詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「父の死」と「臨死船」(3)

2010-03-13 00:00:00 | 詩集
谷川俊太郎「父の死」と「臨死船」(3)

 「父の死」の最終連。風呂場で、谷川は父を思い出す。生きていたときの父を思い出し、生きていたことを思い出すことで、父が死んだということを思い出す。そこでは死と生はかたく結びついている。色即是空。空即是色。生即是死。死即是生。その結びつきが「正直」である。ことばのなかで、谷川は「正直」になってしまう。そこではすべては区別がない。風呂場で、あの手ぬぐいかけは遠くて不便だと思ったのは、谷川であり、同時に父でもある。谷川がそれを近くに移さなければ、と思ったということは、父もまたそう思ったに違いない。「いのち」の現場では、だれかが思うことはだれでもが思うことなのだ。死んでしまった父は、谷川に向かって、やっとそのこと、手ぬぐいかけを近くに移さなければ……ということに気がついたか、と笑っているのかもしれない。そういう視線を感じて、谷川は泣いたのだ。
 「もの」は外部からやってこない。「世界」からやってこない。「もの」は「ことば」のなかにすでに「いる」。「ある」ではなく「いる」。そして、それは「ことば」となって「世界」と交渉し、「世界」のなかへ「生まれ出る」。
 「ことば」のなかに「いる」ものは、実は「死んでいる」。つまり、いま「世界」から見捨てられ、「ことば」にならずに、「ことば」以前として「いる」にすぎない。それが動いて、死を突き破って、生まれ、「世界」になる。

いろいろ訊きたいことがあるのだが
相手が五歳の子どものままだから困る
この船はどこへ向かっているのと訊いても
毎日何をしているのと訊いても
夜になると星は見えるのと訊いても
「わかんない」の気持ちがか細く伝わってくるだけ

 この部分は不思議だ。大好きだ。こころが震えてしまう。
 「私」は「子ども」に何か聞こうとしている。表面上は、そう読むことができる。けれど、私には、「私」が「私」の外にいる「子ども」に対して質問しているようにはみえない。感じられない。「子ども」は「わかんない」と答えない。「わかんない」と答えているのは「私」のなかに「いる」、「私という子ども」なのだ。
 そして、その「私のなかにいる子ども」とは「気持ち」である。
 「子ども」は何も答えない。けれど「気持ち」がつたわってくる、というのは、そういうことだと思う。「気持ち」がよみがえり、「気持ち」が生まれてくる。

 いま、私は、偶然のようにして「よみがえり」と書いてしまったのだけれど、それは「黄泉帰り」ということかもしれない。
 大人になった「私」にとって、「子ども」の「気持ち」は死んでしまっている。死んだ形で「私」のなかに「いる」。それが「黄泉帰る」。「黄泉」(死の世界)から帰ってくる。
 「よみがえり」(黄泉帰り)のなかには、生と死が、一つになっている。
 ここにも生即是死、死即是生、という運動がある。
 そういう運動のなかでは、「か細く」は「太い」よりもはるかに強い。なぜか。「細い」の「小ささ」こそが「一」だからである。「か細く」は「細く」よりもっと「細い」。それは無限に「一」、小さい「一」に近い。その無限に近い「一」からすべてが始まる。それが無限に小さい「一」であればあるほど、それは「多」になる。

 「わかんない」は何も持っていない。だからこそ、すべてを持っている。そこから、すべてが誕生する。そこから、すべてがよみがえる。「わかんない」は、一瞬、すべての関係を切り離す。「無」になる。「空」になる。だからこそ、そこにすべての「色」がある。すべての「色」がよみがえり、具体的になるための、何かがある。

 どこを切り取っても同じことが起きる。同じことを私は書いてしまうだろう。たとえば、

むかしバイオリニストの恋人がいた
あのあと目の前で弾いてくれた 素裸で
細くくねるバイオリンの音と彼女の匂いが
いっしょくたになって皮膚に沁みこんだ

 「バイオリンの音」と「彼女の匂い」が「いっしょくたにな(る)」。聴覚と嗅覚が「いっしょくたにな(る)」。「いっしょくたになって」区別が「わかんない」。はっきり区別されるべきものが「一」になる。「一」になって、そこから「多」にかわっていく。そういうことが、あらゆる瞬間に起きる。いや、「よみがえる」。
 それは、すべて谷川のことばのなかで起きる。谷川のことばのなかに「いる」もの、「いたもの(死んだもの)」がよみがえるのだ。
 そして、そこに「世界」が誕生する。
 いま引用した「バイオリニスト」の思い出は、思い出であるのに、過去ではなく「いま」そこに、そのままある、生きて「いる」ものとして見えるのは、それが「生まれている」からだ。「よみがえり」、そして「生まれる」。
 谷川が、この詩で書いているのは、そういう不思議な、矛盾した、だからこそ切実な運動である。



 きりがない。きりがないけれど、きりをつけるために、書いておこう。この詩は最後に、不思議で不思議で不思議でしようがない行をもっている。

見えない糸のように旋律が縫い合わせていくのが
この世とあの世というものだろうか
ここがどこなのかもう分からない
いつか痛みが薄れて寂しさだけが残っている
ここからどこへ行けるのか行けないのか
音楽を頼りに歩いて行くしかない

 「音楽」って何? たとえば、モーツァルトの曲? ベートーベンの曲のようなもの? いや、違う。この連に先立って、「音楽」ということばが出てくる部分がある。

遠くからかすかな音が聞こえてきた
音が山脈の稜線に沿ってゆるやかにうねり
誰かからの便りのようにここまで届く
酷い痛みの中に音楽が水のように流れこんでくる
子どものころいつも聞いていたようでもあるし
いま初めて聞いているようでもある

 それは、いわゆる音楽ではない。旋律とリズムをもったものではない。いや、旋律とリズムはあるかもしれないが、楽器で演奏できるものではない。楽譜によって表現できるものではない。
 それは「ことば」なのだ。それも「生まれる以前のことば」。「ことば」になる前のことば。「ことば」になる前だから、それは「ことば」ではない。けれど「ことば」。
 この矛盾。
 それが色即是空。空即是色。
 それは「ことば」のなかに「ある」のではなく、谷川の場合、「ことば」のなかに「いる」。そして、それは「よみがえる」。死にながら、その死をもう一度死んで、よみがえることば。
 「父の死」の最後の連、風呂場での谷川と父との対話に似ている。死んでしまった父が、その死を死んで、手ぬぐいについて思っていたことがよみがえる。谷川のことばとしてよみがえる。そんな感じの「和解」。
 「徹三」即是「俊太郎」、「俊太郎」即是「徹三」--こういう表現は、谷川にとって気持ちがいいものではないかもしれない。そうわかっているが、私は書いてしまう。「徹三」はたまたま「父」だけれど、それは「徹三」だけではないのだ。すべての「いのち」なのだ。

 「臨死」ということばがこの詩のタイトルにあるが、谷川は、ほんとうに「死」というものを知ってしまったのかもしれない。それはもちろん「わかんない」ものなのだが、その「わかんない」ということを、完全に知ってしまったのかもしれない。
 「わかんない」という「場」(時?)において、色即是空、空即是色、一即是多、多即是一、生即是死、死即是生という運動が起きる。そして、それは、ことばとして生まれ、ことばが世界になる。

 どこからか、ことばが聞こえてくる。そして、そのことばに導かれて歩いていくとき、谷川はことばになる。
 こんな定義にならないような、おなじことばの繰り返し--そういう繰り返しと矛盾でしか語れない何かに谷川は触れている。
 そんなことを感じた。    
                     

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谷川 俊太郎
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