ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

江戸の出版文化

2020-08-02 19:16:17 | 日記

 前回、浮世絵とそれを描いた絵師について触れましたが、江戸の出版文化は浮世絵ばかりではありません。五代将軍・綱吉の元禄年間になると、庶民が本を読むようになり、出版物が盛んになります。小説をはじめとして地図類や旅行のガイドブックなども人気がありました。また名所旧跡、寺院仏閣、景勝地の由来や来歴を書き記した「名所図会(ずえ)」。これは名所に関する芸文や物語なども載っており、地誌といってもよく、教養のための本でもありました。京都を扱った『都(みやこ)名所図会』、江戸を扱った『江戸名所図会』などは高価なものでしたが、庄屋や名士のお金持ちがステータスシンボルとして買っていたようです。今でいえば百科事典をリビングに飾るようなものですね。

 江戸市内の識字率は高く、平仮名はほぼ百パーセントが読めたようです。ですから絵草子(えぞうし)でも何でも、漢字の脇に仮名が振ってあれば読めました。そこで意外なベストセラーが登場するわけです。出版物の中で一番のベストセラーは何と「武鑑(ぶかん)」。これには大名の家臣の名前や紋所、代々の系図や給料の額まで載っています。城での役職も書いてあるので、例えば呉服屋が反物を売る時、誰のところに行けばいいかわかりますよね。商人には必須のアイテムでした。また、大名行列の時の槍の先が図になっているので、遠くから見てもどこの大名行列かわかるのも便利だったようです。

 何だかんだいっても、庶民の関心はやはり小説です。庶民の読み物として最初に流行したのが井原西鶴(いはらさいかく)に代表される浮世草子。ご存知『好色一代男』や『日本永代蔵』、『世間胸算用』といった類ですけれど、これは上方で流行しました。江戸では最初、赤本、青本、黒本と呼ばれる草双紙が出ましたが、これらは主に子供から少年層を対象にしたものでした。やがて大人を対象にした黄表紙本が出版されるようになり、恋川春町(こいかわはるまち)の『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』、山東京伝(さんとうきょうでん)の『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』が評判になりました。。

 京伝はまた洒落本の世界でも第一人者でしたが、寛政の改革の時出版取締令に触れ、手鎖(てぐさり)五十日の刑を受けました。次に出てきたのが合巻本。これは草双紙を五冊分合わせて一冊にしたもので、京伝なども書いていますけれど、やはり『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』で人気を博した柳亭種彦(りゅうていたねひこ)が第一人者といえましょう。

 洒落本の京伝、合巻本の種彦とくれば、人情本の為永春水(ためながしゅんすい)、読本の滝沢馬琴(たきざわばきん)ですね。人情本は遊びを越えて恋の真情を追求したもので、挿画の美しさにも力が注がれており、春水の『春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)』などが代表的なものです。読本とは絵本に対する語で、絵を見るより文字を読むもの、その背後には儒教思想に基づく勧善懲悪の理想が掲げられています。そして和文と漢文調を折衷した読本独自の韻律を感じさせる文章になっているのが特徴といえましょう。長編が多く、代表作としては馬琴の『南総里見八犬伝』があげられます。

 南総里見八犬伝南総里見八犬伝 春色梅児誉美

 このほか笑いを目的とした滑稽本というのもありました。『東海道中膝栗毛(ひざくりげ)』の十返舎一九(じっぺんしゃいっく)、『浮世風呂』『浮世床』の式亭三馬(しきていさんば)などが代表的なものです。これはほんの一部ですから、いやはや江戸の出版文化、なかなか盛んだったようです。

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江戸の浮世絵師

2020-07-19 19:10:17 | 日記

 今日は久しぶりに晴れてお出掛け日和になりましたが、新型コロナの感染者が拡大しているので、なかなか旅行にも行きづらいですよね。早く安心して旅行に行けるようになるといいですね。
 旅行といえば旅行土産。今は便利な世の中になりましたし、いざとなれば宅急便という手もあるので何でもお土産にできますけれど、お江戸の昔はそうはいきません。自分の手荷物として持ち歩かなければならないわけですから、軽くてかさばらないものが選ばれました。江戸土産といえば、浮世絵か浅草海苔が通り相場だったようです。

