詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(41)

2018-03-25 14:09:03 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(41)(創元社、2018年02月10日発行)

 「* 夜ひそかに人が愛する者の名を呼ぶ時、」の最初の断章。

 夜、ひそかに人が愛する者の名を呼ぶ時、それもまた、沈黙との
ひとつの戦いである。その時、意味は言葉にはなく、むしろ声にあ
る。月の夜の草原でコヨーテが長い吠え声をあげるのと同じように、
われわれ人間もまた自らの声で、沈黙と戦う。

 「その時、意味は言葉にはなく、むしろ声にある。」という一文に強く惹かれる。「声」に思わず傍線を引く。私は「声」に対する「好き嫌い」が激しい。
 詩から脱線するが(谷川が書いているのは、私がこれから書くこととは関係ないのだが)、私は美空ひばりの声が好きだ。森進一の声も好き。都はるみは、若いときの声が好き。五木ひろしの声は嫌い。
 で、こう書いてしまって、なぜ「脱線」したのかなあ、私はほんとうは何が書きたかったのかなあ、と考え始める。「脱線」しなければならない「理由」が私にはあったのだ。それは何かというと……。
 「意味」だな。
 美空ひばりの歌を聴いているとき、私は「歌詞(ことば)」を聞いていない。「メロディー」も聞いていない。「声」を聞いている。それを思い出したのだ。
 美空ひばりが好きな理由を、谷川のことばを借りていいなおせば、美空ひばりを聞く「意味」は「歌(歌詞、曲)」にはなく、むしろ「声」にある、ということである。

 さて。

 ここからまた「脱線」するのだが、あるいは、詩にもどるのだがといった方がいいのか。私は考える。谷川の書いている「意味」とは何だろうか。「労働とは、働くという意味である」というときの「意味」とは違うね。
 あえて言いなおせば「重要なこと」だろうか。

その時、「重要なこと」は言葉にはなく、むしろ声にある。
(その時、重要なのは言葉ではなく、むしろ声である。)

 こう言い換えることができる。「大切なこと」とも言いなおせる。
 それでは「何にとって」重要なのか。大切なのか、と問い直す。「肉体」にとってである、と私は直感する。「自分の肉体」にとって重要である。
 先の一文は、

その時、「こころを動かすのは(こころを支配するのは)言葉にはなく、むしろ声である。

 という具合に言いなおすこともできるかもしれないが、わたしは「こころ」の存在を信じていないので、わきにおいておいて考えをすすめる。
 「肉体」と「ことば」と「声」とどういう「関係」にあるのか。(谷川は、言葉、と書いているのだが、ここからは私の考えなので、私のいつもつかっている表記で書く。)
 「ことば」は「肉体」をとおって「声」になる。肉体をとおるから「具体的」である。「聞こえる」ものとしてつかむことができる。書かれていれば「読む」という形でつかむ。この場合も「文字」を「書く」という手を媒介とした動詞、「読む」という目を媒介とした動詞が動く。「ことば」は、こんなふうに「肉体」をともなわない。その分、私には「抽象的」な存在に思える。
 「声」は「肉体」を実際につかって「出す」ものである。「ことば」も「ことばを出す(発する)」という言い方があるが、「声を出す」というときのように、「肉体」の「ここ」をつかってというのとは違う。「声を出す」ときは、「のど」「舌」をどのように動かしているかはわかるが、「ことばを出す」とき「頭(能)」をどのように動かしているかはわからない。もしかすると「頭」ではなく「小腸」で「ことばを動かしている」のかもしれない。脳波を調べればわかるのかもしれないが、それはのどや舌のように、自分の思うようには動かせない。
 「ことば」と「声」を比較すると、「ことば」は抽象的。「声」は具体的である。「声」は「声を出す」という「動詞」を含めた「肉体」の動きとしてとらえなおすことができる。

その時、「重要なこと」は言葉にはなく、むしろ「声に出すこと」ある。

 さらに、「言葉」と書かれていたのは、「愛する者の名」であったから、これは

その時、「重要なこと」は「愛する者の名」にはなく、むしろ「愛するものの名を声に出して、呼ぶこと」にある。

 とも言いなおすことができる。
 「呼ぶ」のは「名」だけではない。「名」をもった「肉体」そのものを「呼ぶ」(招く)でもある。
 「ことば」もまた、「ことばで指し示されたもの」を「呼ぶ」ことだが、これもまた「声を出して呼ぶ」ことに比べると、抽象的である。「声に出して呼ぶ」というのは具体的で、「声の出し方」によって、「呼ぶ-呼ばれる」の間が具体的にゆれる。「やさしい声」で呼ぶ、「怒った声」で呼ぶ、では、その後の関係が違ってくる。

 さらに詩に引き返すのだが。

 谷川は、最初に「愛する者の名を呼ぶ」という「具体」から始まって、その「呼ぶ」という動詞を「声」という名詞で言いなおしている。(私は、これを逆に「声」から出発しなおす形で「声に出す」「呼ぶ」とたどってみたのだが。)言い換えると「具体」から始まり「抽象」へ、ことばを動かしている。
 「具体」は「個別的」であるのに対し、「抽象」は「個別」をこえる。「普遍」(真理)につながるからである。
 なぜ「普遍」につながることを書いたかというと、「コヨーテ」を出すためである。
 「人間」と「コヨーテ」が「普遍(声を出す)」という「動詞」でひとつになる。そうすると「人間」の「動詞」が「人間」の枠を超えて、「いのち」のようなものに結びつく。「人間」の「比喩」が「コヨーテ」なのか、「コヨーテ」の「比喩」が「人間」なのか。どちらでもない。「いのち」が「人間」と「コヨーテ」として、一緒に生まれてくる。「比喩」というか、「例示」というか、別なもので言いなおすとき、「二つの存在」は「一つ」につながり、「一つ」の奥にあるものを浮かび上がらせる。「声を出す」という「動詞」と一緒に。こういうことろが「詩」の魅力。論文では、こういう展開は頻繁には起きない。
 で、この「声を出す」ということを、谷川は「沈黙との戦い」と「定義」している。

 このとき「沈黙」というのは、どこにあるのだろうか。ひとりの「夜」、あるいは「月の夜の草原」ということばから「私」のまわり、「コヨーテ」のまわりに「沈黙」があると読むのがふつうかもしれない。「沈黙」につつまれて、孤独な「人間(私)/コヨーテ」と読むとわかりやすい。
 けれど、「声に出す」という「肉体」に引き返すと、「沈黙」は「肉体」そのもののなかに「ある」とも考えることができる。自分の中にある「沈黙」を突き破るために「声を出す」。その「声」は「名」というような「明確なもの」ではない。すでに存在するものではない。「声」はまだ「名づけられていないもの」を噴出させるためにもつかわれる。「名づけられていないもの」とは「未生のもの」である。「肉体」のなかにある「未生のもの」、それを「生み出す」ために「吠え声」をあげる。
 これが谷川のいう「戦い」。
 「詩」とは自分の中にある、まだ「ことばにらないないもの」と戦い、その存在を「声にする(声に出す)」ことである。声をつかって(肉体をつかって)、「形」を生み出すことである、と言える。
 
 最初に美空ひばりのことを書いたが、私が感じるのは、美空ひばりの声からは「何か」が生み出されていると感じる。それは「ことばの意味」ではない。「感情」という便利な「流通言語」があるが、「感情」と言ってしまうとまた違う。まだ名づけられていない何かがあると感じる。





*


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目次

小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
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聴くと聞こえる: on Listening 1950-2017
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