

 ギリシアの冬を私が知ったのは、映画「旅芸人の記録」(テオ・アンゲロプロス監督)からだった。それまではギリシアに冬があるとは知らなかった。濡れた泥に映る冬の空。その美しさ。まるでふるさとの北陸の風景そのままに暗くて冷たい。私は、あの映画でギリシアがなつかしいものにかわった。そのときは、まだ行ったことがなかったのだが。(テオ・アンゲロプロスの映画からは、霧のギリシア、雨のギリシアも知った。その灰色と黄色い雨合羽の組み合わせの美しさも知った。)
 高橋はロンゴスの作品からギリシアの冬を知った、と書いている。高橋も実際にはギリシアの冬を知らない。

ただし 片鱗なら見たことがある アッティカのとある浜辺 雪のちらつく中
下っ腹の出た老人男女十数人が 寒中水泳を始めようと騒いでいたっけ
ほんと 老人には痩せがまんが 痩せがまんには冬が似合う

 ここには実感が書かれているなあ、と感じる。「下っ腹の出た老人」は「下っ腹」は出ているが、全体を見れば痩せているのだろう。痩せているから下っ腹が出て見える。その「痩せた」印象から「痩せがまん」ということばが自然に出てくる。
 このあと詩は、こう締めくくられる。

若者に冬は似合わない ことに眩しい裸の若者たちには

 「72 裸身礼讃」を引き継いで、この詩が書かれていることがわかる。
 しかし、こんなふうに簡単に老人と若者、冬と夏の光を対比されてもおもしろくない。せっかく老人の姿を描いたのに、それをぱっと消してしまう。もっと老人と冬との関係、そのときの「実感」を別なことばで言いなおしてもらいたい。冬は夏を思い出すためにだけあるのではないだろう。












つい昨日のこと 私のギリシア
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(72)

2018-09-18 09:51:23 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
72 裸身礼讃

オリュンピアでは 若者たちは一糸まとわぬ裸

 とはじまる詩はタイトル通り裸身を礼讃している。

生まれたままだから公明正大 すこしも淫らではない
ギリシアの夏空のように ひたすら清朗で健康そのもの

 と語ったあと、最後の三行が私にはよくわからない。

淫らにしたのは それを見る目に入った梁のせい
梁ははるか東の沙漠から 海上を熱風とともに飛来
清朗を嫉み 健康を憎む偏狭な神が送った

 「梁」。高橋は「うつばり」というルビを振っている。柱と柱を結び、屋根を造る土台。それは「夏空」を隠す。屋根があると空は見えない。その「梁」が裸体を淫らにしたのか。そう単純ではない。「それ(裸体)を見る目に入った梁のせい」と高橋は書いている。
 「見る目」。裸体を見る目も、梁を見る目も、同じ人の目である。「見る」という動詞よりも「入る」という動詞の方が、この詩では重要である。
 「見る」は能動だが、「目に入る」は受動だ。
 「東洋」の視線(見方)がギリシアに「入ってきた」。その結果、それまで「健康」としかとらえられなかった裸体が淫らになった。裸体は「隠すもの」。夏空を屋根が隠すように、閉ざされた場でしか見せてはいけないもの、という「思想」(ものの見方)が入ってきて、そのときから「淫ら」に変わった。

 だが、「入る」という動詞を基本に考えれば、逆のことも言える。東洋に「裸体は健康である。清朗なものである」という思想がギリシアから「入って」きて、裸は淫らであるという「思想」を叩き壊す。覆い隠す思想(屋根/梁)を取っ払って、夏空の下に解放する必要がある。
 たぶんそういうことを主張したくて高橋はこの詩を書いている。ギリシアに来て「裸体礼讃」の光を浴びて、高橋は健康になった、と言いたいのだと思う。
 でも、こういう主張はあまりにも「論理的」すぎる。「肉体」が感じられない。「梁」という「比喩」が詩の「衣装」になってしまっている。「詩の裸体」を隠すものになってしまっている。
 「礼讃」に必要なのは「ことば(理論)」ではなく、「好き」という感情だ。「理論」を突き破って動く本能(衝動)だ。










つい昨日のこと 私のギリシア
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服部誕『三日月をけずる』

2018-09-17 16:47:29 | 詩集
服部誕『三日月をけずる』(書肆山田、2018年09月10日発行)