 お土産にもなった浮世絵。それを描いた浮世絵師は絵師とは呼ばれましたけれど、それまでの「狩野派」や「やまと絵」の絵師たちとは違っていました。狩野派などの絵師たちはお抱えで扶持をもらい、お城の襖絵などを描いていたのですが、浮世絵は「売ってなんぼ」のもの。売れなければ話になりません。芸術というより娯楽に徹したもので、遊里や芝居に題材をとり、遊女や役者を描いたのが浮世絵のはじまりでした。今でいうブロマイドのようなものですね。「見返り美人」で有名な菱川師宣(ひしかわもろのぶ)が浮世絵の開祖といわれます。浮世絵というのは、この世を写した風俗画というような意味であり、浮世というのは「当世風」「遊楽的」「享楽的」などの意味でも使われました。

 やがて背景を描き込むようになり、風景画や花鳥画なども盛んになりますが、「売れるか売れないか」が勝負であることに変わりはありません。多色刷りも主流となっていき、「錦絵」と呼ばれるようになりますけれど、この創始者は美人画で有名な鈴木春信(はるのぶ)だったといわれます。春信は遊女のほか笠森お仙など町の評判娘をモデルとして日常生活を描き、人気を博しました。一時は春信風の美人画一色となりましたが、その後八頭身美人を描く鳥居清長(とりいきよなが)と顔を中心に上半身を描く喜多川歌麿(きたがわうたまろ)の二大美人画絵師の時代となりました。

 高名三美人・歌麿画

 また謎の浮世絵師といわれ、役者の特徴をリアルに描く独特の画風で注目された東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)。彼は一年もしないうちに忽然と姿を消してしまいましたけれど、これにはいろいろな説があります。ひとつには、写楽というのは個人名ではなく、プロジェクトチームの名前だったのではないか、というんですね。絵師はその一員として「版下絵(はんしたえ)」を描きます。しばしば画工(がこう)とも呼ばれました。「版元(はんもと)」があって、プロデュースする「案じ役」がいて、画工がいて、「彫(ほ)り師」がいて、「刷(す)り師」がいて、一枚の浮世絵が出来上がるわけですから、そのチーム名だったという説にも頷けます。

 東海道五十三次(由井)・広重画

 文化文政期になると浮世絵はさらに盛んになっていきます。なかでも全盛を誇ったのが歌川派で、豊国、国芳などを排出しましたが、風景画家として大成した歌川広重(ひろしげ)は「東海道五十三次」「木曽街道六十九次」「名所江戸百景」など著名な作品を残しました。そしてもう一人、忘れてならないのが葛飾北斎(かつしかほくさい)です。「富嶽三十六景」はあまりにも有名ですよね。彼等は世界にも大きな影響を与えました。もともとは芸術を目的としないものでしたが、世界で芸術として認められたのです。

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夏の風物詩

2020-07-05 19:02:19 | 日記

 大分暑くなってきましたけれど、暑さはこれからが本番です。今年は例年より暑いとの予想で、マスクをしなければならない状況下、熱中症も懸念されます。私は昔、夏の風物詩が好きで、夏は結構好きな季節だったのですが、最近は冷房も苦手になりましたし、暑さも異常な暑さになるので耐えられなくなりました。

 そんなどうしようもない状況を慰撫してくれるのが風物詩。遠くから聞こえる祭囃子や浴衣を着た女性が団扇を使っている姿、ど~んと色とりどりに上がる花火、微かに聞こえる風鈴の音、蝉の声。みんなみんな大好きです。今は梅雨ですけれど、この鬱陶しさを慰めてくれるものはやはり紫陽花や菖蒲といった植物でしょうか。我が家の近くの公園でも紫陽花が見頃になっています。特にアナベルという白い花が咲く品種はあでやかな花をつけていますけれど、菖蒲はもう終わってしまいました。立ち葵なども綺麗ですね。

   アナベル

 この先、真夏にはどんな花が咲くのでしょう。
 「炎天の 地上の花や 百日紅(さるすべり)」(高浜虚子)という句がありますが、本当に夏はこの花。これから公園でも咲きますけれど、市の花になっているところでは沿道に植えてあるのを見たことがあります。車で通っただけなのですが、一列に並んだ百日紅の花がとても綺麗だったのを覚えています。

