先日、モリエンテスとサラゴサの一件がほんのちょっとニュースになった後で、ふと思いついて、「Morientes Zaragoza」でいろいろと検索してみました。それで見つかったのが
こんな記事。
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モリエンテス、サラゴサ所属ながら、マドリーの検診を受ける
クラブ(マドリー)は、期限の1時間前に移籍金を支払う
フェルナンド・モリエンテスは昨日、まだサラゴサの選手でありながら、マドリーの他の選手たちと共にメディカルチェックをパスした。この異例の状況は、アラゴンのクラブ(サラゴサ)が最後通告を行ったためで、モリエンテスの違約金条項である10億はLFP(リーガ・プロフェッショナル・フットボール)に供託され、マドリーは期限のほとんど1時間前になって支払いを済ませた。
レアル・マドリーは火曜日の午後、サラゴサに対して、ダニの買戻しの小切手が到着していること、昨日(水曜日)午前10時30分にモリエンテスの違約金10億がLFPに供託されたことを確認した。アルフォンソ・ソランスは、ロレンソ・サンス(ご存知、当時のマドリー会長)が「まったくもってばかげている」と隠しもせずに発言したことを非常に懸念、マドリーの未払い状態が続いている状態に、LFPに対して法的代理人を送ることを決めた。モリエンテスがラ・ロマレダに姿を表さなければいけなかった時間が過ぎ、サラゴサの首脳陣たちはレアル・マドリーに対し、違約金が午後までに支払われなければ、モリエンテスに対し契約を白紙に戻す介入を求めると通達した。この通達がリーガの上層部に送られたのはほんの昨日のことで、同時にフェルナンド・モリエンテスの資格剥奪も要求されていた。
12時10分、期限まで50分というところで、レアル・サラゴサの事務局長であるフランシスコ・チェカが、サラゴサは、モリエンテスの違約金に相当する小切手、総計11億6000万を受け取ったこと、また朝のうちにダニの分である2億7000万を速達で受け取ったことを、公式に発表した。
(後略)
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記事の日付は1997年7月24日。モリエンテスがマドリーに加入する直前のニュースです。マドリーに移籍するときに、こんなゴタゴタがあったとは知りませんでした。サンス父親、ちゃんとお金払ってくれて良かった。
ところで、最初はこの記事を読みながら、私は非常に驚きました。モリエンテスの違約金が10億って。今のクリスチアーノ・ロナウドあたりでも数千万ユーロとか、超高額設定されているビジャも1億5000万ユーロとかなのに。
というところまできて気がついた。当時の通貨単位、まだペセタだったんですねー。
正確に今のレートに直すといくらなのか知りませんが、ユーロ切り替えの頃で、だいたい1ユーロ=166ペセタだそうです。なので、モリエンテスの違約金10億(ペセタ)はおよそ600万ユーロ、日本円で7億2000万円くらいでしょうか。それでも、移籍金が高騰する前の、リーガ・エスパニョーラの21歳のFWとしては、けっこうなお値段だったと思います。やっぱり、サンス父親、払ってくれて良かった。
ねこ
さらに、もうひとつ見つけたのが
この記事。マドリー公式の中にある、歴代レジェンドを紹介するコーナーの、モリエンテスのページ。検索でたどり着くまで、そんなページがあるとは知りませんでした。いつもニュース、ビデオくらいしか見てなかったから……。
後列中央にモリエンテスとラウル
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「いい顔」のこの少年は、最後はラウルと共にプレイして終わることになるだろう、と書かれていた。2人はピッチの外でも中でも友人であり、既に代表の下部カテゴリーで出会っていた。フェルナンド・モリエンテスは、現役で最も経験と成功を積んだスペイン人選手の1人だ。その大部分はレアル・マドリーで上げたもので、このクラブで彼は、その素晴らしいプレイを成長させた。
カセレスで生まれたものの、モリエンテスは4歳でトレドのソンセカに引っ越した。フットボールを始めたのはアルバセテで、初めは下部、後にトップチームに昇格した。しかしラ・マンチャのこのクラブがプリメーラのカテゴリーから降格したことが、モリエンテスに別の道を選ばせた。エスナイデルがレアル・マドリーに移籍した後を受け、1995年7月にサラゴサに加入した。
2年目にはチーム最多得点を記録するなどサラゴサで素晴らしい2シーズンを過ごした後、1997-1998シーズン、ファビオ・カペッロのレアル・マドリーは、モリエンテスを指揮下に置いた。当初から、ラウルとモリエンテス、モリエンテスとラウルはパーフェクトな「ダンス・カップル」となった。白のクラブでの最初のシーズン、エル・モロは目につく12ゴールを挙げ、最終的にシュケルに代わって先発の座に着き、そのゴレアドールとしての嗅覚を確かなものとした。
