詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

イ・チュンニョル監督「牛の鈴音」(★★★★)

2010-03-13 10:36:11 | 映画


監督・脚本・編集:イ・チュンニョル 出演 牛(40歳)、チェ・ウォンギュン、イ・サムスン

 おじいさんと牛の表情に引きつけられる。動きに引きつけられる。おじいさんは79歳。牛は40歳。ともに、ゆっくりゆっくり動く。ぎごちないが、ともかく自力で動く。いや、働く。義務として。働かないと、生きていけないから……というのは、ちょっと違うなあ。つらいけれど、働くことが好きなのだ。働いていると、いっしょにいることができる。それが好きなのだ。たとえば、畑を耕す。田んぼを耕す。牛に鋤をひかせる。そのとき、ふたり(ひとりと一頭だけれど、ふたりといってしまおう)を邪魔するものはだれもいない。雨が降ったって同じだ。ふたりで雨合羽を着て、ただ黙々と前へ進む。その一歩一歩は、なにより、いま、ここに、いっしょにいる喜びなのだ。
 それは「生きている」よろこびと言い換えてもいいかもしれないけれど、私は、言い換えたくない。「生きているよろこび」いってしまうと、それはうさんくさい「哲学」になってしまう。「哲学」なんて、いらない。ただいっしょにいる。そのことがうれしい。
 それも、「他人」といっしょにいる、ということが。
 「他人」というものは、絶対的にちがった存在のことである。人間と牛だから、ことばは通じない。まったくちがった生き物である。そのまったくちがったものが、ちがったままいっしょにいる。そのとき、そこには「特別」な何かが生まれている。その「何か」をことばなんかにはしない。ことばは、つうじないからね。それが、うれしい。いっしょにいると、ことばをつかわないのに、何かが通じる。それがうれしい。その瞬間が大好きである。
 これは、ふたりとともにいるおばあさんを組み合わせるととてもはっきりする。おばあさんとおじいさんは、ことばをしゃべる。ことばは通じている。けれど、それはいつもおどはあさんから、おじいさんへの苦情ばっかり。文句ばっかり。このおばあさんの苦情、文句、怒りが、なんといえばいいのだろう、一種の「嫉妬」のように、スクリーンをいきいきさせる。おばあさんが、怒りをぶつければぶつけるほど、牛とおじいさんの親密な関係が深まっていく。だれにも邪魔されない、大切なものになっていく。
 牛にも、おじいさんにも、言いたいことがあるかもしれない。文句もあるかもしれない。でも、それは、いわなくてもわかるね。畑を耕す、田んぼを耕す。思い荷物を運ぶ。あ、ここが越えられない。この石一個が邪魔している。それを感じながら、体をゆっくり動かす。邪魔しているものを、そっと抱き込むようにして、乗り越える。そのとき、「肉体」が一致する。ひとつになる。そのとき、いっしょにいるよろこびが高まる。
 もちろん、「ことば」が通じるときもある。「ことば」をかわすときもある。牛が、顔がかゆくてこまっている。棒に顔をこすりつけながら、小さな声を漏らす。おじいさんはそれを聞き取ると、さっと身を起こし、牛に近づき、ブラシで顔の毛をすいてやる。汚れをとってやる。牛が、うれしそうな顔をする。いいねえ。
 ほかにも美しいシーンがいろいろあるが、私が息をのんだのは、おじいさんと牛の足をローアングル。牛と並んでおじいさんが歩いている。それを牛の手前から撮っている。ふたりの顔は見えない。ただ足だけが動いている。それが二人三脚のようにシンクロする。声をかけるのでもなく、ただ歩いているだけなのだが、動きが一致する。
 同じ時間を生きてきて、ほんとうに肉体がひとつになっているのだ。何もいわなくても同じ歩幅で歩いてしまうのだ。これは、いっしょにいるから生まれる美しさなのだ。無意識の美しさだ。
 この無意識の美しさ(牛の声を聴いて、顔をすいてやるのも、おじいさんにとっては無意識である。だからこそ、おばあさんは「嫉妬」する)が、自然の美しさと重なるとき、とてもいい気持ちになる。
 おじいさんと牛のいる村(?)の木々の緑や草の緑がとても美しい。その緑は、毎年毎年繰り返される緑である。毎年毎年生まれる緑である。その、毎年毎年の繰り返し、毎年毎年の生まれ変わり--それが、ふたりにもあるのだ。ふたりはともに「年寄り」である。年を重ねてきている。けれど、ふたりとも年をとってはいない。毎年毎年生まれ変わっている。毎日毎日生まれ変わっている。毎日生まれ変わって、その日にできることをするだけだ。その仕事は他人から見ると繰り返しだけれど、ふたりには繰り返しではない。「よろこび」には繰り返しというものはないのだ。
 ふたりの体は外見は、骨と皮だけの、いわば醜いものだけれど、そういう「老いて」いくものの一方、けっして「老いて」はゆかないものがある。毎日のよろこびがある。それが、ふたりの「老い」を突き破って、瞬間瞬間に輝く。だから、美しい。

 そんな美しい世界にも死はやってくる。別れはやってくる。それが悲しく、切ないね。
 途中、牛を大事にするおじいさんが、村人にからかわれる。「そんなに牛を大事にして、牛が死んでしまったら、どうやって生きていく?」「牛が死んだら、喪主は私だ」おじいさんが笑いながら答えている。それは冗談ではなくて、ほんとうの気持ちなのだ。
 実際に、牛の最期を見取って、牛を山の畑(空き地)に埋めるまで、この映画はきちんと取りきっている。
 それまでの過程にも、感情移入してしまうシーンがいくつもある。一度は、もう育てられないから牛を売ってしまおうとする。それを察知してか、いつもはゆっくりゆっくりとではあるけれど歩く牛が、牛舎からでることさえ嫌がる。市場へ歩いていく途中で止まってしまう。市場では牛が買いたたかれようとする。おじいさんはそれが嫌で高値をつける。牛は売れ残る。そのとき、牛が涙を流す。安心の涙だ。
 いよいよ最期。その前に、おじいさんは手製の鼻輪を外してやる。首につけいてた鈴を外してやる。そのときの寂しさを、無念さを確認するようにして牛が眼を閉じる。ああ、そのとき、牛が見たものは何だったのだろう。おじいさんの顔だろうか。おじいさんがこらえている涙だったろうか。ありがとう、と動いた唇だったろうか。
 スクリーンに映し出されなかったシーンが、くっきりと眼にみえる。それから、涙で見えなくなる。
 (見るときは、ハンカチを余分にもっていってくださいね。)

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