 また、夏といえば向日葵(ひまわり)。「かめに生けし 五尺の向日葵 しんしんと 水吸いあげて ゆらぎもぞする」(若山喜志子)。瓶に生けた向日葵がしんしんと水を吸い上げて、その勢いに揺らいでいるように見えるという、向日葵の生命力を感じさせる歌です。見るからに頭が重たげで、それでもしゃんと立っている向日葵。一輪でも迫力がありますけれど、向日葵畑のように数千本集まっていると、もう見事というほかありません。

 木々の間にひっそりと咲いているヤマユリなども心惹かれますけれど、夕顔というのもいいですね。「心あてに 見し夕顔の 花散りて 尋ねぞ迷ふ たそがれの宿」(松平定信)。目印にしていた夕顔の花が散って、尋ね迷うたそがれ時の我が家であるよ、というのですが、まさか迷うこともありますまい。それでも、いつも目にしていた夕顔の花がなくなって、ふと迷うような気持になることはあるかもしれません。いつもの通りにあるお店がなくなっただけで、曲がる場所に迷うことってありますよね。この歌はその目印を夕顔としてあるところに風情を感じますし、詠んだ作者にも意外性があります。

 蛍なんていうのも風物詩のひとつですね。「おともせで 思ひにもゆる 蛍こそ なく虫よりも あはれなりけれ」(源重之)。声を立てて鳴く虫よりも、鳴かずに身を焦がしている蛍の方が、心に沁みるものかもしれません。まだまだありますよ。「蚊ばしらや 棗(なつめ)の花の 散るあたり」(加藤暁台)。夏の夕暮、棗の花の散っているあたりに蚊ばしらが立っているんですね。これもひとつの風物詩です。夕暮といえば夕立もそうです。「夕だちや 草葉(くさば)をつかむ むら雀」(与謝蕪村)。激しい夕立に遭い、雀の群れが必死に草葉にしがみついている様子が伝わってきます。

 夏の歌や俳句によく詠まれるほととぎす。芭蕉の句にも「ほととぎす 大竹藪を もる月夜」というのがありますけれど、これは以前ブログにも書きました嵯峨野にある落柿舎での吟です。あのあたりには竹林が多く、今では観光地のひとつにもなっていますね。
 本当に夏の風物詩には心慰められることが多いのですが、マスクをしなければならないこの夏、どこまで耐えられるでしょうか。

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江戸っ子の美学

2020-06-21 18:59:33 | 日記

 前回深川芸者の心意気について触れましたが、これは江戸っ子の美学にも通じることなので、今回はそれについて考えてみましょう。
 江戸初期から数十年の間、江戸特有の個性というものはありませんでした。しかしやがて強烈な自意識、独特の気性が出てきます。江戸っ子といわれる人々です。この江戸っ子とは本来、「粋(いき)」と「通(つう)」と「はり」に生きた人々のことであり、ある意味で精神性の高い人々であったともいえるでしょう。

 粋とはもともと意気のことで、元気があって色っぽく、垢抜けていて新しもの好きのことをいいます。さりげなさが身上で、わざとらしく格好をつけるのは野暮天(やぼてん)といってさげすみました。粋と幾分似ているものに鯔背(いなせ)というのがあります。魚の鯔(ぼら)のように背を丸めて気負った姿をいい、気っ風がよくて威勢のよいことを指します。野暮天相手に斜にかまえるのが粋なら、「こわくはねぇぜ」と強がって見せるのが鯔背。「粋の深川、鯔背の神田」といわれるように、深川には色っぽさがあり、職人の多い神田は男っぽくて威勢が良かったんですね。

 町人たちは自らの生活を豊かに楽しもうとし、芝居や遊里、歌舞音曲や祭礼などの娯楽に精を出しました。趣味や遊びに通じることはお金も大変ですけれど、長い修練をやり通す精神力も必要です。そして遊びの極致をきわめることが通人としての資格であり、通といわれるものでした。通が遊びをきわめる行動原理なら、粋はそれを支える美意識であったともいえます。よく芝居や落語に登場する大店の若旦那。心意気もあり、遊び上手で、人情の機微に通じ、融通が利くという、生き方自体が生活美学になっている人々。これが通と呼ばれる人たちだったんですね。