 服部誕『三日月をけずる』。巻頭の「大空高く凧揚げて」がいちばん印象に残った。一人暮らしの母親が死んだ。納戸に紙袋、包装紙、紐の束がしまいこまれていた。

震災でなにもかも失くしてから二十年以上過ぎて
もういちど一から取り置き きちんと仕分けして
若かったころのように
性懲りもなく隠し持っていたのだ
またなんぞの折に使えるさかい
という母の口癖が
畳まれ括られ整理整頓された
この反故屑のあいだから聞こえてくる

いっそ
紙袋の丈夫な紙地を台紙に使い
あるだけの包装紙を張り重ね
色目をうまく貼り交ぜていって
母の似顔絵の描かれた巨大な凧を作ろうか
紐は全部 どんどんどんどんつなげていって
長い長い揚げ糸にする

さあ 大空高く凧を揚げようぞ
母が残したものを使い尽して
空のてっぺんにまで凧を揚げよう
舞い上がれ 舞い上がれ どこまでも
大空高く 母よ 舞い上がれ
おお これこそがなんぞの折だわな

 母の口癖の「またなんぞの折に使えるさかい」が少し形を変えて「これこそがなんぞの折だわな」と繰り返される。ここがとてもいい。
 服部がほんとうに凧をつくったのかどうか、わからない。空想しただけかもしれない。たぶん、空想だけだと思うが、空想だからこそ、よけいおもしろい。空想の中にまで、母の口癖が甦ってくる。しかも、そのままではなく少しだけ形をかえて。形をかえている、という意識は、たぶん服部にはない。自然に変わったのだ。自然に(無意識に)ことばが変わって、その状況にふさわしい形になる。これは、そのことばがそれだけ服部の肉体になじんだものになっているということだ。母はこんな形で服部の肉体の中で生きつづける。
 母のことばは何度も詩集に出てくる。母のことばを登場させている詩が、とてもおもしろい。
 「猫と歩道橋」には、こんな部分がある。

橋のちょうど真ん中あたり
猫を膝に抱いた老婆が粗末な丸椅子に腰かけて
たえまなく車の行き交っている下の国道を一心に眺めていた
猫はしきりにかぼそい声で鳴いている

母は老婆を認めると軽く頭をさげて挨拶した
「あれは誰だっけ?」歩道橋をおりてわたしが訊ねると
「昔、近所にいた、たしか、地震で亡くなった人よ
なんて名だったからしらね」と首を傾げてつぶやいた

 服部の母はすでに死んでいる。その母の面影をつれて歩道橋を渡る。そのとき死んだ母が、阪神大震災で死んだ老婆と挨拶をする。死者は生きている、ということではなく、「ことば」と「態度」がいつまでも生きている。母は知り合いとすれちがうとき「軽く頭をさげて挨拶する」、相手は誰なのか。「昔、近所にいた」「なんて名だったからしらね」とはっきり思い出せない。でも、あ「あの人は亡くなったんだった」と思い出したりする。だから、これは勘違いといえば勘違いなのだが、どの人の肉体にも誰かの肉体というのは生きているので、あながち勘違いとも言えない。いや、勘違いするくらいに誰かを知っている、という生き方がここにひっそりと書かれている。誰にでも共有されている何かを服部は静かに引き継いでいる。母をとおして、そのことを語っている。













*

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千人のオフィーリア(メモ38)

2018-09-17 15:53:45 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ38)

追いつけない
追いかけても追いかけても

ジェラシー
私のなかから流れ出た川

黒いうねり
光る悲しみ

ジェラシー
私をさらっていってしまう川

澱みに落ちた花びらは
形がなくなるまでぐるぐるまわっている

ジェラシー
私の知らないところまで行ってしまう川

私のこころなのに
私の言うことを聞かない

ジェラシー
太陽が沈んでも海にはたどりつけない川






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チャン・ジュナン監督「1987、ある闘いの真実」(★★★★)

