星降るベランダ

めざせ、アルプスの空気、体内ツェルマット
クロネコチャンは月に~夜空には人の運命の数だけ星がまたたいている

ロートレック展

2007-10-16 | 持ち帰り展覧会
似顔絵を描いてもらったことが、一度だけある。
5年位前、南河内万歳一座の公演会場内で、万歳一座のチラシを描いている長谷川義史さんが、葉書大の客の似顔絵をささっと描いてくれるというサービスがあり、しばらく二人で画家の前に立っていた。
…できた絵を見て驚いた。そこには、ぼーっとした表情の疲れた中年男女が描かれていた。それが、自分たちであると、なかなか認識できなかった。

その日、私達は、それぞれの仕事の後、会場で落ち合った。
万歳一座を観にいくには、少し不似合いなスーツ姿だった。私は2時間前に3時間以上にわたる長い押し問答のような面談を終えたばかりだった。夫がその日どんな仕事をしてきたのかは知らない。
葉書大の似顔絵には、お互いを知ろうともしない日々が積み重なったような、でもなぜか一緒に年とった疲れた二人が並んでいた。
ショックだった。
他人の目には、今の自分達がこんなに老けて見える。
ばりばり仕事をこなしてると思っている自分がこんなうつろな顔をしている。
長谷川義史さんのチラシの絵は好きだった。
画家は真実を描くはず。私達がこんな二人だとこの人の目には見えている。
その事実に向き合う気力が、その時はなく、ただ打ちしおれただけだった。

その絵を再び見る勇気が出たのは、天保山サントリーミュージアムで開かれている「ロートレック展」に行ってきたからだ。

彼の描くイヴェーヌ・ギルべールは、一目見て美しくはないが、彼女が紛れもなく、歌うために生まれてきた女であることを伝えている。彼女の宣伝用「アルバム」の中には、ピアフのように細い身体の彼女の口から出る歌が聞こえてくるようなスケッチの他に、ステージを終えて、全身の力が抜けきって崩れ落ちそうになっている彼女の、日常が描かれている。きっとこれを見たイヴェット自身は、他人の目にはこう映るんだ、などという愚かな感想ではなく、そこに描かれている自分を確かに自分の一部だと感じたのではないか、そして、自分がとても愛おしくなったのではないかと思う。

今私は、5年前の自分の、自分達の状況が、その葉書大の似顔絵に現れていることを、確かにこんな自分たちであったんだと、納得できる。
きっと今なら、もう少し微笑んで、幸せそうな二人に描いてもらえるのではないかと思う。ただし、今度は太っていることに衝撃を受けるかもしれないけど…。

ところで、私がロートレックの絵を一番最初に知ったのは、ポスターではない。
「マルセル」である。
1975年、新聞に、白黒写真の彼女の横顔が載っていた。1968年京都国立博物館で開催されていた「ロートレック展」で盗難にあった絵画として。横顔の彼女のつんと上を向いたキュートな鼻が好きだった。
                   
                  

今回、その「マルセル」の絵は、残念ながらなかったけど、踊っている彼女はいた。
身長140センチの人生を生きざるを得なかった彼の周囲で、生きている多くの人間が、展覧会場にいた。
ロートレックによって描かれた人物は、誰一人今生きてる人はいない。
ただ、画家がこれを描いた瞬間の彼女達は、紛れもなく、そこに存在していた。
彼の絵の中では、パリの踊り子や娼婦たちが、これが自分よ、といえる一人の人間として、存在している。 

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