詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「下り坂」

2014-02-21 09:47:00 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「下り坂」(「ポエメール」2014年02月14日発行)

 谷川俊太郎がメールで詩を配信している。谷川俊太郎公式ホームページ『谷川俊太郎.com』http://www.tanikawashuntaro.com/から申し込むことができる。毎週、金曜日に配信される。「下り坂」は先週14日のもの。
 その1連目の途中までの3行。

ものを取り落とす
鋏を 瓶の蓋を 書物を 暦を
みな郷愁に駆られているのか

 いろいろ不思議なことがある。わからないこと、と言い換えてもいい。あるいは、そのことばに刺戟されて思うこと、と言い換えてもいい。読んだ瞬間に、申し訳ないが、谷川俊太郎を忘れてしまう。谷川を忘れて、そこに書かれてあることばに引きつけられてしまう。ことばが引きつけるのは谷川の「日常(体験)」ではなく、読んでいる私自身の「体験(おぼえていること)」である。
 1行目「ものを取り落とす」。この1行の主語は書かれていない。一般的にこういうとき、「私」を主語として補って読むと思う。「私」は「谷川」である。谷川はものを落としたんだなあ、と思って読む。ただし「谷川は」と書いてないので、その補った「私」に読者(私/谷内)が自然に重なる。ものを落としたときのことを思い出す。
 2行目。「鋏を 瓶の蓋を 書物を 暦を」。ここで、私はちょっと立ち止まってしまう。ちょっとではないかもしれない。うーん、と考え込んでしまう。鋏を落としたことはある。瓶の蓋も落としたことがあるし、書物(本)を落としたこともある。でも、暦は、ないなあ。この暦って、どんな暦? 壁にかかっているもの? 上半分に絵や写真があって下に数字がならんだもの? それとも卓上式のもの? あるいは占い(?)につかうナントカ暦? わからないのである。もちろん「書物」だって、どんな本なのかわからないし、瓶の蓋だってどの瓶の蓋なのか見当はつかないが、どんな本、どんな瓶の蓋であっても気にならない。特に瓶の蓋を落とすなんて、あまりにも日常的なことだから、何の瓶の蓋なんて気にしない。開けようとして、開いた弾みに落とすことはしょっちゅうあるし、ときには「落とす」ではなく「捨てる」ということもある。暦は、そういう具合にはいかない。どんな暦を、どんな具合に落とすかがわからない。瓶の蓋がしっかりわかるのに対して、暦は何も思い出せない。
 考え込んでいてもしようがないね。
 3行目。「みな郷愁に駆られているのか」。えええっ、と私は声がでてしまう。「みな」って何? 鋏、瓶の蓋、書物、暦のこと? 鋏、瓶の蓋、書物、暦に郷愁を感じる「こころ」ってあるのかなあ。

 で、ここで、私は突然1行目にもどる。「ものを取り落とす」。このときの主語を「私(谷川)」と思って読んだ。その主語は、2行目に引き継がれている。「(私は)鋏を 瓶の蓋を 書物を 暦を(落とす)」とことばを補って読んでいる。ことばを補って読みながら、「暦」につまずいている。
 その「つまずき」を利用して(?)、3行目へ移るとき、主語が代わっている。「私(谷川)」ではなく、もの(鋏、瓶の蓋、書物、暦)になっている。
 いや、これは正しくないね。主語は後退したのではなく、とけあって、ひとつになっている。落ちていくもの(鋏、瓶の蓋、書物、暦)は郷愁に駆られている。そして、落とす人(私/谷川)も郷愁にかられている。--ただし、断定しない。駆られている「のか」と疑問形になっている。疑問形といっても、もちろん、疑問なんかではなくて、疑問を装って、その方向に意識を集中させている、動かしているのだけれど。
 このときの主語の変化(変遷)、主語の融合の仕方、作為的にかきまぜているという感じにならないことばのスピード(実際、谷川の場合「わざと」ではなく、自然にそうなってしまうのだろうと思うけれど)、それがとてもおもしろい。

 詩は、このあと「落とす」「拾う」/「落ちる(とは書いていないのだけれど)」「下り坂」という組み合わせ、「落ちる」「衰える(下る)」ということばの重なり合い、さらにそれを押し進めて「晩秋(落ち葉--は書かれていないが)」「死者」を呼び込む。詩は、いわば、最初の3行を説明する形で動いていく。(「ポエメール」で確認してください。)
 その展開は、詩のことばの一種の「定型」かもしれない。
 で、それはそれで美しいのだけれど、私はその運動よりも、最初の「暦」がでてきたときの、わけのわからなさに感動してしまう。わけのわからない「暦」が「時間」そのものを浮かび上がらせる詩の展開をどこかで支えていると感じる。わけのわからない「現実(もの/事実)」があるから、それを出発点としてはじまることばの運動を信じることができる。
 あ、ほんとうにこのとき谷川は暦を落としたんだ、と思う。その暦がどんなものかわからないのに、わからないまま、暦を落とした谷川を見ている気持ちになる。落とした暦と向き合って、ことばを動かしている、ことばを動かしながら「いま/ここ」をととのえているその姿を見ている気持ちになる。
 「もの」を落とし、落としたと気づくことで「落とされたもの」になり、落としたままにしておくと「自分そのもの」をも落とした状態に置き去りにすることになると思い、拾いあげる。「拾うひと」になり、「落とす」と「拾う」という向き合った動詞のなかで「肉体」を動かす。
 そうか、落としたものを拾うこと、そういう往復(?)運動を書くことが詩を書くことなのか--と感じている谷川が見えてくる。落としたら拾う、そのありふれた行為を自分の肉体でしっかり確かめる。そうしたら、そこに詩があらわれてくる。その詩を書いて見ませんか、と読者に誘いかけているようにも見える。



 付録。
 「ポエメール」には谷川が朗読している動画もついている。また質問コーナーやプレゼントもある。なんとかしてひとりでも多くの(ひとりでも新しい)読者に近づいていこうとする谷川の姿勢がいきいきと動いている。
 詩は「下り坂」という「晩年(晩秋)」を書いているが、谷川の実際の行動はとても若い。早春、という感じだ。
 ひとは一般的に年を重ねるとともに老いていくのだけれど、谷川の精神はどんどん若く、華やいでゆく。これは、まねしたい。
自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)
谷川 俊太郎
岩波書店

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