けんきゅうきろく(と、あともうひとつ)

レアル・マドリー、リーガエスパニョーラ関係の、なんとなく気になるニュース。

新たな古いもの

2009-04-03 22:29:03 | football
先日、モリエンテスとサラゴサの一件がほんのちょっとニュースになった後で、ふと思いついて、「Morientes Zaragoza」でいろいろと検索してみました。それで見つかったのがこんな記事


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モリエンテス、サラゴサ所属ながら、マドリーの検診を受ける
クラブ(マドリー)は、期限の1時間前に移籍金を支払う

フェルナンド・モリエンテスは昨日、まだサラゴサの選手でありながら、マドリーの他の選手たちと共にメディカルチェックをパスした。この異例の状況は、アラゴンのクラブ(サラゴサ)が最後通告を行ったためで、モリエンテスの違約金条項である10億はLFP(リーガ・プロフェッショナル・フットボール)に供託され、マドリーは期限のほとんど1時間前になって支払いを済ませた。

レアル・マドリーは火曜日の午後、サラゴサに対して、ダニの買戻しの小切手が到着していること、昨日(水曜日)午前10時30分にモリエンテスの違約金10億がLFPに供託されたことを確認した。アルフォンソ・ソランスは、ロレンソ・サンス(ご存知、当時のマドリー会長)が「まったくもってばかげている」と隠しもせずに発言したことを非常に懸念、マドリーの未払い状態が続いている状態に、LFPに対して法的代理人を送ることを決めた。モリエンテスがラ・ロマレダに姿を表さなければいけなかった時間が過ぎ、サラゴサの首脳陣たちはレアル・マドリーに対し、違約金が午後までに支払われなければ、モリエンテスに対し契約を白紙に戻す介入を求めると通達した。この通達がリーガの上層部に送られたのはほんの昨日のことで、同時にフェルナンド・モリエンテスの資格剥奪も要求されていた。

12時10分、期限まで50分というところで、レアル・サラゴサの事務局長であるフランシスコ・チェカが、サラゴサは、モリエンテスの違約金に相当する小切手、総計11億6000万を受け取ったこと、また朝のうちにダニの分である2億7000万を速達で受け取ったことを、公式に発表した。
(後略)

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記事の日付は1997年7月24日。モリエンテスがマドリーに加入する直前のニュースです。マドリーに移籍するときに、こんなゴタゴタがあったとは知りませんでした。サンス父親、ちゃんとお金払ってくれて良かった。
ところで、最初はこの記事を読みながら、私は非常に驚きました。モリエンテスの違約金が10億って。今のクリスチアーノ・ロナウドあたりでも数千万ユーロとか、超高額設定されているビジャも1億5000万ユーロとかなのに。

というところまできて気がついた。当時の通貨単位、まだペセタだったんですねー。
正確に今のレートに直すといくらなのか知りませんが、ユーロ切り替えの頃で、だいたい1ユーロ=166ペセタだそうです。なので、モリエンテスの違約金10億(ペセタ)はおよそ600万ユーロ、日本円で7億2000万円くらいでしょうか。それでも、移籍金が高騰する前の、リーガ・エスパニョーラの21歳のFWとしては、けっこうなお値段だったと思います。やっぱり、サンス父親、払ってくれて良かった。


ねこ
さらに、もうひとつ見つけたのがこの記事。マドリー公式の中にある、歴代レジェンドを紹介するコーナーの、モリエンテスのページ。検索でたどり着くまで、そんなページがあるとは知りませんでした。いつもニュース、ビデオくらいしか見てなかったから……。


後列中央にモリエンテスとラウル

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「いい顔」のこの少年は、最後はラウルと共にプレイして終わることになるだろう、と書かれていた。2人はピッチの外でも中でも友人であり、既に代表の下部カテゴリーで出会っていた。フェルナンド・モリエンテスは、現役で最も経験と成功を積んだスペイン人選手の1人だ。その大部分はレアル・マドリーで上げたもので、このクラブで彼は、その素晴らしいプレイを成長させた。

カセレスで生まれたものの、モリエンテスは4歳でトレドのソンセカに引っ越した。フットボールを始めたのはアルバセテで、初めは下部、後にトップチームに昇格した。しかしラ・マンチャのこのクラブがプリメーラのカテゴリーから降格したことが、モリエンテスに別の道を選ばせた。エスナイデルがレアル・マドリーに移籍した後を受け、1995年7月にサラゴサに加入した。

