詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷合吉重「火花」、原口哲也「鏡」

2018-03-31 10:44:14 | 詩(雑誌・同人誌)
谷合吉重「火花」、原口哲也「鏡」(「雨期」70、2018年02月27日発行)

 谷合吉重「火花」。

おれには金輪際
革命的なことなど無いぞと
日々うそぶいていると
季節は冬に入ろうとしていました
女とはまだ
何も起きていなかったが
会いに行くときはいつも体の下の辺に
火花が散ってどうしよもなかったのです
なんとか場末の居酒屋にしけこんでも
自分への侮蔑がまさってきて
それも消えてゆくのでした

 ここには、私のつかわないことばがある。「金輪際」だ。聞いたり読んだりすると、わかる気がするが、自分では口に出したことがないのは、よくわかっていないからだ。
 私の記憶では、たとえば「金輪際、酒は飲まない」というようなつかい方がある。「絶対に……しない」くらいの意味なんだろうなあ。「後悔」がふくまれている。そしてその後悔というのは「自分への侮蔑」とどこかでつながっていると思う。谷合の詩にも「自分への侮蔑が勝ってきて」ということばがある。
 でも、「金輪際」と「自分への侮蔑」は、この詩では「直接」結びついていない。
 「金輪際」は、まず「革命的なことなど無い」と結びつく。「金輪際、ない」。「金輪際」は「否定」と結びついて動いている。その結びつきに「革命(的)」という、強いことばが入ってきている。「革命」って、なんだろうなあ。
 「革命」は「起きる」とか「起こす」という動詞といっしょに動く。「起きる/起こす」という動詞は、この詩のなかではどうつかわれている。

女とはまだ
何も起きていなかった

 女とのあいだで何が起きること。それが「革命」と呼ばれている。少なくとも、この詩ではそうである。とても「重要」なこと、「大きな」ことなのである。
 男と女のあいだで起きること、というのは、ひとつだなあ。
 その「ひとつこと」を思うと、「体の下の辺に/火花が散って」しまうのか。「火花」には華やかさがあり、「散る」には何かさびしさがある。「革命」の「華やぎ」と「さびしさ」のようなもの。
 「革命」といいながら、どうも「革命的」ではない。それで「侮蔑」ということが、自分に対して起きるんだろうなあ。
 これが、「していました」「なかったのです」「ゆくのでした」と「です、ます」調の文体のなかで展開する。それが、妙におもしろい。
 「金輪際」が「侮蔑」にたどりつくまでの「過程」というか、「革命」を否定して「侮蔑」が姿をあらわしてくるまでの過程が、おかしい。書かれていることばのいたるところに「金輪際」が隠れているように思える。何かをしたいという思いと、「金輪際しない」という思いが絡み合っている。谷合の場合は「金輪際しない」というよりも、「金輪際、できない」「永遠にできない」という感じかなあ。(「金輪際、できない」という言い方があるかどうか、わからないが。)
 「場末の居酒屋」には「金輪際、行かないぞ」と思っていたのかもしれない。でも、いくのをやめることが「できない」。そういうことは「金輪際」というおおげさなことばをつかわなくても思えることだけれど、ついついつかってしまう。自分を鼓舞している。だから、自分を侮蔑することにもなる。
 この感じを「侮蔑がまさってきて」という、これまた微妙ないいまわしで語っている。「まさる」は「勝る」。これも、どこかで「革命」に通じるなあ。「革命」は戦い。そこには勝敗がある。
 よくわからないところで、ことばが不思議な形でつながっている。この不思議さが、詩だと思う。
 この不思議さは、後半「短編小説」のような人間関係を描き出す。谷合とは別の、「場末の居酒屋に行く(来る)ことを、やめることができない」男が、谷合の「分身」のようにして登場してきて、「勝ち」をおさめる。谷合は「革命」を起こすどころか、「革命」で倒される側になってしまう。この「いれかわり」もおもしろいので、つづきは同人誌で読んでください。
 私は、谷合は、小説(散文)の方がおもしろくなるかなあ、などと感じながら読んだ。



 原口哲也「鏡」は、ことばの連絡が、原口自身の内部(肉体の内部)で動くというよりも、「文学の内部」へとつながっていく。

深く悲しみを湛えた彼女の瞳孔が ぼくには見える。
「肉体はふたりを隔てる障壁ではないのです」と言って彼女は
ぼくの顳●(こめかみ)に接吻する そのとき地平線が体液の流れに収束し
失語の深さが 魂の地平を垂直に切り裂いていく。
   (注・こめかみは、私のワープロが文字を持っていないので、●で表記した)

 「ぼくには見える」という言い方が象徴的だ。「ぼくは見る」ではなく、「見る」を「見える」と主語を脇へずらしてしまう。「瞳孔が」「見える」は、一種の「受動態」だ。「ぼく」が受け身になっている。女に対して「受け身」を通り越して、「文学」に対して「受け身」になっている。
 原口にとっては、これが「文学」への進入の仕方なのかもしれないけれど。





*


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樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
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