@幕末から幕府・明治政府の外国人受け入れの経過を辿った書物。「攘夷」と叫びながらいつの間にか西洋文化を積極的に取り得れ経済成長を視野に入れた明治政府。古びた幕藩体制をひっくり返す口実が、実は鎖国で「世間知らず」を思い知った幕末の獅子(開拓者)だったことだ。現代、情報ネット社会にも関らず、時代遅れの制度・規制・既得権に縛られたままの「バブル時代の継続」ではこの先日本は「沈没」するかも知れない。若き獅子たちの出番を期待したい。
日本のデジタル化の遅れは経済の遅れとも連動していることを知るべきだ。
『幕末江戸と外国人』吉崎雅規
・「鎖国から開港」を機に江戸にも外国人が住みはじめた。
1854年3月3日ペリーと日米和親条約締結
1857年10月7日タウンゼント・ハリス初代総領事江戸に入る(江戸市民18万5人見物人)
ハリスの言葉「サッ」という先触れの言葉しか聞こえず静かだった
交渉方:川路聖謨海防掛勘定奉行(水戸徳川斉昭らが猛反対、延期させた)
1858年 4月井伊直弼大老・7月13大将軍家定逝去・7月外国奉行設置
オランダ、ロシア、イギリス、フランスの欧米5カ国と修好通商条約締結
1859年 8月安政の大獄・外国人殺傷事件勃発・6月横浜・函館・長崎開港
アメリカ・イギリス・ロシア・フランス総領事館設置
1860年 3月桜田門外の変・9月吉原遊廓大火・11月通訳ヒュースケン暗殺
1862年 12月 高杉晋作らのイギリス公使館炎
1863年 5月長州藩米商戦砲撃・7月薩摩藩英艦隊交戦(薩英戦争)
1864年 6月白河藩善福寺警備・8月長州藩と英仏米蘭下関戦争
1865年 10月孝明天皇条約を勅許
1866年 7月徳川家茂死去・12月徳川慶喜将軍・孝明天皇崩御
1867年 10月大政奉還・12月薩摩藩邸焼き討ち
1868年 1月鳥羽・伏見の戦い・3月江戸開城・10月明治天皇江戸入り
・宿場・滞在場所
アメリカ ハリス:善福寺 (公家等が宿泊する指定寺)
イギリス オールコック:東禅寺
フランス ベルクール:済海寺
ロシア:天曉院
オランダ クルチウス:真福寺
・遊歩区域・馬車
外国人は多摩川(六郷川)を境界線が定められ江戸入りには特別許可証が必要
1865年には初めて馬車なるものに松平老中が乗りロンドンの新聞にも掲載
1871年馬車道路を整備(伊皿子坂等)で歩道と車道を分離するようになる
・日本人の洋装・花見・外国人遊興立ち入り
1866年 幕府から西洋軍服の命令・髷を切り始めるのもこの頃
1867年 花見(上野公園)規制付き解放・商売拡大(気前の良支払い額)
外国人の遊興・飲食施設への対地理を許可(吉原は別格で遊女が拒否)
1869年 外国人向けの市場(開市)が築地に、その後新橋・銀座に広がる
・諸問題
密航:境界線(多摩川)を越える外国人(日本人に変装)が絶え間なかった
飲酒:品川宿場での酒飲み・酒盛り女(外国人を取り締まる役人が居ない)
お賽銭減:檀家・盆暮れの法会によるお賽銭減・各お寺からの苦情・寺移動
鳥猟:鉄砲で借りをする輩(江戸10里四方猟の禁止)
吉原と猿若町:大火で仮宅をまとめ外国人出入の管理(新吉原&歌舞伎)
外国人警備:外国方・町奉行・目付が担当約60名(更に地方の藩にも及ぶ)
国公舘に100名から170名、公使がいる場合は300名にもなった
大名任命:越後与板・肥前島原・伊勢亀山・大和郡山・越後高田・美濃大垣
背景:攘夷の高揚(諸藩の事情:人手不足・武士の魂・礼儀等)