2018-09-17 12:45:43 | 映画
監督 チャン・ジュナン 出演 キム・ユンソク、ハ・ジョンウ、ユ・ヘジン

 全斗煥大統領による軍事政権下の韓国を描いている。学生が反共取り締まりの警官から拷問を受け、死ぬ。その真相をめぐる攻防。警察と検察、マスコミの攻防。「真実」を告げたいと思っているのはマスコミだけではない。真実を告げたい人は、マスコミを利用しようとも考える。このあたりの動きがとてもおもしろいのだが……。正義派の検事が捜査資料を新聞記者に渡すシーン、記者が解剖医は必ずトイレにやってくると予想しトイレに隠れて待つシーン、看守がエロ本(?)を利用して情報を伝えるシーンなど、こういうことが「事実」を支えていると教えてくれ、とても心強い感じがした。
 一方、見ながら私が考えつづけたことは、いま、日本で起きていることである。
 日本で起きているいろいろなこと、安倍が関係しているさまざまなこと。森友学園、加計学園、女性暴行事件。「真実」を告げるために誰が声をあげるか。前川・前文部次官は、声をあげた。しかし、その声を手がかりにマスコミが「真実」をつきとめるところまではいかなかった。
 その後、森友学園、加計学園事件にしても、さまざまな資料が出てきた。安倍の主張している論理を否定するものが次々に出てきた。しかし、安倍を追い込めなかった。
 どうしてだろう。
 これから書くことは、推測である。「妄想」かもしれない。
 映画の中では、さまざまな拷問がおこなわれている。そのなかの最大の拷問は、要求を飲まないなら(言う通りにしないなら)家族がどうなっても知らないぞ、というものである。愛する家族がどうなってもいいのか。この「ことば」による拷問に、ひとは耐えることができない。言われるがままになる。
 もしかしたら、日本でも同じことが起きているのではないのか。
 国会議員や官僚、さらにマスコミの記者たちは、何らかの「ことばによる拷問(脅迫)」を受けているのではないのか。
 安倍を支持しないなら、次の選挙では自民党として公認しない。対抗馬を立てて、お前を落としてやる。そういうことが平然とおこなわれているのではないか。実際、最近、石破派の大臣が「安倍を支持しないなら辞表を出せ」と言われたと報道されている。大臣を脅すくらいだから、実力のない国会議員を「落とすぞ」と脅すくらい簡単だろう。「安倍を支持しないと、大臣の椅子を与えない(干すぞ)」という脅しも平気でおこなわれている。そして、それに多くの議員が屈している。
 官僚やマスコミで働いている人にも、圧力がかかっているかもしれない。「そういうことをしていると、出世させないぞ」と。前川・前次官にしても、何もわるいことはしていないのに「出会い系のバーに出入りしていた」と新聞に書かれ、菅は記者会見で「そういうところに出入りしていて何もないということは信じられない」という具合に人格を否定することを語っていた。
 前川・前次官はやましいことをしていなかったが、もし「秘密」をもっている人がいたとしたらどうだろう。「秘密をばらすぞ」と。「家族(家庭)はどうなるかな?」自民党の安倍支持派の議員は、どうだろうか。誰も、どんな「秘密」も抱えていないだろうか。
 こういう「脅し」は「拷問」と違って、「証拠」というものが明確には存在しない。「拷問」なら肉体に「傷跡」が残る。「ことばによる脅し」は、こころにしか傷跡が残らない。こころというのは、「見えない」。
 森友学園(佐川事件)では、ひとりの自殺者が出た。しかし、その自殺が森友学園(佐川事件)での圧力によるものであるという「証拠」はない。こころの傷は、生きているときにことばにして訴えない限り、証拠にならない。生きているときに訴えたとしても、「証拠」として採用されるとはかぎらない。
 この「圧力」は、非常に強い。深いところで人間をじわじわと痛めつける。
 「幼稚園に落ちた、日本死ね」という発言が問題になったことがある。そのとき、「そういうことを言うのは共産党だ」というような主張が安倍の口から出たと記憶している。これは「共産党を支持するなら幼稚園にいれないぞ」という「脅し」を間接的に語ったものだ。「もし子どもを幼稚園にいれ、仕事を続けたいなら自民党を支持しろ」と脅しているのだ。
 若者は、この手の「脅し」にとても敏感である。「空気を読む」(忖度する)ことに、大変な労力を払っている。まわりを常に気にしている。
 人手不足が深刻で求人倍率が高い。だからといって、つきたい仕事につけるわけではない。求人率をあげているのは、介護や建築工事というような、厳しい仕事である。つきたい仕事につくためには、安倍批判をしていてはむり。会社の要求にしたがって、従順になるしかない。
 自分では何も考えず(考え、疑問を持つと、脅される対象になる)、「だって安倍しか日本をまかせられるひとはいない」という「ことば」をそのまま復唱する。そういっている限りは、安倍からにらまれる恐れはない。会社の面接でそう答えればいい。いま、会社の面接試験では支持政党を聞いたりしてはいけないことになっているが(信条で人を差別してはいけない)、これが逆に働いている。「信条」を隠して生きていかないと、生きていけない時代になっている。
 「私は共産党支持者です。それが何か問題ですか? 自動車をつくるとき、共産党支持者だと欠陥品になるのですか?」
 そういう人を社員として抱え込まない限り、社会は閉塞する。
 障害者雇用率を国も地方の公共機関も平気でごまかしていた。すべてをごまかし、自分にとって都合のいいことだけを「数字」として出す。それが、いま安倍がおこなっていることだ。社会操作だ。
 映画について少しも書いていない。これでは映画の感想ではない、と思う人がいるかもしれないが、映画を見て思ったことがこういうことである。だから、感想である。ひとは、何かに触れて何を思うか、思ってみるまで見当がつかない。
 (2018年09月16日、KBCシネマ1)