2年目にはチーム最多得点を記録するなどサラゴサで素晴らしい2シーズンを過ごした後、1997-1998シーズン、ファビオ・カペッロのレアル・マドリーは、モリエンテスを指揮下に置いた。当初から、ラウルとモリエンテス、モリエンテスとラウルはパーフェクトな「ダンス・カップル」となった。白のクラブでの最初のシーズン、エル・モロは目につく12ゴールを挙げ、最終的にシュケルに代わって先発の座に着き、そのゴレアドールとしての嗅覚を確かなものとした。

「8番目」への道を拓く
モリエンテスは、2005年までレアル・マドリーに所属、スペイン、ヨーロッパで可能な限りのタイトルを手にし、さらには2回のインターコンチネンタル杯も勝ち取った。しかし、間違いなく、モリエンテスのキャリアで最も重要な瞬間のひとつは、サン・ドゥニでのファイナルだろう。ヨーロッパの最高峰の戦いの歴史上初めてとなる、スペイン・チャンピオンズ・リーグのファイナルで、レアル・マドリーは3-0でバレンシアに勝利した。モリエンテスは、最初に「7番目」を掲げた2年後にこの「8番目」を手にした(さらに2年後、「9番目」も手にする)。加えて、モリエンテスはフランスの首都での試合で、最初のゴールを決めたのだ。アネルカとのワンツーからミチェル・サルガドがボールを供与し、モリエンテスはペナルティエリアの中でゴールを決めた。

レアル・マドリーで8シーズンを過ごした後、2003/2004シーズン、「9」はASモナコFCにレンタルされた。ここで人々は、蘇った最高のモリエンテスを目にする。このクラブでモリエンテスはUEFAチャンピオンズ・リーグのファイナルに到達し、得点王にもなった。2004/2005シーズン、レアル・マドリーは彼を取り返す。しかしモリエンテスはこのチームでの先発を手に入れられず、このため2005年の冬に、リバプールへの移籍を決めた(この年、リバプールはチャンピオンズ・リーグのタイトルを手にするが、レアル・マドリーでこの大会に参加していたため、モリエンテスは1試合も出場することができなかった)。「レッズ」で、モリエンテスはヨーロッパ・スーパーカップ(2005)とイングランド・カーリングカップ(05/06)を手にする。プレミアでの2シーズンの後、モリエンテスはスペインに戻り、バレンシアに籍を置いた。

「ラ・ロハ」におけるゴレアドールの表彰台
レアル・マドリーのダンス・カップル、フェルナンド・モリエンテスはスペイン代表でも、マドリディスタのカピタンとダブルスを組んだ。代表デビューは1998年3月25日、ビゴ(ガリシア)で、スウェーデンに4-0で勝利した試合。この時モリエンテスは2ゴールを挙げた。何よりも目覚しいのは、ワールド杯フランス大会(1998)、日本・韓国大会(2002)、ユーロポルトガル大会(2004)に参加したことに加え、モリエンテスが歴代ゴール数の上位に入ることだ。27ゴールは、ラウル(44ゴール)、イエロ(29ゴール)に続いて、スペイン代表歴代3位となる。

特性
フットボール選手として、空中戦、力強いショット、両足の能力が強調されている。ペナルティエリアの「キラー」であり、そのゴレアドールとしての嗅覚は、彼がたどってきた豊かなキャリアの中で示されてきた。スペイン、フランス、イングランドという欧州の主要リーグの中の3つで、その目覚しさを見せることができたのだ。

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という紹介でした。以下、言いたいこと&感想。
○フルネームの記述が、Fernando Morales Sanchez。モラレス? 公式、一番大切なところを間違えないでください。
○いや、もしかしたらこれまで知らなかっただけであって、モリエンテスの本名はモラレスさんだったの?
○公式キャッチフレーズ「El gato de Sonseca」。ソンセカのネコ。うーん……弱そう。ていうか、なんでネコ? どのあたりがネコ?
○「Acehuche」と生まれた町の名前まで正確に書いてあります。グーグルマップで検索すると、あとほんの数十kmでポルトガルという、スペインの端の方の、湖と川がいっぱいある、町を離れたが最後しばらく何にもなさそうな…。でも風景は良さそう。
○人口は960人だそうです。
○モナコで活躍した件で、マドリーに勝ったことには触れてません。
○リバプールではイマイチでしたが、それでも活躍したことにしてくれている。優しい。
○代表ゴール数は今3位となってますが、これはまもなくビジャに抜かされますね(確かビジャは今25ゴール)。モリエンテス、さすがにもう増えないだろうなあ…。
○ちなみに、1試合あたりのゴール率もなかなかのモリエンテスですが、これも確かビジャに抜かされてた気がする。
○あえて言うならば、1ゴールするのに必要な時間(もしくは出場時間あたりのゴール数)、という計算をしていただくと、相当な記録になるはずのモリエンテス。代表では、先発試合数もフルマッチ出場試合数も多くなかったのに、ちゃんとゴールしてた。はず。
○現役の選手の中で「レジェンド」にページをもらっているのは、セードルフ、ロベルト・カルロス、エルゲラ、フィーゴ、マケレレ、ロナウド、ベッカム、そしてモリエンテス。


