詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

イザベル・コイシュ監督「エレジー」(★★★★)

2009-01-31 01:05:42 | 映画
監督 イザベル・コイシュ 出演 ペネロペ・クルス、ベン・キングズレー、デニス・ホッパー

 忘れがたいシーンがある。ペネロペ・クルスがいったんベン・キングズレーと別れ、2年後に再会する。そのときペネロペ・クルスは乳ガンに冒されている。それを打ち明ける。そのときベン・キングズレーが泣きはじめる。自分の肉欲(快楽)のみを求めてきた男が、若い女のいのちをいとおしみ泣きはじめる。それに対して、ペネロペ・クルスが、「まるで自分が年上で、あなたが少年みたいだ」という。このシーンがとても美しい。
 考えてみれば、2人の関係はいつも年上の女性、年下の少年だったのだ。ベン・キングズレーが30歳以上年上、大学教授であり、ペネロペ・クルスは若い学生なのだから、外見的にはベン・キングズレーが年上であり、立場も上位にあるのだが、彼等の行動を動かしているのは、年上の女性、年下の少年なのだ。
 ベン・キングズレーがペネロペ・クルスにひかれるのはその美貌であり、その肉体である。彼女の人間性のことは意識にのぼらない。青年時代にさえしたことのない嫉妬にかられ、ペネロペ・クルスのあとを追いかけてみたり、妄想にかられたりする。その一方で、別の女性との関係をつづけ、嘘をつきもする。友人に、ペネロペ・クルスとの関係を語り、いろいろ相談もする。つまり、ベン・キンギズレーは「愛」を一人では抱えきれないのである。大人ではなく「少年」なのである。
 これに対して、ペネロペ・クルスは正直である。10代のころの男性経験を問われるままに語る。ベン・キングズレーの女性関係も深くは追及しない。いま、彼が、彼女の肉体を愛してくれていることを受け止め、その肉体への愛が彼女自身への愛だと受け止める。
 対極的な二人が幸福に包まれるのは、したがって、ベン・キングズレーが少年の純粋さを発揮するときである。ペネロペ・クルスの美しさを無邪気に称賛するとき。ロマンチックな場所へ行き、夢を語るとき。海岸で、プラド美術館へ行こう、ベネチアへいってゴンドラに乗って歌を歌ってあげる、と語るとき。夢中になって写真をとるとき。ペネロペ・クルスが声に出さずに「アイ・ラブ・ユー」と言ったのを、「聞こえなかった。もう一度言って」とせがむとき。その無邪気な「少年」に触れるとき、ペネロペ・クルスはベン・キングズレーが30歳年上であることを忘れる。恋が二人の間にある「外見」を消し去る。
 まったく逆のシーンを思い起こすと、この二人の違いはいっそう明確になる。ペネロペ・クルスが最初に涙をみせるシーン。しかも、ベン・キングズレーに隠れて涙をみせるシーン。大学の卒業パーティーを自宅で開く。パーティーの最中、ベン・キングズレーが電話をかけてくる。「車が故障して、パーティーに行けない」。これはもちろん嘘である。ベン・キングズレーは自分が30歳も年上であるということ、その外見に対して負い目を感じている。ペネロペ・クルスの家族に30歳も年上であることを知られたくない。ペネロペ・クルスは「車が故障した」という電話が嘘であることを知っている。だから泣く。ベン・キングズレーが結局「少年」であり、「少年の嘘」をつくからである。「いま」を受け入れることができない「少年」であることを知ってしまったからである。
 ベン・キングズレーが年上であり、ペネロペ・クルスが若いから、二人の恋は破綻したのではなく、逆なのだ。ペネロペ・クルスは「おとな」なのに、ベン・キングズレーがいつまでも「少年」だから、恋は破綻したのだ。
 それでも、ペネロペ・クルスはベン・キングズレーが恋しくて、最後に彼を頼ってやってくる。会いに来る。そして、そこで相変わらずベン・キングズレーが「少年」であることを発見する。この瞬間から、二人の愛が重なり、切ない物語になる。永遠になる。ペネロペ・クルスはベン・キングズレーが少年であることを受け入れ、ベン・キングズレーも自分が少年であることを受け入れるのである。恋愛とは、相手のためなら自分が何になってもかまわないと決意し、実行することだ。ベン・キングズレーが快楽主義の教授から、ただペネロペ・クルスが好きということしかわからない少年になるという変化も、その「何になってもかまわない」ということにつながるのだ。
 ベン・キングズレーが少年になる--という変化は別の物語でも語られる。彼には息子がいる。彼は父親なのに息子の相談には親身にならない。その彼がペネロペ・クルスが乳ガンだと知って医師の息子に相談する。息子は親身になってベン・キングズレーの相談に乗る。そういう親子関係の逆転をとおして、二人は和解する。
 人間を結びつけるのは、外見の年上・年下、父・息子という関係ではないのである。そういう外見の関係を乗り越えたとき、そこにほんとうの愛がうまれる。
 ラストシーン。手術を終え、集中管理室から一般病棟に移ったペネロペ・クルスにベン・キングズレーがよりそう。ベッドの上で体をよりそわせる。かなしく、けれども、こころが落ち着く。そのせつない美しさ。悲しいけれど、ほんとうに美しい。愛は、こんなふうにしてかけがえのないものになる。



 ペネロペ・クルスの若い表情、その目の力強さが魅力的だ。長い髪で顔を半分隠した表情と、髪を切ったあとの、すべてをさらけだす顔の美しさ。その対比にはっとさせられる。その肉体も美しい。ベン・キングズレーの快楽主義の男から少年への変化も、とても純粋な気持ちにさせられる。
 すべての映像に「節度」というものが感じられ、それも気持ちがいい。感情のおしつけがない。

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