 もう一つ、はりというのがありますが、これは文字通り張り合うことです。歌舞伎に「助六」というのがありますよね。助六は最初から最後まで徹底的に張り合っています。いうなれば、助六ははりの勝利者ですけれど、ただこのはりは我を張り通すのではなく、義と侠に裏打ちされた自意識のはりでもあります。黒羽二重(くろはぶたえ)に紅絹裏(もみうら)という粋な着付け、相手への小気味良い啖呵など、江戸っ子の美意識が集約されているのも見どころです。

 助六

 子供の頃、萬屋錦之介(よろずやきんのすけ)さん演じるところの「一心太助(いっしんたすけ)」という映画がありました。ただの魚屋なのですが、威勢がよくて義理人情に厚い江戸っ子の典型として描かれています。少し意地っ張りなところもありましたが、意地でも何でも美学を持っているというのはいいですね。その美学を死ぬまで貫いた人には憧れますけれど、あんまり長生きすると意地もはりもなくなって、みっともない生き様になるのではないかと心配になります。

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深川芸者

2020-06-07 19:09:45 | 日記

 若い頃、歓送迎会に芸者さんが来ると聞いて喜び勇んで行ったことがあります。日本髪を結い、着物の裾を引きずりながら踊るあの美しい姿を勝手に思い浮かべていたんですね。さんざん待たされて、やっと到着したのはかなり年配の芸者さんでした。日本髪でもなく、地味な着物を着た地味な作りのおばさんが、三味線だけ弾いてくれたのを覚えています。

 さて江戸の芸者さんの始まりは女歌舞伎であったといわれます。最初の頃はどうしても遊女の要素が強く、遊女が女歌舞伎を真似て踊りを取り入れたようですが、やがて遊芸の心得のある芸者と、その心得のない遊女とに分化していきます。つまり芸と売笑を兼ねる踊子と、売笑婦専門の女郎とに分かれるわけです。それでも過渡期には双方区別のつかないこともあったようで、女郎が芸者に「三味線箱へ枕を入れてあるけ」と罵ったり、芸者が女郎に「三味線は弾かせまい」といって揉めることも多々あったとか。分化したとはいえ、芸は売っても色は売らないという心意気のある芸者さんは少なかったんでしょうね。

 そもそも幕府公認の遊里は吉原だけでした。それ以外は私娼窟であり、岡場所と呼ばれたんですね。ただ内藤新宿、千住、板橋、品川の四つの宿場は官許の私娼なので、岡場所とは呼びませんでした。何といっても最大の岡場所は深川。天保八年(1838年)の頃には芸妓と娼妓合わせて七百人を超える女たちがいたといいます。芸妓の女性を女芸者、幇間(ほうかん)や太鼓持ちを男芸者と呼びましたが、次第に芸者といえば女芸者を指すようになりました。女芸者の中にも売春をする者がいて、枕芸者、転び芸者などと呼ばれましたが、これは取り締まりの対象となりました。

 江戸の女芸者の元祖は、芳町にいた菊弥という唄の女師匠だったといわれます。あまりの人気に男娼たちの悋気を買い、深川へ逃れて茶屋を営み、そこから深川芸者が生まれたのだそうですけれど、男勝りの深川芸者が生まれるのにはさまざまな事情もあったようです。

 深川八幡宮之図(豊国画)

 大岡越前守が吉原以外の所で売笑することを禁じ、私娼窟に対して厳罰をもってのぞむようになった時、女子を売らなければ生活できない貧困層の人間は何とかして法の網を潜り抜けようとしました。そうして生まれたのが男年季証文です。芸者として売られる時、男の奉公人として契約され、町家の丁稚奉公人のように何吉、何次、何助のように男名前で証文を作りました。服装も当時女性は羽織を着なかったのですが、羽織を着ることによって男装化したんですね。足袋を穿かず、男用の下駄を履くのもそのためです。自然、男のような口調にもなり、意気地と張りが売り物になりました。江戸の粋の象徴ともいわれます。男装化しなければならなかった深川芸者が、侠(おとこだて)であったのは当然のことといえましょう。

 深川は江戸の辰巳の方角にあったので、深川芸者は辰巳芸者とも呼ばれ、その身形から羽織芸者ともいわれました。深川芸者が着はじめた女羽織は、江戸の上流婦人や関西芸者にも普及し、天保以後には一般婦人も着るようになりました。深川芸者は今でいうファッションリーダーであったともいえますね。

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