詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長嶋南子「泣きたくなる日」、青山かつ子「淡路亭」

2013-09-16 10:35:13 | 詩(雑誌・同人誌)
長嶋南子「泣きたくなる日」、青山かつ子「淡路亭」(「すてむ」56、2013年08月10日発行)

 長嶋南子「泣きたくなる日」はだれもが経験するようなことを書いている。

どうしても泣きたくなる日があって
柱のかげで泣こうとしても
身をかくすほどの大きな柱が家にはなくて
そんな日は
ご飯を食べていても誰かと会っていても
こっそり涙をふいている

 誰もが経験すると書いたけれど--それじゃあ、なぜ、詩?
 そうだねえ……。私がこの詩でいいなあと思ったのは(ここが詩だなあ、と思ったのは)、

身をかくすほどの大きな柱が家にはなくて

 そんな柱のある家って、じゃあ、どこにある? どこにもない。でも、柱のかげで泣く、という状況はわかるね。現代ではそういう記憶をもっているひとは少ないかもしれないけれど(マンションなんかでは柱そのものがどこにあるかわからなかったりする。柱がなくて、突然壁だったりするからね)、こどものときは確かに柱に隠れるという感じがあったなあ。柱のかげから覗くとか……。昔の家には「大黒柱」というのがある。普通の住宅では大黒柱といっても特別に太いわけではないけれど、家の中心にあって、なんとなく上部に見える。そういうもののかげに隠れる。
 このとき、その柱は実際の柱であると同時に、「もの」ではなくて「象徴」になっている。昔は「日常」に「象徴」があった。「象徴」というのは「日常の意味」を超える何か神聖なものである。
 こういうことは「意味(論理)」ではなくて、「肉体」がなんとなく覚えていること、「肉体化した思想(理念)」である。
 それが刺戟されて甦ってくる。そのとき詩を感じる。--別のことばで言えば、詩人・長嶋の肉体に触れたと感じる、セックスをしたという気持ちになる。

 暮らしには、「柱-大黒柱」のように「流通概念」として「象徴」になったものもあれば、まったく個人的なものとして「象徴」のようになったものもある。
 長嶋の場合は「原っぱ」。

いっそのこと原っぱにいって
オンオン泣けば
ためこんでいたものが一気になくなって楽になるだろう
人前でひそかに泣かなくてすむだろう

 「原っぱ」はさえぎるものが何もない。だから「見られてしまう」。けれどもその「見られる」は「遠くから見られる」である。この「遠さ」の感覚、「象徴」が「原っぱ」。ひとりで泣きたい。けれど誰にも知られないなら泣いたことにはならない。特にこどものときは、ね。こどもは泣いていることを見られたい。
 泣いているとわかっているけれど、その泣いているまで近づいてなぐさめるにはちょっと苦労する。原っぱの真ん中まで歩いていかないといけないからね。だから、ほんとうになぐさめにいくのは(どうしたの、と聞きに来るのは)、大切な友人や家族くらい。「遠さ」は「親密さ」をはかる何かだったのだ。「本能」だったのだ。泣きながら、泣き止めるためのものをこそ、こどもはもとめている。「欲望の正直」がその瞬間に輝く。
 あ、こんなことは、長嶋は書いていないけれど、私の「肉体」はそういうことを思い出す。
 詩のつづきを読むと、そのことがもっとわかる。

けれどまわりは新しい建売住宅ばかりで
原っぱはすでにない
家の前の小さな空き地で大声で泣いたら
頭がおかしい人がいるどこの人だろうかと気味悪がられる

 「遠さ」がないのが「現代」なのだ。大な原っぱなら大声で泣いても聞こえない。小さな空き地なら小さな声で泣いても聞こえる。大声で泣いたら大変である。
 「日常」のなかで「象徴」が「象徴」の意味を持たなくなっている。「象徴」は一種の「浄化作用」であり、それが働かないと、すべてが気味悪くなる。あ、「日常(人間)」はもともと気味悪いものかなのかもしれないけれど……。
 「日常」からだんだん「長嶋の知っていた象徴」が消えていっているのだけれど、そのことに長嶋の「肉体」はなかなかついていけない。その微妙な変化を長嶋のことばはきちんとつかまえている。
 この変化(「日常の象徴」の変化)は、うーん、若い人には継承されていくのかなあ。この長嶋の詩を読んで「日常の象徴」の変化に気がつくかなあ。よくわからない。若い人は若い人で、あたらしい「日常の象徴」というものに向き合っているかもしれない。そのために、古いことばで言えば「世代間ギャップ」のようなことが、ことば(詩)の世界でも起きているだろうなあ。
 若い人は、長嶋の詩を「おばさんの泣き言」くらいにしか思わないかもしれない。「言語の実験がなくて、どうしてこれが現代詩といえるのか」と思うかもしれない。



 青山かつ子「淡路亭」は、「個人の象徴」を書いている。

電車から見える
窓の向こうのビリヤード

むかし
人と別れて
がらんどうにとびこんできた
そこだけが明るい
鮮やかなラシャのみどり

 長嶋が原っぱに逃げ込んで大声で泣いたように、青山はビリヤードに逃げ込んで涙を拭いた。その「逃げて、泣く」ということ(動詞)は、でも、今にも通じる「象徴(行為の象徴、意味を含んだ行為)」なので、なかなかおもしろい。私は若者ではないので、いまの若者がもし「逃げて、泣く」という行為をするとき、どこに逃げ込むのかがわからないけれど……。
 あ、脱線したけれど。
 そうかビリヤードか、と私は何か「肉体」が刺戟される。ビリヤード場は全体はぼんやりとくらい。競技をする台の上だけが明るい。影と明るさの対比があって、まあ、逃げ込むとしたらその「暗がり」のなかへ逃げるのだけれど、逃げ込んでみたら明るさの方が目について……という一種の期待を(予想を)裏切られるようなことがあって、そのときから青山にとっては「ビリヤード」が一種の「哀しみの象徴」になっている。そのことが、私には「ビリヤード」ということばといっしょに実感できる。


そこを通過するたびに
記憶の球がはじけ
みどりの台をこすがって
ことんと落ちる
一瞬がある

 「落ちる」も「象徴」だ。「ことん」も「一瞬」も「象徴」だ。「日常のことば」であるけれど、そこには別の意味(哀しみ)がまじり込んでいる。



猫笑う
長嶋 南子
思潮社

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