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なぜ日本は心地よい国なのか

2017-10-05 18:03:49 | 歴史から学ぶ

@「平和」とは戦争を体験していない今の世代では当たり前の世界である。日本の「平和」はなんと江戸徳川時代に生まれたという。それは「生類憐みの令」。だれもが一度は聞いた、学んだ吉宗の改革である。私の記憶でもこれは「悪い犬公方」としか記憶がないが実はこれをもって人の心を転化させたとある。いわゆる「殺す支配」から「生かす支配」へと転換した「命の尊さ」を学んだと言うことらしい。 それは最後の章にある「島原の乱」から派生した「皆殺しで年貢を納める農民がいない」=武士だけでは治世を納めることはできないと、武家社会は農民の年貢で生活していることを身を以て悟ったのである。

  • 江戸時代はなぜ平和だったのか、人命を尊重した徳川時代
  • 世間の声「日本に生まれてよかった」「この国に住み続けたい」。それは日本が「心地よい国」「平和な国」だからだと言う。またそれは落とした財布が戻ってくる、自動販売機が盗まれない、リテラシーが高い・・「徳川からの平和」がある。世界でも稀な260年の長期間
  • 『1806年「鎖国」が守った繁栄』
  •             鉄砲の進化で植民地化が始まる
  •             ロシア・ラスクマン・レザノフの来日国交交渉が日本初
  •             ロシア船襲撃事件(露寇事件、11代将軍家斉)当時幕府は海防対策など何もしておらず戦争しらずの平和であった。事件に津軽兵を百名程警備に当てたが72名が冬を越せず亡くなった。幕府は「民命」を重視、鎖国論へと動くが、開国論も動き始めた。
  • 『1783年飢餓が生んだ大改革』
  •             吉宗・田沼意次政策=米の価格の下落を押しとどめる政策、収穫に応じた年貢量を固定化、年貢率も引き上げ、殖産興業政策推進
  •             田沼の政策は幕府の金蔵を満たすことだったが天候不順等で回復できず、「財政あって福祉なし」=対価を行政サービスとして民に施すことができず、一部田沼への賄賂になった
  •             浅間山大噴火から天明の飢餓=被災村数55、流死者1624名、流失家屋1151戸、田畑被害5055石、火山灰は関東一円に降り江戸でも3センチ程積もった。これにより火山灰が成層圏まで達し太陽の照射を妨げることで気温が低下、冷害で作物不作となった
  •             天明の飢餓は毎日1千人から2千人が餓死した
  • 江戸時代の3代飢饉「享保の飢饉」「天明の飢饉」「天保の飢饉」
  • 天明飢饉後は約92万人の人口減少、6年後にはさらに19万人減少
  • 一揆・暴動で市中は無警察状態になり、火付け盗賊改方の長谷川平蔵が登場し沈静化していく
  • 反田沼派は奥州白川藩松平定信を擁立、田沼政権は15年で終焉。飢餓=一揆=打ち壊しと続く中、米中心の農業構造が変わり始めた
  • 松平は自然災害への蓄えや金銭を蓄える政策を推進、「郷蔵」という貯蔵庫をつくった。また、儒教から「政語」政治的課題の13か条を発令、年貢取立役の地方代官58人中44人を新たに任命、世襲制から有能な代官に総入れ替えした。
  • その一人陸奥の国塙代官寺西封元は36年間仕えた。まず農村を巡回、橋の復興や護岸工事等土木行政を中心に労働力をつけ貧民救済もした。また、人口増加の為「小児養育金制度」で養育費を支給、貧困者には籾2俵を支給、貧しい家でも子を養育できるようにした。その他国からの移住も斡旋し農村の教化に努めた。
  • 幕府は軍事政権から民生重視の政府に転換、学問所や藩校を作り家柄関係なく教育に力を入れた
  • 『1707年宝永地震 成熟社会への転換』
  •             幕府や諸藩は積極的に新田開発に力をいれ日本全国の田畑面積は江戸時代の初めの2百万町歩が18世紀には3百万町歩となった。人口も15百万人が3千万人に増えた
  •             この地震(マグネチュード9.1〜9.3と推定)と巨大な津波(〜10m)で当時36万の大阪の街は1061軒の家屋が倒壊、564名の死者、津波では伊豆下田の5〜7mで912戸、11人が溺死、紀伊半島では地震で12百戸、10mの津波で5千戸、28百名の死者・行方不明者がでた。大阪湾には地震発生後約2時間後に津波が到達、約7千名が溺死。環境破壊と自然のしっぺ返しで耕地が減少、人口も4.5%減少した
  • 江戸社会では「量的な拡大から質的充実へ」と教育の普及により庶民の識字率は世界でも突出しており、「農書」なども多く出回り農業改革が進んだ
  • 『1637年島原の乱「戦国の終焉」』
  •             反徳川的な動きを限りなく武力で弾圧した、特に大名家
  •             後継者=世継の不在も処分対象となり、大名の配置換え等
  •             特に改易=お取り潰しの処分を断行(全国130名の大名)
  •             没収した領地は14百万石に及び徳川一門、譜代大名を配置
  •             老中等の譜第大名は大した石高を与えず権力と戦力分離をした
  •             徳川幕府最後の戦いである島原の戦いは武力の背景「武威」
  •             島原の乱はキリシタン鎮圧が主だったが幕府側は総勢12万4千人の大軍で原城に籠もった一揆勢2万3千とも3万7千人とも言われ、一揆勢は全て殺戮された。幕府側の死者は1万2千名とも言われ、当時全国の武士の1割以上に達し、特に島原・天草の農民・住民を殺戮したことで多大な代償をかけ回復させた。農民がいない為年貢が無く他から移住を募り、10年間の年貢減税などの措置等を余儀無くされた。
  • この乱により幕府は「武断」から「任政」へ舵をとることになる。武士は戦に精を出し、君主の馬前で討死することが忠義であったが、泰平の世では領民の統治にあたる武士としてのふさわしい「徳」をそなえることが大事となる
  • 江戸時代には改易による浪人も多く(約40万人)5代将軍綱吉による「武家諸法度」で武道に励むこと、礼儀を正すことになり、忠孝、礼儀による上下の秩序維持が第一とされた。
  • 「生類憐みの令」による「慈悲」「仁」の心を持たせることで「命」を尊重するという価値観が社会に根ずいた。綱吉は悪い犬公方とされているが実は綱吉こそ徳川の平和に大きく貢献した。「殺す支配」から「生かす支配」へ転換した
  • 鎌倉幕府では「獄前の死人、訴え無くば検断せず」が江戸時代になると幕府が捜査し、犯人を検挙するようになる(人権意識改革)
  • 江戸時代には「命を大切にする」=徳川の泰平
  • 渡辺崋山の「百年の計」長期的な視点を失わないようにすること


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