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政治の改革は増税から『山縣有朋の挫折』

2019-03-11 07:57:10 | 歴史から学ぶ

@明治から大正にかけての日本の政治経済は混沌とした。政治の中心役となった長州志士、大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允など、また軍人出身の黒田清隆内閣から松方正義内閣、伊藤博文内閣など暗殺、内閣総辞職など目めまぐるしい変革を繰り返した。その中でもこの山縣有朋は下級武士から軍人、海外視察を経験し、そして政治家(第一次山縣内閣と第二次山縣内閣)となった人物で「地方自治制度の父」と言われているという。何れにせよ、借金だらけの明治政治体制から日清・日露戦争勃発でさらに借金に拍車をかけた財政赤字政策は「地方からの大造増税」しかなかった、それを仕掛けた人物なのだ。 現代でもある「取れるところから搾取する税法」を構築する、その為の「目先の変化で、他をぼかす」政策には納得がいかない。ここにある明治から「臥薪嘗胆」と唱えながら、様々な市町村統合で見かけを躱し、実は裏では税収益を増やす政策を公布していたのだ。政治家の「景気動向を安定継続させている」とは言え(統計の嘘かもしれない)、実際に家庭内、個人的な使えるお金は減っているはずだ。それは様々な物価上昇もあるが、それ以上に諸税・新税が次々に導入されことごとく徴収されているからだ。 いい例が一律庶民から吸い上げる「消費税」は、「公平で平等」だ、と言う。そうだろうか? 政治家の「出世・自己安泰ツール」に利用されてはいないだろうか。

『山県有朋の挫折』松元崇

  • 「誰がための地方自治改革」
  • 山県有朋の人物像、「人は権力を離れてはならぬ。故に自分も権力を維持することには力を尽くしおるものなり」と権力欲を示す、現実政治家だった、いわゆるマキャベリ的な人物で原敬も同じであった。生い立ちは、1838年長州下級武士の家、足軽よりも下層の仲間の家。村田清風の抜擢で尊王攘夷派の幹部になる。軍人としては1863年以降の戦争ではどれも大敗しており「一介の武弁」と自認、何事も他人の意見に従う人物だった。国民には理解されず、山縣が逝去したとも2.26事件などを暴走する人材や、政友会などの輩出もあった。原の暗殺は山縣の一派である。
  •             我が国の地方自治制度の父と言われるのは山縣有朋であり、日本の伝統的なコミュニティーを土台に西欧諸国(特にドイツ)の良いところを取り込んで明治の地方自治の基礎を作り上げた。その後原敬の政党制の基盤、東京市長になった後藤新平等によって自治の発展を図った。だが、1923年の関東大震災において国民総生産の3分の1を奪い去り、東京の人口335万人が、東京、横浜で340万人が罹災し、10万5千人あまりが死亡したことで改革が止まる。1928年に我国初めての普通選挙では地方分権が争点となった。
  • 明治政府では地方の職員は無給(名誉職)で7割もいた。リーダーも「出たい人より出したい人を」で選んだ。よって選挙に金がかからなかった。大金がかかるようになったのは大正3年の大隈重信内閣から。
  • 日清戦争後の起業ブームで銀行が乱立した。明治26年は762行が明治34年には2334行となった。
  • 福沢諭吉はトクヴィルに影響され「幕藩体制下の諸制度を基本に所用の改革を加え運用する事」とした。トクヴィルの予言は「文明の著しく進んだ社会は地域共同体の自由の行使を中々許さない」
  • 大久保利通は明治11年に地方制度の改革「3新法の制定」を行い、山縣有朋は江戸の自治を踏まえた国家像を築いた。明治政府は借金からスタートしており、地方から財源を吸い上げた。明治2年(1969年)政府予算は2977万円で太政官札発行、地租は466万円。財政改革のため地方の統合で廃藩置県時の306の県は明治9年には35県になる。この統合には西郷の一言の承諾があった。民費として徴収する地税が導入され、民費から地方自治体への補助金が捻出され、6.4%(743万円)、国庫交付金120万円なども加わった。
  • 大久保利通は国の安全のための富国強兵が優先、殖産興業も力を入れた。そのため地租改正で大増税を実行した。明治5年の2005万円から明治6年5060万円。この増税により西南戦争が勃発した理由となる。大久保の3新法案を地方官会議に府議した翌月大久保は暗殺される。3新法案とは郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則。
  • 大久保は殖産興業政策で国内博覧会を明治10年に開催、西南戦争中にも関わらず45万人、2回目で82万人、3回目で102万に動員した。東京の人口は74万人だった。
  • 山縣有朋の「自治元来是国基」の訓示を行い、自治制度を作り上げた「まず地方自治の制度を確立して国家の基礎を固め、動きなき安全なる地盤の上に代議制を実施する」とした。基本は内務省の山田内務卿の「町村法草案」を採用した。また、江戸以来の自治を尊重しながら近代的な自治制度を導入しようとした。そんな中、海外との条約改定で日米通商での関税率は5%と英国・米国の40〜50%の自由貿易の関税収入差別に取り組んだ。ドイツ人アルバート・モッセ法律顧問の説明の元地方自治制を国会開設に備えての立憲制の学校にするよう動いた。ドイツは君主制の元に憲政上、一般の施政と地方自治が調和していた。町村の増税・財政力強化で大合併を断行する。明治21年7万1314町村が翌22年には1万5820町村、5分の1にした。山縣の「町村合併処分とともに町村有財産の統一を遂行することを餌りしては今に尚遺憾とするところなり。」と悔いた。
  • 市町村の選挙有権者の条件、公民は名誉職とされ、有権者は満20歳以上の男子、2年以上住み、地租を収め、直接国税2円以上納めるものとされた。名誉職として無給の職員は全国に9万人ほどいた。残り3万人には有給職員がいた。
  • 明治18年から43年の日本の成長率は9%(英国は3%)
  • 日清戦争の戦費は2億1千万円、日露戦争が19億8400万円で地方財政は緊縮した。日清戦争後は「臥薪嘗胆」として富国強兵=大増税となった。明治28年の軍事費は2300万円が明治30年には1億1千万円(国の予算の50%)海軍費7600万円だった。
  • 日清戦争後、日本にコレラ、赤痢・腸チフス・天然痘などが多発し、大正期には毎年8万人の死者を出した。第一次世界大戦後にはスペイン風邪で全国の3分の1にあたる2380万人が罹患し、38万人の死者を出した。明治43年には庚戌の大洪水で被害総額は1億2千万円(今日の15兆円規模)
  • 国は人税(所得税など人中心の税)中心、地方は物税(地租や家屋税など)中心とな理、内務省と各省庁との権限争いが勃発