 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(71)

2018-09-17 11:09:31 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
71 病禍

それにしても不思議なこと ギリシアを体験したのち
ギリシア化したのは それからの日日ばかりではない
ひるがえって それまでの日日 とりわけ少年の日日が
ギリシアの光と影とを くっきりと帯びてしまった

 高橋は、「六歳の海」を「七十数年後」に「ギリシアの海」と重ねる形で思い出している。六歳のときに見た海は、このギリシアの海そのものである、思い出している。これを「再発見」と呼んでいる。
 「再発見」はただ「再発見」するだけではない。つまり、そこにとどまるのではない。

ギリシアの少年が ギリシアの青年に ではなく
ギリシアの青年が きびすを返してギリシアの少年に
而うして 改めて青年をとおり壮年に そうしていまや
黄色いギリシアの老人がここにいる というわけさ

 生き直している。ギリシアの少年として「六歳の高橋」を思い出すだけではない。それからの人生そのものを「ギリシア人」として生き直す。このことを「再発見」と呼んでいる。生き直さなければ「再発見」にはならない、というわけだ。

 この「論理」はとてもよくわかる。しかし、よくわかるからこそ、私は問いたい。「論理」が詩なのか、と。
 「再発見」の過程で、ギリシアの少年、青年、壮年は、何を新たに「発見」したのか。そして、その「発見」の積み重ねの後、いま八十歳を過ぎ、ギリシア人として何を発見しているのか。
 いま、ここに書いている作品をか。
 これでは「自己完結」である。その思考(論理)に「間違い」はどこにもないが、「自己完結」していることばのなかへは高橋以外の人間は入ってゆけない。「論理」はいつでも閉ざされた形で「自己完結」する。
 詩は「自己完結」を破り、その力で「世界」の「完結」を破壊すること。すでに「世界」に存在しているもの(世界が内部に隠しているもの)を、「自己爆発」と同時に明るみに出すことである。いわば「自爆テロ」が詩の行為なのだ。
 自己も世界も「想起」ということばの運動の中で「再発見」されているだけでは、それを詩と呼ぶことはできないのではないのか。












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高橋睦郎『つい昨日のこと』(70)

2018-09-16 09:44:07 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
70 海の発見

 「論理」が詩を動かしている。「論理」だけがある、と言ってもいい。その場合、「論理」に「詩的魅力」がなければ詩にならないのではないか。
 この作品の場合、どこが「詩的魅力」だろうか。
 クセノポンの『アナバシス』を引用しながら、高橋は、こう書いている。

目的を失ったギリシア傭兵隊一万人が 寒気迫る敵地の中
内陸の退却を続け ようやく黒海沿岸に辿り着いた時の叫び
海だ! 海だ! 彼らにとってそれが海の再発見だったように
六歳の私の海の発見もじつは再発見 でなければどうして
驚きがなつかしさに変わったろう? でなければどうして
七十数年後のいまなお 詩が私のすべてでありえよう?