「8番目」への道を拓く
モリエンテスは、2005年までレアル・マドリーに所属、スペイン、ヨーロッパで可能な限りのタイトルを手にし、さらには2回のインターコンチネンタル杯も勝ち取った。しかし、間違いなく、モリエンテスのキャリアで最も重要な瞬間のひとつは、サン・ドゥニでのファイナルだろう。ヨーロッパの最高峰の戦いの歴史上初めてとなる、スペイン・チャンピオンズ・リーグのファイナルで、レアル・マドリーは3-0でバレンシアに勝利した。モリエンテスは、最初に「7番目」を掲げた2年後にこの「8番目」を手にした(さらに2年後、「9番目」も手にする)。加えて、モリエンテスはフランスの首都での試合で、最初のゴールを決めたのだ。アネルカとのワンツーからミチェル・サルガドがボールを供与し、モリエンテスはペナルティエリアの中でゴールを決めた。
レアル・マドリーで8シーズンを過ごした後、2003/2004シーズン、「9」はASモナコFCにレンタルされた。ここで人々は、蘇った最高のモリエンテスを目にする。このクラブでモリエンテスはUEFAチャンピオンズ・リーグのファイナルに到達し、得点王にもなった。2004/2005シーズン、レアル・マドリーは彼を取り返す。しかしモリエンテスはこのチームでの先発を手に入れられず、このため2005年の冬に、リバプールへの移籍を決めた(この年、リバプールはチャンピオンズ・リーグのタイトルを手にするが、レアル・マドリーでこの大会に参加していたため、モリエンテスは1試合も出場することができなかった)。「レッズ」で、モリエンテスはヨーロッパ・スーパーカップ(2005)とイングランド・カーリングカップ(05/06)を手にする。プレミアでの2シーズンの後、モリエンテスはスペインに戻り、バレンシアに籍を置いた。
「ラ・ロハ」におけるゴレアドールの表彰台
レアル・マドリーのダンス・カップル、フェルナンド・モリエンテスはスペイン代表でも、マドリディスタのカピタンとダブルスを組んだ。代表デビューは1998年3月25日、ビゴ(ガリシア)で、スウェーデンに4-0で勝利した試合。この時モリエンテスは2ゴールを挙げた。何よりも目覚しいのは、ワールド杯フランス大会(1998)、日本・韓国大会(2002)、ユーロポルトガル大会(2004)に参加したことに加え、モリエンテスが歴代ゴール数の上位に入ることだ。27ゴールは、ラウル(44ゴール)、イエロ(29ゴール)に続いて、スペイン代表歴代3位となる。
特性
フットボール選手として、空中戦、力強いショット、両足の能力が強調されている。ペナルティエリアの「キラー」であり、そのゴレアドールとしての嗅覚は、彼がたどってきた豊かなキャリアの中で示されてきた。スペイン、フランス、イングランドという欧州の主要リーグの中の3つで、その目覚しさを見せることができたのだ。
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という紹介でした。以下、言いたいこと&感想。
○フルネームの記述が、Fernando Morales Sanchez。モラレス? 公式、一番大切なところを間違えないでください。
○いや、もしかしたらこれまで知らなかっただけであって、モリエンテスの本名はモラレスさんだったの?
○公式キャッチフレーズ「El gato de Sonseca」。ソンセカのネコ。うーん……弱そう。ていうか、なんでネコ? どのあたりがネコ?
○「Acehuche」と生まれた町の名前まで正確に書いてあります。グーグルマップで検索すると、あとほんの数十kmでポルトガルという、スペインの端の方の、湖と川がいっぱいある、町を離れたが最後しばらく何にもなさそうな…。でも風景は良さそう。
○人口は960人だそうです。
○モナコで活躍した件で、マドリーに勝ったことには触れてません。
○リバプールではイマイチでしたが、それでも活躍したことにしてくれている。優しい。
○代表ゴール数は今3位となってますが、これはまもなくビジャに抜かされますね(確かビジャは今25ゴール)。モリエンテス、さすがにもう増えないだろうなあ…。
○ちなみに、1試合あたりのゴール率もなかなかのモリエンテスですが、これも確かビジャに抜かされてた気がする。
○あえて言うならば、1ゴールするのに必要な時間(もしくは出場時間あたりのゴール数)、という計算をしていただくと、相当な記録になるはずのモリエンテス。代表では、先発試合数もフルマッチ出場試合数も多くなかったのに、ちゃんとゴールしてた。はず。
○現役の選手の中で「レジェンド」にページをもらっているのは、セードルフ、ロベルト・カルロス、エルゲラ、フィーゴ、マケレレ、ロナウド、ベッカム、そしてモリエンテス。