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松平信綱に学ぶ災害、コロナ禍後の工夫

2021-03-14 08:57:33 | 歴史から学ぶ
信綱は幼い時から君主に忠臣で真面目、君主の先手先手を読み堅実な行動ができた参謀的武将だったと読める。何事も慎重に人の立場を考え、知恵工夫で提言している。明暦の大火では再発防止と城下に住む人々の生活視点から街の構築、また川越城下町、農耕民と町民の暮らしの改善なども隅々の人々までの心遣いなど、多くの人々との交流により知識と知恵を蓄積していったのではないかと想像できる。 明暦の大火では難民に1ヶ月近く食料を提供し、再建のために武士、町民にも金を提供(10年で返済する条件)したことは現代の政治家でも見習うべきことではないだろうか
『松平信綱』大野端男
・松平伊豆守信綱、江戸前期の老中、将軍家光、家綱に仕え、知才溢れ忠勤により小姓から老中に出世、59年奉仕する。家光との関係はその内47年、君主に忠実に多くの知恵と功績を残した家臣だった。島原の乱を鎮圧し、由比正雪の乱・明暦の大火などの危機を乗り切り、幼君家綱を助けて幕府の確立に尽力した。川越藩主としても23年余りかけ城下町を復興、農政にも時間をかけ、「小江戸」川越の基盤を築いた。その才知から多くの逸話が残る「知恵伊豆」の実像が見える。家光からは「右手は讃岐(阿部忠秋)、左手は伊豆(信綱)」「伊豆守の如きものを今一人持ったならば心配はない」と信綱への信頼は絶大だった。
・小姓時代の逸話
    叔父の松平正綱(幕府の勘定頭)に対して「代官の子で口惜しい、恐れながら御名字を下され養子にしてほしい」と養子奉公を自らが願い出た
    「才あれど徳なし」と言われ茶の湯、舞、将棋など好まず下戸だった
    同僚の阿部忠秋、同じく老中(上戸)で信綱より言うことなす事が遅いが才智があった
    大奥の長廊下で秀忠と出会し褒められる、それは常に警戒心を払い深夜でも待機していた
    将軍の屏風を年長者らが破損したとき、自らやりましたと正直に言上したこと
    将軍がお召しの時には人より早く出向き待ち構える、帯を緩めず髪もそのまま寝ていた
    日暮れ時に葭原で道に迷った時に、夕日の西に向かえば迷わないと意見する
    秀忠の寝所の屋根に雀が巣を作ったのを家光から巣を取れとの命に日没に雀を捕らえる。ところが秀忠が刀を持って飛び出るという惨事を犯してしまった(雀が治る時間を見計った)
    将軍の命で庭にあっった大石を外に出すことに対して、穴を掘り埋めるという案を提言
・島原・天草キリシタン討伐
    島原藩の藩政が悪く一揆が引き金となり藩がキリシタンを前面に押し出したと言う理由
    オランダ船を使い海からの砲撃を開始(ポルトガルからの加勢が無いと思わせる)
    兵糧攻めを見定めるため捕虜の腹を掻っ捌く(胃袋検分で食が尽きたと断定)
    籠城した男女3万7千名を梟首、味方側も飯倉重昌含め1127名殉死した
    鎮圧費用は銀高113貫693匁、大阪城より金239万8千両とある
    キリシタン禁制から本格的な鎖国政策(ポルトガルからオランダへ移行・出島へと変化)
    武家諸法度改訂・禁教・ポルトガル人追放・朱印貿易断念
・川越城・藩主
    武蔵國忍3万石から3万石の加増を受け寛永16年1月5日入封
    川越城再建(富士見櫓と城郭)と城下町整備(藩士と町人の配置を明確)
    喜多院(後の天海在住)・仙波東照宮の再建
    新河岸川・柳瀬川治水事業(川越と江戸を結ぶ運河)
    野火止用水(江戸飲料水確保・玉川上水)・武蔵野開発
    法令の整備(農村・農民へお対応を重視:麦の二毛作)
    川越商人に対する配慮:「商いの心」:榎本弥左衛門
    「貧乏神と福の神」夫と妻の勤めとして特に妻への贅沢を貧乏神として働くことを奨励
・由比正雪の乱(1651年7月23日夜)
    情報網を確立、諫言、密告等を速やかに得た
    正雪は兵法家で新井白石門下楠木流
    乱の要因は牢人反乱を装い幕府を混乱(江戸城の爆破、大阪城籠城、京都二条城乗っ取り、駿河久能山の金藏を入手)転覆させる目的だったが、幕府により正雪は自刃、五十七人が拿捕、獄門、貼り付け、処刑、斬首された
・明暦の大火(1657年1月18日)
    2日間、大名屋敷500軒、士民家屋多数、神社仏閣300余所、そうこ9000余、橋梁60、町家800町、江戸城の西の丸・天守閣・富士見櫓含む22里8町が全焼
    幕府は4大名に粥を府内六箇所に設け米1日1000俵2月2日まで続けた
    諸国大名には江戸の人口を減少させ米蔵を保持するため江戸参勤を禁止、飢餓救済優先
    居宅を無くした武士たちに恩貸・賜金を設け10年返納として大金を貸した
    死傷者は10万8千人とあるが回向院過去帳には2万2千人とある
・大火での教訓 
    江戸市中の家では地面に穴を掘り貴重品全てを埋めていた(江戸敷地の10分の1)
・信綱の遺言
    同僚の阿部忠秋に世間の噂(二人の仲違い)を揉み消し家族の保護を願い出た
    今迄の家光・家綱からの多数の手紙を焼き払いそれを一緒に納棺して欲しいと願った
    67才で没、十二人の子沢山