 「発見は再発見である」というのが「論理」の核だが、これはどういう「意味」だろう。
 「発見」というのは、新しいものを見つけることだが、その新しいものとは初めて出現してきたものではなく、すでにあったものだ。すでにそこに存在しているが知らなかったものに気づくことが「発見」である。それは「再発見」されることで「事実」になる。だから「再発見」と呼ばれなければならない。
 しかし、こういう「理屈」は、ギリシアでなければ通用しないわけではない。
 だいたい「六歳の私の海の発見」がなぜ「再発見」なのか、この詩では、その「根拠」がまったく書かれていない。

 この詩は、次の「71 病禍」を読まないことには、何のことかわからないようになっている。















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「私はそういうことは一度も言っていない」(2)

2018-09-15 23:32:13 | 自民党憲法改正草案を読む
「私はそういうことは一度も言っていない」(2)
             自民党憲法改正草案を読む/番外227(情報の読み方)

 2018年09月15日朝日新聞朝刊(西部版・14版)4 面に、とんでもない記事が掲載されていた。自民党総裁選の「討論会」の詳報である。(4面は13版S)

記者 安倍政権は、拉致問題を解決できるのは安倍政権だと。現状、見通しは。
安倍氏 拉致問題を解決できるのは安倍政権だと私が言ったことはない。ご家族でそういう発言をされた方がいることは承知している。あらゆるチャンスを逃さない、という決意のもとに進めてゆきたい。

 安倍が否定したのは「安倍政権だけ」の「だけ」の部分かもしれないが。
 これは「トリクルダウンと言ったことはない」「TPP反対と言ったことはない」とは全く違って、言わなかったとしたら、言わないことが問題なのだ。
 こういうことは「できる」という確信がなくても「できる」と言い張り、その実現に向けて努力しないといけない。
 「拉致問題は絶対に私の手で解決する。そのために、いまこういうことをしている。もう少し時間がかかる。だから、もう少し自分に時間をくれ。総裁をつづけさせてくれ」と言わなければならない。
 それが首相の責任だろう。
 「拉致問題を解決できるのは安倍政権だと私が言ったことはない。だから解決できなくても私の責任ではない」
 という論理は成り立たない。
 安倍は責任逃れのためなら、何でも言うだろう。
 「拉致問題は、私が首相のときに起きたのではない。責任は当時の首相にある」
 とさえ言いだすだろう。
 「自衛隊が憲法に明記されていなかったから、自衛隊が拉致を防げなかった」とも言いかねない。

 この首相のもとで、9 条を改正し、実際に戦争を始めた場合、どうなるだろう。
 「私は戦争に勝つと言ったことは一度もない。私は日本が戦場になると言ったことは一度もない。私は日本人が戦争で死ぬことはないと一度も言ったことはない」
 平気でそう言うに違いないのだ。

 言わなければならないことを言わない人間は、言ったことを言わないということ平然として言う。

 安倍は人間として完全に失格している。
 人間には、嘘をつかないといけないときがある。できないとわかっていても「できる」と言い、そのできないことをできるようにするよう努力しないといけない。
 自分の子どもが誘拐されたとき、妻をはじめとする家族に、「なんとか助け出して」と泣きつかれたとき、何をしていいかわからなくても「大丈夫、絶対に助け出す」と答えるのが父親だろう。もし事件が不幸な形で展開し、妻から「お父さんが助けるといったのに、嘘つき」と非難されたとしても、そのときは「何もできなくてごめんよ」と答えるのが普通であり、「私は誘拐事件を解決できると言ったことは一度もない」と言う人間がいるだろうか。
 今回の発言は、安倍は拉致問題を解決する気持ちがまったくない、ということを証明している。人の悲しみ、苦しみによりそう気持ちなどどこにもないということを証明している。
 その場その場で、批判をかわせばいいと思っている。
 その安倍が学校に「道徳」を持ち込んだ。安倍には「道徳」を言う資格がない。自民党は「家長制度」の復活を目指しているようだが、安倍のような「家長」が「家長制度」の頂点にいるのは、その家の不幸である。








#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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