詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石川厚志『が ないからだ』

2011-01-06 22:59:59 | 詩集
石川厚志『が ないからだ』(土曜美術社出版販売、2010年10月30日発行)

 石川厚志『が ないからだ』はタイトルがしめすようにわざとつくられた「文体」を詩として読ませる作品である。
 「が ないからだ」。

私が何でそれを見られないかといえば
麒麟(きりん)の首がないからだ
私が何でそれを頂けないかといえば
かめれおんのべろもないからだ
私が何でそれを聴くことができないかといえば
兎の耳もないからだ

 読みながら、「長い」と感じた。「私が何でそれを見られないかといえば」という1行が長い。長い分だけスピードが落ちる。スピードが落ちるというのと、スピードを殺した文体というのは別物であって、スピードが落ちるという印象は、私には「欠点」としか思えない。
 「何で」と「といえば」が長い。余分なことを言っている。「何で」という「口語」もことばのスピードを落としている。このスピードが落ちる感じが、「麒麟」「かめれおん」「兎」の比喩を平凡な「比喩」によって、さらに遅くなる。「頂けない」(頂く)という動詞のつかい方も、ぞっとする。もっと簡単に「食う」とか「食べる」とすっきりしたスピードのことばでないと、「気取っている」という印象しか残らない。詩は「気取って書く」というのは、私は賛成なのだが、気取り方に問題がある。「わざと」の姿勢のあり方に問題がある。この詩集を読み通すのは、かなり苦しい。
 一転、「不条理な食卓」はおもしろい。

妻に怒られながら夕食をとる
ずるっと顎(あご)がずれる
何を怒られているのかが分からずに
ずるっとまた顎がはずれる
すると今度は顎がずれていることについて怒られるので
何とか元に戻そうとするが
どうしてなのか逆向きにずるっとずれてしまい
必然的に逆向きにずれてしまったこともまた怒られるので

 この詩も「同じことば」が繰り返されているという印象がある。しかし、微妙に違う。どこが違うのか。「不条理な食卓」は「同じことば」だが、「同じことば」ではない。「不条理な食卓」は「しりとり」になっている。
 しりとりというのは、最後のことばを引き継いで、それとは違うことばを重ねる遊びだが、「不条理な食卓」は同じことばを繰り返しながら、少しずつずれていく。「が ないからだ」は同じことばを積み重ねながら飛躍するのに対して、「不条理な食卓」は飛躍しない。ずるずるずると前のことばを引きずっていく。
 「飛躍」と「ずるずる引きずる」を比較すると「飛躍」の方がスピードがあるはずなのに、なぜか、そういう「論理通り」にはことばは動かない。「ずるずる引きずる」には「滑る」感じが濃厚なためかもしれない。飛躍するには自分自身のなかにエネルギーがいる。けれどずるずる滑る感じのなかには自分のエネルギーが必要ではない。
 別なことばで言えば、ずるずる引きずられて滑るとき、読者は、ひとつひとつのイメージを考えなくていい。前のイメージに寄り掛かっていられる。楽なのだ。この「楽」がスピード感につながっていると思う。
 「が ないからだ」は「麒麟」「かめれおん」「兎」と、いろんな動物を正確に想像しないといけない。これはつらいね。ところが「不条理な食卓」は「顎」と「ずれる」と「怒られる」が少しずつ変わっていくだけなのだ。少しずつだから「楽」に読むことができ、うれしくなる。
 文体そのものを詩にするときは、「楽」に読ませる工夫が必要なのかもしれない。



が ないからだ―石川厚志詩集
石川 厚志
土曜美術社出版販売

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