息子へ

2009-04-03 06:58:32 | football
インターナショナルウィークが終わり、選手たちがチームに戻ってきました。

でもバレンシアは
代表選手の合流はなし。試合が日曜日ですし、移動も長かったことで休養となったようです。
今週末、ヘタフェと対戦するバレンシアは、サスペンションでバラハ、マルチェナ、アレクシスが出場できない。また、この日のトレーニングで全体練習ができなかったホアキンも、やはり復帰は難しいとの見方が出ています。ホアキンは、ずっと引きずっていた筋肉の問題ではなく、恥骨炎のようで…って、たいてい恥骨炎も慢性的になっているんですよね。ホアキン、辛いなあ。ミゲルは、まだ完璧ではないようですが、一応召集には入れる状態ではないかとのこと。

とりあえず試合はメスタージャだし日曜日だし、金曜と土曜の様子を見てから、召集が決まると思います。代表で太腿を痛めていたビジャの様子も心配。


不揃いのマドリー
こっちは土曜日に試合のマドリー。トルコ帰りのセルヒオ・ラモスとイケルは、トレーニングに参加したとのことです。
でもそれ以外の代表組、オランダとかフランスとかポルトガルとか傷心の南米組とか(アルゼンチン2名は心が心配、マルセロは代表戦で脚を痛めたようでこちらも心配)、木曜には合流できなかったようです。


父より
ASに載ってたこんな短い記事。
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ジネディーヌ・ジダンが、初めて息子エンツォのフットボール選手としてのクオリティについて語った。エンツォは今、レアル・マドリーのカンテラに所属している。ジダンは、自身がコメンテーターを務めているフランスのカナル・プリュスの番組内で、次のように語った。「エンツォは、ジダンというラストネームが意味することを、それからは逃げられないのだということを、完全に理解している。彼はそれを意識しているし、私もそれをはっきりさせてきた。彼の脚は柔軟性がないものではないよ。」
これがジダンから息子に向けられた言葉だ。ジダン・フェルナンデス一家はマドリーに住み、エンツォは既に14歳で、マドリーのインファンティルで彼の父親を彷彿とさせるスタイルとクオリティを見せている。エンツォは既に、15歳以下のマドリー代表でもデビューした。
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父語る、という内容。日本語だと否定の否定になってますけど、あの子の脚には柔軟性があると、さらっと一言、褒めてるのかな。Youtubeなどで、いくつか映像が見られます。編集のせいもあるとは思いますが、やっぱり上手いです。


で、このエンツォ君について、1週間ほど前に話題になっていたのがこんな内容。3月25日付。
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ジネディーヌ・ジダンの息子、エンツォがスペイン代表に招集される可能性

今日、いくつかのフランスの新聞によると、ジネディーヌ・ジダンの息子、エンツォ・ジダン・フェルナンデスが、スペイン代表の下部カテゴリーでデビューする可能性があるということだ。エンツォ・ジダンは、スペインU-15にまもなく召集されるだろう。
父親のおかげで、どの代表に入るかわからないことで、現在レアル・マドリーの下部組織に所属するこの若い才能の召集の可能性は、反響を呼んでいる。
エンツォ・ジダンは中盤の選手で、そのプロフィールは問題になっていない。この年齢の少年としては、フィジカルトレーニングのコンディショも十分である。優れたボールコントロール、能力、贅沢さ、声でのコントロール、空中戦。
エンツォの名前は、彼の父親のアイドル、フランチェスコリ(ウルグアイのプリンシペ)から来ている。彼の中には、ワールドチャンピオンの血と名前がある。偉大な将来を秘めた小さなフットボール選手。そして彼は、家族によってより評価される宝を受け継いでいる。力、優雅さ、そして試合への情熱。
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現在スペインに住んで、スペインのクラブチームでプレイしている。しかもお母さんはスペイン人。当然ながらスペイン代表の資格ありです。確か現行の規定では、ユース代表とフル代表が違っても良いはずで、フル代表になる頃にスペインとフランスのせめぎ合いがあるかもしれませんが。今14歳ということは、あと3、4年もしたら、そんな話題も出てきそうです。


新監督
アラン・シアラー、ニューカッスルの監督就任。