詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(75)

2018-09-21 10:24:54 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
                         2018年09月21日(金曜日)

75 若さと死

後世はギリシアに 永遠の若さを求める

 と書き出されるので、若い人がテーマかと思うと、そうではない。詩の主人公はソクラテスである。ソクラテスを、高橋は、こう描写している。

彼さえも 老衰の果ての死を怖れていた
これなど すでにじゅうぶんに老人鬱
彼は言いがかりの罪科に これ幸いと飛びつき
敢然と 名誉ある受難の死を選んだ
老いの結果ではない 尊厳ある死を

 私は、そう考えたことがない。
 私はソクラテスを老人と考えたことがない。ソクラテスは、プラトンが描く登場人物の中で、いつもいちばん若い。いちばん若い考え方をする。結論どころか「出発点」も持たずに考え始める。そこには「始める」という動詞が先にあり、それから「考える」がやってくる。
 他人の考え、そのことばを点検するところから始める。何にも頼らずに。それは「既成」の「ことば」を捨てるということ。「老人の知恵」を捨て、「ことば」を「始める」。
 「永遠の若さ」とは、そういうソクラテスの生き方ではないだろうか。
 ソクラテスが批判されたのは(嫌われたのは)、ソクラテスが老いなかったからだ。まるで子どものように、「なぜ」を繰り返した。ソクラテスは「永遠の子ども」だった。

 ソクラテスの「死」は、私にいつも疑問である。
 私にとって「死」は人間の最大の不幸である。
 ソクラテスの「ことば」は正しい。論理的に正しい。けれど、それは「死」をはねつけることができなかった。それは、ソクラテスの論理(ことば)が正しかったのではなく、どこか間違っているのだ。
 でも、まだ、だれもどこが間違っているのか、指摘できない。「正しい」ことばとして、いまも読み継がれている。
 ソクラテスはいつでも「生まれてきたまま」の何かである。いつでも「生まれる」何かである。「生まれつづける」というのがソクラテスの生き方であり、ソクラテスは永遠に年をとらない。死んでしまっても、まだ、「生まれつづけている」。




つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社




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